試し読み

叛逆の王子 試し読み

叛逆の王子 試し読み

「あらすじ」

巨大企業「アストラコア」の力によって、世界は一つに統合された。それにより、国境は失われ、戦争は無くなった。銃やミサイルをはじめとする兵器も廃棄され、人類は武力によって争う時代を終えたる。

そんな世界で、五百年前に死んだ少女の遺体から、未知の細胞が発見される。

「フィーチャー細胞」 そう名付けられた細胞は、人間の身体を再生させ、これまで治すことのできなかった病さえ治癒する、希望となった。

しかし、その細胞には代償があった。 フィーチャー細胞は、人の身体を大きく変化させ、ときには人間を超えた特殊な力を発現させだしたのだ。しかも、細胞を宿した者の中には、やがて正体不明の奇妙な声を聞く者まで現れ始めた。人々はその力を持つ者を恐れ、フィーチャー細胞を持つ者たちを迫害するようになる。

だが、中心政府は継星者を保護する方針へと転じた。

フィーチャー細胞を持つ者たちを「継星者」と名付け、彼らにさまざまな特権を与える制度を作り上げたのだ。

その影響で次第に、世界は変わっていく。

継星者は豊かな生活を与えられ、そうではない者は、その外側へと追いやられていった。 かつて差別されていた者たちは、やがて優遇される側となった。世界は再び、人間を二つに分けたのだ。

そんな歪んだ世界で、自らの出生も、両親が背負った過去も知らずに生きてきた一人の青年がいた。

「序章」

 世界は、ゆっくりと壊れ始めていた。

 それは戦争でも、災害でもない。もっと静かで、もっと見えにくい暴走だった。

 政府機関の上層部は、人々には理解しがたい政策を次々と打ち出していく。その多くは、大した説明もないまま淡々と施行され、反論の余地すら与えられなかった。人々は戸惑いながらも、それを受け入れていた。

 だが、その空気の奥底には、誰も言葉にしようとはしない、不安が靄のように漂い続けている。

 すべての始まりは、二十年前に世界最大の企業、アストラコアが発表した、ある研究成果だった。

 『フィーチャー細胞』

 それは、病や身体機能の欠損に苦しむ人々を救う、新たな医療技術として世界へ発表された。失われた機能を取り戻し、治らないはずの病を治す。まさに、その細胞は人類の希望になるはずだった。

 しかし、技術が公にされた直後から、世界は静かに歪み始める。

 最初は誰も気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。

 フィーチャー細胞は、誰にでも与えられるものではなかった。移植を受けられるのは、ごく一部の選ばれた人間だけだったのだ。

 細胞は秘密裏に培養、管理され、世界最北端に存在する、ノーザンモウストで移植されていった。

 フィーチャー細胞研究の発祥地として知られたその場所は、今では禁止エリアの名で呼ばれ、地図からも静かに消えかけている。

 何が行われ、何が生まれたのか。人々は、その問いに近づくことすら許されていない。

 やがて、細胞の移植を受けた者たちは、世界の中で特別な存在として扱われるようになった。

 その者たちは、継星者と呼ばれ始める。

 継星者となった者には、豊かな生活と優遇された待遇が与えられた。それは、一般の人間には許されない権利だった。

 しかし、継星者になるためには条件がある。

 優秀であり、社会にとって有用であること。そして、政府から認められること。努力という言葉で美しく飾られたその基準は、実際にはあまりにも曖昧で、あまりにも残酷だった。

