秋雨十一日目、乾燥機は満員
十月の雨が十一日目に入った午後五時、コインランドリー「ひだまり」は、店名と正反対の空気に包まれていた。
曇ったガラス窓。濡れた傘。床に並ぶ泥の足跡。
六台ある乾燥機はすべて回っており、低い唸り声を重ねている。待合用の長椅子には七人が座り、立ったままの客が四人。全員が壁の時計と乾燥機の残り時間を交互に見ていた。
「四号機、あと何分?」
「表示は六分です」
店番をしていた久保田奈穂は答えた。
二十六歳。短い黒髪の片側だけを耳へかけ、紺色のエプロンを着ている。母から店を引き継いで一年になるが、これほど雨が続いた秋は初めてだった。
「さっきも六分だったよ」
四号機の前に立つ野菜店の店主、越川が疑わしそうに言った。
「三分前から六分です」
「六分が長いな」
「今、機械の中で何かが起きてるのかもしれません」
「乾燥以外のことを起こさないでくれよ」
奈穂は四号機へ近づいた。
丸い窓の向こうでは、白いタオルと茶色いエプロンがゆっくり回っている。表示は確かに残り六分。しかし、数字は一向に減らない。
試しに一時停止ボタンを押した。
反応がない。
「四号機、反抗期です」
奈穂が言うと、待っていた客たちから一斉にため息が漏れた。
この十一日間、町の洗濯物は乾く場所を失っていた。
ベランダへ干せば雨に濡れる。室内へ干せば、湿気で窓まで曇る。厚手のパーカーやジーンズは二日たっても冷たいまま。近所の住人たちは、乾燥機の空きを求めて「ひだまり」へ押し寄せていた。
朝七時から満員。
昼も満員。
閉店直前まで満員。
昨日は、乾燥機の前へ洗濯籠を置き、順番を取ろうとした客が三人現れた。
その結果、店内に籠だけが七個並び、持ち主が誰なのか分からなくなった。
奈穂は受付表を作った。
《氏名・洗濯物・希望する乾燥時間》
ところが今度は、《洗濯物》の欄へ「白いの」「だいたい服」「家族四人分」と書く人が続出した。
管理が楽になった気はしない。
「修理の人、来られそう?」
越川が尋ねる。
「道路が混んでるから、一時間くらいかかるって」
「中のエプロン、明日の朝市で使うんだよ」
「茶色なら、少しくらい湿ってても分からないんじゃないですか?」
「色の問題じゃない」
待合席にいた小学五年生の結菜も、心配そうに四号機を見ていた。
中には彼女の体操服が入っている。
明日は学校で持久走の記録会があるらしい。
「体操服が乾かなかったら、走らなくていい?」
結菜が母親へ尋ねた。
「学校の予備を借りなさい」
「それは嫌」
「じゃあ制服で走る?」
「もっと嫌」
「走らない選択肢は?」
「ありません」
母親の答えに、結菜は肩を落とした。
奈穂は四号機の電源を一度切り、入れ直した。
表示は変わらない。
残り六分。
「止まった時計みたいだな」と越川。
「せめて一日に二回、正しい時間を示してほしいです」
そこへ自動ドアが開き、冷たい風と一緒に新しい客が入ってきた。
大学生らしい男性が、巨大な布団を抱えている。
「乾燥機、空いてますか?」
店内の全員が彼を見た。
「今日じゃないと駄目ですか?」
奈穂が尋ねる。
「昨日、ベランダへ出して寝たら、朝びしょ濡れで」
「なぜ雨の予報で布団を出したんです?」
「夜中に止むと思って」
「雨を信頼しすぎです」
男性は濡れた布団を抱えたまま、店の隅へ立った。
午後五時二十分、五号機が停止した。
待っていた美容師の女性が立ち上がる。扉を開けると、温かいタオルの匂いが店内へ広がった。
その空いた五号機を巡って、受付表の順番が確認された。
次は、保育園のシーツを抱えた男性だった。
しかし男性は、結菜の体操服を見て言った。
「先に使っていいよ。体操服なら、そんなに時間かからないだろ」
「いいんですか?」
「うちのシーツは、園児が寝るまでに乾けばいいから」
「園児、何時に寝るんです?」
「明日の昼」
「余裕ありますね」
結菜の母親が頭を下げた。
だが、四号機は扉が開かない。体操服を取り出せなければ、五号機へ移せない。
奈穂が説明書を探している間に、外の雨が強くなった。
屋根を打つ音が大きくなり、入り口付近に置かれた傘から水が流れ落ちる。
