世界に壁を作った日

「世界に壁を作った日」

 その日、アメリカ合衆国大統領ドナルド・グレイヴスは、世界を相手に喧嘩を売った。
「相互関税だ!」
 ホワイトハウス。
 大統領執務室にグレイヴスの声が響いた。
 商務長官が資料から顔を上げる。
「全世界に、ですか?」
「そうだ!」
 グレイヴスは立ち上がった。
「Americaは長い間、不公平な貿易に苦しめられてきた!」
「はい」
「外国は我々の商品に障壁を設け、Americaには好き放題輸出している!」
「はい」
「だから同じだけ取る!」
「日本も?」
 グレイヴスが止まった。
「……」
 商務長官も黙った。
「日本も外国です」
「知っている」
「最大の対米輸出国でもあります」
「知っている!」
「では日本にも?」
 グレイヴスは腕を組んだ。
 明らかに迷っていた。
「……少しだけだ」
「少し?」
「他の国より低くする」
「相互関税なのでは?」
「日本は特別だ」
 理屈が開始五分で壊れた。
 翌日。
 ホワイトハウスで大々的な発表が行われた。
 グレイヴスの後ろには巨大なボードが置かれている。
 AMERICA FIRST TRADE PLAN
 中国。
 二十五パーセント。
 EU。
 二十パーセント。
 インド。
 十八パーセント。
 韓国。
 十五パーセント。
 英国。
 十二パーセント。
 そして――。
 日本。
 五パーセント。
 記者が手を上げた。
「大統領、なぜ日本だけ五パーセントなのですか?」
「日本は重要な同盟国だからだ」
「英国も同盟国ですが?」
「日本はもっと重要だ」
 英国大使館が、その発言を記録した。
 後で絶対使われる。
「しかし大統領、相互主義という説明と矛盾しませんか?」
「矛盾しない!」
「なぜ?」
「私が決めたからだ!」
 会見はそこでだいたい終わった。
 東京では、財務省、経済産業省、外務省が合同会議を開いていた。
 スクリーンには各国への関税率が並んでいる。
 安西晋一郎は日本の欄を眺めた。
「五パーセントか。低いね」
 経産相が頷く。
「他国と比べれば」
「影響は?」
「限定的です」
「自動車は?」
「日本企業はアメリカ国内にも大規模な生産拠点があります」
「半導体は?」
「むしろアメリカ側への影響が大きいかと」
「工作機械」
「同様です」
「AIサーバー」
「同様です」
「医療機器」
「同様です」
 安西はしばらく考え、資料を閉じた。
「……これ、誰が困る関税なの?」
 誰も答えなかった。
 北京では、習静峰が別の数字を見ていた。
「日本は?」
「五パーセントです」
「英国は?」
「十二パーセント」
「韓国」
「十五パーセント」
「中国」
「二十五パーセントです」
 静峰が眉を寄せる。
「相互関税ではなかったのか?」
「グレイヴス大統領によれば、日本は特別な同盟国だと」
「相互とは何だ」
 側近は沈黙した。
 中国政府は対抗措置を検討していた。
 しかし、以前とは事情が違う。
 アメリカへの輸出が減っても、中国企業には巨大な日本市場がある。
 欧州もある。
 ASEANもある。
 円を中心とした決済網も使える。
「報復は限定的でいい」
 静峰が資料を置いた。
「全面的な貿易戦争にはしない」
「アメリカへの圧力は?」
「待てばいい」
「待つ?」
「関税を払うのは、まずアメリカの輸入企業だ」
 静峰の口元がわずかに緩んだ。
「今回は向こうから騒ぎ始める」
 モスクワでは、会議がさらに短かった。
 ヴィクトル・ヴォルコフが資料を受け取る。
「ロシアは?」
「三十パーセントです」
「そうか」
「報復関税を発動しますか?」
「必要ない」
「しかし輸出が――」
「日本へ売れ」
「……はい」
 ヴォルコフは資料を机へ戻した。
「アメリカ政府が自国の輸入品に税をかける話だ。我々まで一緒になって騒ぐ必要はない」
 会議は五分で終わった。
 ロンドン。
 エドワード・ハリントンが気にしていたのは、関税率ではなかった。
 彼の手元には、グレイヴスの会見記録がある。
『日本は英国より重要な同盟国』
 ハリントンは紅茶を一口飲んだ。
「これ、保存しておいて」
 側近が首を傾げる。
「関税に関する記録として?」
「いや」
 ハリントンは微笑んだ。