 その結果、人々の前に残された道は、いつしか二つだけになっていた。

 継星者になるためにすべてを捧げ、己を磨いて政府に認めてもらうか。あるいは、その道を最初から諦め、社会の外側で生きるか。

 世界は静かに、分断されていった。

 そんな世界の最南部に、ソルキナという島がある。そこは、かつては温暖な観光地として知られていた場所だ。

 どこまでも続く青い海、柔らかな潮風。多くの人々が休暇を過ごしたソルキナは、穏やかで平和なエリアだった。

 しかし、今では、その面影はほとんど残っていない。経済は衰退し、街は荒れ、かつての賑わいは跡形もなく消え去っていた。

 島でひときわ栄えていた街、ナフィリアでさえ、今では廃れた場所へと変わり果てている。

 崩れかけた建物、割れたガラス。人の気配の薄い通り。夕日の赤い光だけが、そんな街並みに等しく差し込んでいた。

 かつて繁華街だった場所を、二人の人影が並んで歩いている。

 一人は十代半ばの少年だった。

 茶色の短髪と、どこかあどけなさの残る顔立ちをし、シャツにハーフパンツという軽装も相まって、この荒れた街には似つかわしくないほど、まだ幼さが抜けきっていない。

 少年の名は、ティータ・スミス。

 そして、もう一人は、二十代前後と思しき男だった。

 金色の長い髪と、深い紫の瞳。端正な顔立ちは、まるで精巧な芸術品のように整っており、否応なく人目を引いた。

 彼の名は、フェリス・ローガン。

 ティータの父の古い友人だ。

 二人の足元で、割れたガラスが小さく鳴った。ティータは思わず足を止め、荒れ果てた通りを見渡す。

 記憶の中のソルキナは、もっと明るい場所だった。潮風が柔らかく、通りには観光客の笑い声が溢れていた。少なくとも、こんな風に建物が崩れ、店の看板が錆びついている場所ではなかった。

 ティータの父、ウォルト・スミスは、フィーチャー細胞の移植を受けた継星者だった。だが、その事実をまるで感じさせない、どこか特異な人間でもあった。

 弱い者を見捨てられない優しさと、少し子供じみた純粋さを持った男。ティータは、そんな父のことが好きだった。

 その時、風に煽られ、ひしゃげた看板が軋む。その音に胸をざわつかせながら、ティータはフェリスの背中を追った。

 十年前、母のアリア・ブレイバーが忽然と姿を消した。そして、三年前、今度は父のウォルトもまた、消えた。

 父が姿を消したのは、血のつながりはないが、兄のような存在だったラド・ブレイバーを、ナフィリアへ送り出した直後のことだった。

 家族が次々と消えてしまった後、ティータは叔父の元で暮らしていた。それでも、ナフィリアへ旅立ったラドのことは、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。

 通りの奥から、誰かの怒鳴り声が聞こえた。ティータは肩を小さく震わせる。

 だが、フェリスは歩みを止めない。その様子は、まるでこの街の荒れ方も、そこに潜む危険も、最初から織り込み済みであるかのようだった。ラドに会う前に、予め情報を収集していたのかもしれない。

 フェリスがティータのもとを訪れた理由も、そのラドに会うためだった。

 だが、アリアもウォルトもすでに姿を消していること。そして、ラドがナフィリアにいること。

 それを知ったフェリスは、それ以上は何も追及しようとせず、静かにその場を立ち去ろうとした。

 その瞬間、ティータは反射的に彼の腕を掴んでいた。

 この男は、何かを知っている。その確信が、身体を先に動かしていたのだ。

 父の失踪の真相に近づけるかもしれない。そう考えたティータは、迷いながらもフェリスに同行することを決めたのだ。

 その時、ひときわ強い潮風が、埃を巻き上げた。ティータは目を細めながら、改めて街の荒廃ぶりを見渡す。

 どうしても、かつての記憶と、今目の前に広がる光景が、頭の中でうまく結びつかない。

「ソルキナには、小さな頃に来たことがあります。でも、こんなじゃなかった」

 ティータの言葉に、フェリスは少し考えるような間を置いてから、ぽつりと口を開いた。

「おそらく、十年ほど前に、何かがあったんだろうね」

「十年ほど前…?」

 その言葉に、ティータの胸がわずかにざわついた。

 十年前。

 それは、アリアが姿を消した時期と、ぴたりと重なっていたからだ。

 アリアは、ティータの実の母ではない。実の母は、ティータが物心つく前に亡くなっている。

 ウォルトが連れてきた女性で、ティータにとっては継母にあたる人だった。それでも、物心ついた頃からずっとそばにいてくれた心優しい母であった。母と呼ぶことに、違和感などなかった。