そして午後五時二十七分。
店内の照明が消えた。
乾燥機の回転音も、すべて止まった。
暗闇の中で、誰かが言った。
「秋って、こんなに厳しかったっけ?」
非常灯がついた。
ガラス窓の向こうを見ると、隣の花屋も、向かいの喫茶店も暗くなっている。通り一帯の停電らしい。
奈穂はブレーカーを確認したあと、電力会社の情報をスマートフォンで開いた。
「復旧見込み、午後七時半」
店内に、十一日分の湿気を集めたような沈黙が落ちた。
「閉店、七時だよね」と越川。
「今日は延長します」
「二時間も何する?」
奈穂は乾燥機の中に閉じ込められた洗濯物を見た。
非常時用の解除レバーを使えば、扉は開けられる。ただし、出したところで電気がなければ乾かせない。
その時、隣の花屋の店主が懐中電灯を持って入ってきた。
「停電、そっちも?」
「通り全部みたいです」
「困ったね。うち、暖房も止まった」
花屋の後ろから、喫茶店の店主も顔を出した。
「こっちはガスが使える。お湯ならあるよ」
「洗濯物を煮るわけにはいきません」
「人間用だよ」
奈穂は店の奥を見た。
洗濯籠、折り畳み式の物干し、ハンガー、洗濯ばさみ。さらに、夏に使った大型の業務用扇風機が二台ある。
電気がなければ扇風機は動かない。
しかし花屋には、配達用の小型発電機があった。
店先のひさしは、花屋からランドリー、喫茶店までつながっている。雨は吹き込まない。
「外へ干します」
奈穂が言うと、越川が窓の外を見た。
「雨だぞ」
「ひさしの下です。発電機で扇風機を回して、温かい飲み物で人間も回します」
「最後だけ必要?」
「必要です」
四号機の非常解除レバーを引くと、ようやく扉が開いた。
中から、まだ温かい洗濯物が出てくる。
結菜の体操服。
越川のエプロン。
数え切れない白いタオル。
そのほかの乾燥機からも、半乾きの服やシーツを取り出した。
客たちは洗濯物を抱え、隣の花屋へ移動した。
ひさしの下へ長いロープを三本張る。花屋の鉢植えを端へ寄せ、ハンガーや洗濯ばさみで服をつるす。
白いシャツ、子どもの靴下、色とりどりのタオル、保育園の動物柄シーツ。
秋雨の商店街に、急ごしらえの洗濯物通りができた。
発電機につないだ扇風機を回すと、服が一斉に揺れ始める。
「風が弱い!」
越川が叫ぶ。
「手であおいで!」
奈穂が段ボールを渡した。
客たちは交代で洗濯物へ風を送った。越川は自分のエプロンだけを集中的にあおぎ、結菜に注意される。
「ずるい」
「朝市があるんだ」
「私も持久走がある」
二人は並んで段ボールを振った。
喫茶店からは、温かいココアとコーヒーが運ばれてきた。花屋の店主は余っていた鉢植え用の支柱を、追加の物干し竿にした。
濡れた布団を持ってきた大学生は、誰よりも大きな段ボールで風を送った。
「その布団は今日、無理ですよ」
奈穂が言うと、男性は頷いた。
「分かってます。せめて皆さんの分だけでも」
「布団はどうするんです?」
「今夜はこたつで寝ます」
「最初からそうしてください」
午後七時十分。
結菜の体操服は、どうにか着られる程度まで乾いた。
越川のエプロンも、袖口以外は乾いている。保育園のシーツはまだ少し湿っていたが、復旧後に乾燥機へ戻せば間に合いそうだった。
七時二十三分、商店街の明かりが一斉についた。
ランドリーの乾燥機も再び動き始める。
歓声が上がった。
ただし四号機の表示は、再起動しても残り六分だった。
「こいつだけ、停電を経験してない顔してるな」
越川が言った。
「明日、修理します」
奈穂は四号機へ《使用停止》の紙を貼った。
翌朝、雨は十二日ぶりに上がった。
青空の下、ベランダというベランダに洗濯物が並んでいる。町全体が巨大な物干し場になったようだった。
今日は店も暇になる。
奈穂はそう思いながら、「ひだまり」のシャッターを開けた。
店の前には、すでに七人並んでいた。
全員が、毛布やシーツや布団を抱えている。
先頭にいた越川が言った。
「晴れたから、大物を洗おうと思って」
奈穂は空を見上げた。
雲一つない、見事な秋晴れだった。
それから客の列へ向き直り、受付表を机へ置いた。