「次に晋一郎と会う時に見せる」
「グレイヴス大統領が怒りますよ」
「知っている」
「ではなぜ?」
「怒るからだ」
 側近はため息をついた。
 一か月後。
 異変は世界ではなく、アメリカ国内から始まった。
 デトロイトの自動車部品会社。
「日本製工作機械が値上がりした?」
「関税分です」
「アメリカ製に替えられないのか?」
「あります」
「性能は?」
「七割程度です」
「……日本製を買え」
「高くなりますよ」
「工場を止めるよりいい!」
 ロサンゼルスの映画スタジオ。
「日本製カメラが値上がりしました」
「買え」
「関税が」
「撮影を止めるのか?」
「……買います」
 シアトルのAI企業。
「日本製GPUの価格が――」
「買え」
 ニューヨークの病院。
「日本製医療機器が――」
「買え」
 輸入はなくならなかった。
 ただし、値段が上がった。
 ホワイトハウスへ届く報告書の内容も、次第に変わっていった。
 グレイヴスが財務長官を見る。
「物価が上がっている」
「はい」
「なぜだ?」
「関税です」
「外国企業が払うんじゃないのか?」
「輸入時に支払うのはアメリカ企業です」
「なら外国企業に値下げさせろ!」
「一部では値下げされています」
「それでいい!」
「ただ、日本企業はあまり応じていません」
 グレイヴスが顔を上げる。
「なぜだ?」
 財務長官は淡々と答えた。
「他に買い手がいます」
「……」
「日本国内に六億人」
「……」
「欧州」
「……」
「中国」
「……」
「インド」
「もういい」
「はい」
 かつてなら、アメリカ市場から締め出されること自体が巨大な脅威になった。
 だが、この世界最大の市場はアメリカではない。
 それが決定的な違いだった。
 さらに一か月。
 今度はアメリカ企業の代表たちがホワイトハウスへやって来た。
 自動車。
 IT。
 映画。
 医療。
 小売。
 航空。
 建設。
 業界はバラバラだったが、言いたいことは同じだった。
「関税を下げてください」
 グレイヴスが机を叩く。
「Americaの産業を守っているんだ!」
 自動車会社のCEOが答えた。
「我々が困っています」
「国内で作れ!」
「作っています」
「ならいいだろ!」
「その工場の設備が日本製です」
「……」
 IT企業の代表が続く。
「データセンター設備も日本製です」
 映画会社。
「撮影機材も」
 医療団体。
「医療機器もです」
 航空会社。
「航空部品も」
 とうとうグレイヴスが両手を広げた。
「なぜAmericaの会社が、そこまで日本製を使っている!」
 しばらく沈黙した後、自動車会社CEOが答えた。
「いいからです」
 静寂。
 グレイヴスも黙った。
 それ以上に反論しづらい理由はなかった。
 その夜。
 大統領執務室にはグレイヴス一人だけが残っていた。
 日本への関税、五パーセント。
 輸入量、ほぼ変化なし。
 関税収入、増加。
 米国内価格、上昇。
 日本企業の利益、ほぼ変化なし。
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 中国からの輸入は減った。
 しかし中国企業は日本と欧州への輸出を増やしている。
 EUも同じ。
 インドも同じ。
 世界経済が少しずつ、
 アメリカを通らない道
 を探し始めていた。
 グレイヴスの表情から笑みが消えた。
 翌朝。
 閣議が始まる。
「関税政策を変更する」
 閣僚たちが一斉に顔を上げた。
「撤廃でしょうか?」
「違う!」
 グレイヴスが指を一本立てる。
「交渉する」
「世界各国と?」
「そうだ」
「日本も?」
 少しだけ間があった。
「日本からだ」
 理由を尋ねる者はいなかった。
 数週間後。
 東京で日米通商協議が始まった。
 長いテーブルの片側には日本政府。
 反対側にはアメリカ政府。
 閣僚、企業代表、専門家がずらりと並んでいる。
 グレイヴスが口火を切った。
「シン。Americaは日本製品への関税をゼロにする用意がある」
 安西が少し目を丸くした。
「思い切りましたね」
「代わりに、日本もアメリカ製品への障壁をなくす」
「具体的な条件を詰めましょう」
「アメリカ企業を日本市場へもっと入れろ」
「もちろん歓迎します」