 ティータが思考に沈みかけた時、足元で何かが砕ける音がした。

 踏み抜いたのは、古い観光案内板の欠片だった。そこには、かすれた文字で「ようこそ、ソルキナへ」と残っている。ティータはその文字を見つめ、唇を引き結んだ。

 フェリスが静かに声をかける。

「それより、ティータ」

 フェリスは街から視線を外し、どこか遠くを見るような目で言った。

「やっぱり、ナインステートに帰ったほうがいいよ」

 ナインステートは、ソルキナよりも治安が安定しており、何より、ティータにとっては地元という強みがあった。

 ティータは再び周囲を見回した。

 廃墟と化した雑居ビルが立ち並び、道には不穏な雰囲気を纏った男たちが目的もなくうろついている。

 裏通りでは、人目を盗むように怪しげな薬を売る男の姿もあった。視線を向けるだけで絡まれそうな空気が、街全体に染みついている。

 こういった街は、最近、目に見えて増えていた。それは、継星者になることを、最初から諦めてしまった人間たちが流れ着く場所だ。

 自堕落に生きていては継星者になれるわけがない。

 ただ、本人たちもそれは分かっているのだろう。

 選ばれることを諦めた者たちの諦念が、この街には濁った空気のように漂っていた。

(ここに、ラドさんがいるんだ)

 ティータは心の中でそう呟いた。

 ラドは青い髪に青い瞳を持ち、どこか少女めいた顔立ちをした少年だった。

 あの頃、ティータは十二歳で、ラドは十六歳だった。彼は、ティータよりも年上でありながら、どこか守ってあげたくなるような、不思議な存在だった。

 それから三年が経った今、彼はもう十九歳のはずだ。そんな彼が、このような荒れた場所で暮らしている。そう考えるだけで、ティータの胸の奥にじわりと不安が滲んだ。

「いえ。僕も、ラドさんに会ってみたいので」

 ティータはフェリスを見つめた。

「それに、自分の身は、自分で守れます」

 その言葉に、フェリスは横目でティータを見た。

「いや、心配しているのは、そこじゃないよ」

 フェリスは前を向いたまま、淡々と言葉を続ける。

「おそらく、アリアやウォルトは、君を巻き込まないために真実を語らなかった。真実を知ったら、後悔するかもしれないよ」

「真実…?」

「なぜ二人が姿を消したのか。なぜ、ラドがナフィリアへ送り出されたのか」

 その言葉が、ティータの胸に静かに落ちた。

 真実。

 それが父の失踪を指しているのか、それともまったく別の何かなのか、まだ掴みきれない。

 ただ、フェリスはその言葉を口にした時、どこか迷いがあるような目をしていたことだけは分かった。

 だが、もし父の失踪や、ラドに関わる出来事の真相へ近づけるのなら。知りたいという思いは、恐怖を上回っていた。

「…父と母は、何かを隠しているように見えました」

 ティータは一度だけ視線を落とす。しかし、すぐに顔を上げ、はっきりとした声で言った。

「それでも、僕は真実を知りたいんです」

 フェリスは歩みを止めなかった。ただ、前を向いたまま、わずかにため息を漏らしただけだった。

 しばらく進むと、視界の先に大きな建物が姿を現した。

 おそらくは、かつては、さまざまな娯楽施設が入っていたのだろうが、今は外壁が黒く汚れ、看板の多くは壊れ、窓ガラスのいくつかは無残に割れている。かつての賑わいは、壁に残った色褪せた広告の中にしか残っていなかった。