「洗濯物の欄に『だいたい布』って書くの、今日はなしですからね」
曇ったガラス窓。濡れた傘。床に並ぶ泥の足跡。
六台ある乾燥機はすべて回っており、低い唸り声を重ねている。待合用の長椅子には七人が座り、立ったままの客が四人。全員が壁の時計と乾燥機の残り時間を交互に見ていた。
「四号機、あと何分?」
「表示は六分です」
店番をしていた久保田奈穂は答えた。
二十六歳。短い黒髪の片側だけを耳へかけ、紺色のエプロンを着ている。母から店を引き継いで一年になるが、これほど雨が続いた秋は初めてだった。
「さっきも六分だったよ」
四号機の前に立つ野菜店の店主、越川が疑わしそうに言った。
「三分前から六分です」
「六分が長いな」
「今、機械の中で何かが起きてるのかもしれません」
「乾燥以外のことを起こさないでくれよ」
奈穂は四号機へ近づいた。
丸い窓の向こうでは、白いタオルと茶色いエプロンがゆっくり回っている。表示は確かに残り六分。しかし、数字は一向に減らない。
試しに一時停止ボタンを押した。
反応がない。
「四号機、反抗期です」
奈穂が言うと、待っていた客たちから一斉にため息が漏れた。
この十一日間、町の洗濯物は乾く場所を失っていた。
ベランダへ干せば雨に濡れる。室内へ干せば、湿気で窓まで曇る。厚手のパーカーやジーンズは二日たっても冷たいまま。近所の住人たちは、乾燥機の空きを求めて「ひだまり」へ押し寄せていた。
朝七時から満員。
昼も満員。
閉店直前まで満員。
昨日は、乾燥機の前へ洗濯籠を置き、順番を取ろうとした客が三人現れた。
その結果、店内に籠だけが七個並び、持ち主が誰なのか分からなくなった。
奈穂は受付表を作った。
《氏名・洗濯物・希望する乾燥時間》
ところが今度は、《洗濯物》の欄へ「白いの」「だいたい服」「家族四人分」と書く人が続出した。
管理が楽になった気はしない。
「修理の人、来られそう?」
越川が尋ねる。
「道路が混んでるから、一時間くらいかかるって」
「中のエプロン、明日の朝市で使うんだよ」
「茶色なら、少しくらい湿ってても分からないんじゃないですか?」
「色の問題じゃない」
待合席にいた小学五年生の結菜も、心配そうに四号機を見ていた。
中には彼女の体操服が入っている。
明日は学校で持久走の記録会があるらしい。
「体操服が乾かなかったら、走らなくていい?」
結菜が母親へ尋ねた。
「学校の予備を借りなさい」
「それは嫌」
「じゃあ制服で走る?」
「もっと嫌」
「走らない選択肢は?」
「ありません」
母親の答えに、結菜は肩を落とした。
奈穂は四号機の電源を一度切り、入れ直した。
表示は変わらない。
残り六分。
「止まった時計みたいだな」と越川。
「せめて一日に二回、正しい時間を示してほしいです」
そこへ自動ドアが開き、冷たい風と一緒に新しい客が入ってきた。
大学生らしい男性が、巨大な布団を抱えている。
「乾燥機、空いてますか?」
店内の全員が彼を見た。
「今日じゃないと駄目ですか?」
奈穂が尋ねる。
「昨日、ベランダへ出して寝たら、朝びしょ濡れで」
「なぜ雨の予報で布団を出したんです?」
「夜中に止むと思って」
「雨を信頼しすぎです」
男性は濡れた布団を抱えたまま、店の隅へ立った。
午後五時二十分、五号機が停止した。
待っていた美容師の女性が立ち上がる。扉を開けると、温かいタオルの匂いが店内へ広がった。
その空いた五号機を巡って、受付表の順番が確認された。
次は、保育園のシーツを抱えた男性だった。
しかし男性は、結菜の体操服を見て言った。
「先に使っていいよ。体操服なら、そんなに時間かからないだろ」
「いいんですか?」
「うちのシーツは、園児が寝るまでに乾けばいいから」
「園児、何時に寝るんです?」
「明日の昼」
「余裕ありますね」
結菜の母親が頭を下げた。
だが、四号機は扉が開かない。体操服を取り出せなければ、五号機へ移せない。
奈穂が説明書を探している間に、外の雨が強くなった。
屋根を打つ音が大きくなり、入り口付近に置かれた傘から水が流れ落ちる。
そして午後五時二十七分。
店内の照明が消えた。