「日本企業にもAmericaでさらに生産させろ」
「もうかなり生産していますよ」
「もっとだ」
 安西が笑った。
「それは各企業にお願いしてください」
「日本政府から言ってくれ」
「企業が決めることですから」
「シン」
「そこは無理です」
 安西は笑顔のままだった。
 グレイヴスはしばらく彼を見た。
 やがて手を差し出す。
「なら、競争だ」
 安西もその手を握る。
「ええ」
 無数のフラッシュが二人を照らした。
 翌日。
 グレイヴスはホワイトハウスの演壇に立っていた。
「我々は日本との史上最大の貿易協定を勝ち取った!」
 記者が手を上げる。
「日本製品への関税はゼロになるのですよね?」
「そうだ!」
「最初の五パーセントより下がっています」
「交渉したからだ!」
「日本側もほぼ同条件です」
「素晴らしい取引だ!」
「つまり当初の関税政策は失敗だったのでしょうか?」
 グレイヴスが記者を指差す。
「違う!」
 会場が静かになった。
「関税をかけたから交渉が始まった!」
「……」
「そしてAmericaは最高の条件を勝ち取った!」
 後ろに立っていた商務長官が、小さく頷いた。
 そういうことにしておこう。
 北京にも日米合意の資料が届いていた。
 静峰が目を通す。
「結局、日本への関税はゼロか」
「はい」
「アメリカから中国にも交渉の申し入れがあります」
「受けろ」
「どの条件から始めますか?」
 静峰は資料を閉じた。
「日本との合意を持ってこい」
「同条件を要求する?」
「いや」
 静峰は淡々と答える。
「グレイヴスは中国に日本より悪い条件を出す。そこから交渉する」
 そして少しだけ笑った。
「先に相場を見せてくれた。利用しよう」
 モスクワにも同じ話が届いた。
「アメリカから関税交渉の要請です」
 ヴォルコフは書類から目も上げない。
「応じろ」
「条件は?」
「日本より少し悪い程度なら受けていい」
 側近が尋ねる。
「理由は?」
「グレイヴスがロシアを日本より優遇するわけがない」
「……」
「余計な時間を使うな」
 今日も五分だった。
 数か月後。
 世界中に課された関税は、最初に発表された数字から大きく下がっていた。
 アメリカ企業は輸入を増やし、外国企業もアメリカ市場へ戻る。
 世界貿易は徐々に正常化した。
 グレイヴスは各地の演説で胸を張った。
「私の関税政策によって、世界の貿易は公平になった!」
 支持者は歓声を上げた。
 批判する者は首を傾げた。
 専門家たちは大量の論文を書いた。
 安西だけは特に何も言わなかった。
 首相官邸。
 秘書官が書類を抱えながら尋ねる。
「総理、グレイヴス大統領は関税政策が大成功だったと発言しています」
「そうみたいだね」
「かなり撤回していますけど」
 安西は書類へ判を押した。
「本人が納得して、貿易も元に戻ったなら、それでいいんじゃない?」
「そんなものですか?」
「外交って、相手に負けたと思わせないことも大事だから」
 秘書官が少し考える。
「じゃあ、日本が勝ったんですか?」
 安西が顔を上げた。
「誰も勝ってないよ」
「では?」
「みんな関税を下げた」
 安西は次の書類へ手を伸ばした。
「それで十分でしょう」
 世界最強国家、日本。
 巨大な国内市場を閉ざすこともできた。
 基軸通貨である円を使って報復することもできた。
 アメリカ以上の関税を設定することだってできた。
 日本はどれもしなかった。
 それでも、世界に築かれかけた貿易の壁は、いつの間にか低くなっていた。
 その夜。
 グレイヴスは日本製スマートフォンで、自分の演説への反応を眺めていた。
 画面には、
『グレイヴス大統領、歴史的通商協定を実現』
 という記事が表示されている。
 グレイヴスは満足そうに頷いた。
「完璧な取引だ」
 側近が答える。
「はい」
「シンも満足していた」
「はい」
「Americaも得した」
「はい」
「つまり私の勝ちだ」
 側近は一瞬だけ考えた。
「……はい」
 それ以上考える必要はなかった。
 世界が平和なら、大統領の中で誰が勝ったことになっているかなど、割とどうでもよかった。

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