乾燥機の回転音も、すべて止まった。
暗闇の中で、誰かが言った。
「秋って、こんなに厳しかったっけ?」
非常灯がついた。
ガラス窓の向こうを見ると、隣の花屋も、向かいの喫茶店も暗くなっている。通り一帯の停電らしい。
奈穂はブレーカーを確認したあと、電力会社の情報をスマートフォンで開いた。
「復旧見込み、午後七時半」
店内に、十一日分の湿気を集めたような沈黙が落ちた。
「閉店、七時だよね」と越川。
「今日は延長します」
「二時間も何する?」
奈穂は乾燥機の中に閉じ込められた洗濯物を見た。
非常時用の解除レバーを使えば、扉は開けられる。ただし、出したところで電気がなければ乾かせない。
その時、隣の花屋の店主が懐中電灯を持って入ってきた。
「停電、そっちも?」
「通り全部みたいです」
「困ったね。うち、暖房も止まった」
花屋の後ろから、喫茶店の店主も顔を出した。
「こっちはガスが使える。お湯ならあるよ」
「洗濯物を煮るわけにはいきません」
「人間用だよ」
奈穂は店の奥を見た。
洗濯籠、折り畳み式の物干し、ハンガー、洗濯ばさみ。さらに、夏に使った大型の業務用扇風機が二台ある。
電気がなければ扇風機は動かない。
しかし花屋には、配達用の小型発電機があった。
店先のひさしは、花屋からランドリー、喫茶店までつながっている。雨は吹き込まない。
「外へ干します」
奈穂が言うと、越川が窓の外を見た。
「雨だぞ」
「ひさしの下です。発電機で扇風機を回して、温かい飲み物で人間も回します」
「最後だけ必要?」
「必要です」
四号機の非常解除レバーを引くと、ようやく扉が開いた。
中から、まだ温かい洗濯物が出てくる。
結菜の体操服。
越川のエプロン。
数え切れない白いタオル。
そのほかの乾燥機からも、半乾きの服やシーツを取り出した。
客たちは洗濯物を抱え、隣の花屋へ移動した。
ひさしの下へ長いロープを三本張る。花屋の鉢植えを端へ寄せ、ハンガーや洗濯ばさみで服をつるす。
白いシャツ、子どもの靴下、色とりどりのタオル、保育園の動物柄シーツ。
秋雨の商店街に、急ごしらえの洗濯物通りができた。
発電機につないだ扇風機を回すと、服が一斉に揺れ始める。
「風が弱い!」
越川が叫ぶ。
「手であおいで!」
奈穂が段ボールを渡した。
客たちは交代で洗濯物へ風を送った。越川は自分のエプロンだけを集中的にあおぎ、結菜に注意される。
「ずるい」
「朝市があるんだ」
「私も持久走がある」
二人は並んで段ボールを振った。
喫茶店からは、温かいココアとコーヒーが運ばれてきた。花屋の店主は余っていた鉢植え用の支柱を、追加の物干し竿にした。
濡れた布団を持ってきた大学生は、誰よりも大きな段ボールで風を送った。
「その布団は今日、無理ですよ」
奈穂が言うと、男性は頷いた。
「分かってます。せめて皆さんの分だけでも」
「布団はどうするんです?」
「今夜はこたつで寝ます」
「最初からそうしてください」
午後七時十分。
結菜の体操服は、どうにか着られる程度まで乾いた。
越川のエプロンも、袖口以外は乾いている。保育園のシーツはまだ少し湿っていたが、復旧後に乾燥機へ戻せば間に合いそうだった。
七時二十三分、商店街の明かりが一斉についた。
ランドリーの乾燥機も再び動き始める。
歓声が上がった。
ただし四号機の表示は、再起動しても残り六分だった。
「こいつだけ、停電を経験してない顔してるな」
越川が言った。
「明日、修理します」
奈穂は四号機へ《使用停止》の紙を貼った。
翌朝、雨は十二日ぶりに上がった。
青空の下、ベランダというベランダに洗濯物が並んでいる。町全体が巨大な物干し場になったようだった。
今日は店も暇になる。
奈穂はそう思いながら、「ひだまり」のシャッターを開けた。
店の前には、すでに七人並んでいた。
全員が、毛布やシーツや布団を抱えている。
先頭にいた越川が言った。
「晴れたから、大物を洗おうと思って」
奈穂は空を見上げた。
雲一つない、見事な秋晴れだった。
それから客の列へ向き直り、受付表を机へ置いた。
「洗濯物の欄に『だいたい布』って書くの、今日はなしですからね」