 フェリスは足を止め、ゆっくりとその建物を見上げた。

「情報によると、ここみたいだね」

 その言葉に導かれるようにして、二人は入口へ近づいた。

 その時だった。

 不意に、二つの影が行く手を塞ぐ。

 金髪のモヒカン頭の男と、頭を丸ごと剃り上げた男だった。二人とも険しい表情で、露骨にティータたちを睨みつけている。

 荒い服装に、粗暴さを隠そうともしない刺青が腕に刻まれていた。

「おう。ガキ連れのアホは、お呼びじゃねぇんだよ」

 モヒカンの男が威嚇するように吐き捨てる。

 ティータは応じず、ただ、拳を握りしめ、無言のまま男を睨み返す。

 声を荒げることはできないが、こういう横暴から目を逸らすこともできなかった。その不器用さは、どこか父に似ているかもしれない。

「ラドに会いたいんだ」

 フェリスが柔らかな笑みを浮かべ、静かに告げた。

「フェリスが来たと、伝えてもらえるかな」

 すると、不良風の二人は互いに視線を交わし、歪んだ笑みを浮かべて、こちらを見た。

「言ったよな? ガキ連れの野郎は、お呼びじゃねぇってよ!」

 モヒカンの男が吐き捨てるように言い、そのままフェリスの胸ぐらへ腕を伸ばしてくる。

 だが、その手が届く前に、ティータが素早く男の腕を掴んだ。まるで鉄の枷でもはめられたかのように、男の腕がぴたりと止まる。

「なっ…」

 モヒカンの男は驚いたように目を見開き、慌てて腕を振り払おうとしたが、ティータの手は微動だにしない。

 さらに、ティータが力を込めると、男の顔がみるみる歪んでいく。

「ぐ…っ!」

 苦悶の声を漏らしながら、男はそのまま地面に膝をついた。

 その異様な光景に気づいたスキンヘッドの男が、慌てて建物の中へ逃げ込もうとする。

 おそらく、仲間を呼びに行くつもりなのだろう。

 ティータは、モヒカンの男の腕をさらに強く握りしめた。

 骨が軋む感触が、手のひらへ伝わってくる。

 耐えきれなくなった男が悲鳴を上げると、スキンヘッドの男の足がぴたりと止まった。

「仲間を呼ぶつもりなら」

 ティータは声を荒げることなく、静かに告げる。

「この人の腕を握りつぶしますよ」

 スキンヘッドの男は険しい表情で睨み返してきたが、その瞳の奥には、はっきりと怯えの色が浮かんでいた。

「とんだカチコミがあったもんだぜ」

 その声と同時に、建物の入口の暗がりから、一人の青年がゆっくりと姿を現した。

 癖のある青い髪、深い青の瞳。そして、どこか中性的な、整った顔立ち。その姿には、ティータの記憶に残るラドの面影が確かにあった。

 だが、かつての少年とは明らかに違う。歩き方も、視線も、纏っている空気も。

 それは、荒れた街に呑まれているのではなく、この街の荒さを、当然のように受け入れている男の姿だった。

 青年は静かに歩み出ると、まっすぐティータを見つめた。

「…ティータか」

 ぼやくようにそう言うと、スキンヘッドの男が慌てて頭を下げる。

「ボス、す、すみません! 変な野郎どもが来やがったんですが、止めきれず…!」

 青い髪の青年は軽く肩をすくめ、男の肩にぽんと手を置いた。

「ボスじゃなくて、ラドでいいって。何度言や分かんだよ」

 そう言ってから、ラドはちらりとティータへ視線を向ける。

「それに、仕方ねぇさ。親子揃って、昔から人並み外れた力を持ってるんだからな」

 その口調は、ティータの記憶にあるラドとはまるで違っていた。

 いや、違うのは口調だけではない。黒いシャツに黒いズボン。胸元の開いたシャツの奥には、鈍く光るネックレスが覗いている。

 そこには、昔のような頼りなさは、ほとんど残っていなかった。

 代わりにそこに立っていたのは、この荒れた街の空気すら飲み込んでしまいそうな、一人の男だった。

 ラドはティータへ歩み寄り、懐かしむように目を細めた。

「久しぶりだな、ティータ。大人にはなったが、お前は昔のまんまだ」

「あなたは、ずいぶん変わりましたね」

 ティータの言葉に、ラドは小さく苦笑した。

 そして、視線を、まだ地面に膝をついているモヒカンの男へ移す。ラドはしゃがみ込み、何事もなかったかのように男へ手を差し伸べた。

「色々あってな。ウォルトさんが手配してくれたおっさんに拾われて、気づいたらこいつらと盗賊団みたいなことをやってた」

 そう言いながら、ラドはモヒカンの男を立ち上がらせる。

 盗賊団。その言葉が、ティータの胸に重く落ちた。

 ラドは、そんなティータの気持ちを察したのか、モヒカンの男の肩を軽く叩き、わずかに笑った。

 それから、ゆっくりとフェリスへ視線を向ける。

「あんたは、フェリスだな。写真で何度か見たぜ」

 ラドは目を細めた。

「…随分と、変わってねぇな」

 その一言に、ティータは思わず俯く。同じ違和感を、ティータ自身も抱いていたからだ。

 フェリスの写真は、ティータも両親から何度か見せられている。しかし、今目の前にいるフェリスは、その写真の中の姿とほとんど変わらない。まるで、時だけが、彼の上を素通りしているように見えた。

 フェリスは特に気にした様子もなく、肩をすくめる。

「そう見えるかい? 童顔の家系でね」

 軽く笑って返すフェリスに、ラドはそれ以上追及しなかった。ただ、少しの間、値踏みするようにフェリスを眺める。

 何かを確かめるような、短い沈黙だった。

「まあいいさ。男の顔に興味持ってもな」

 ラドは視線を外し、建物の奥へ顎をしゃくった。

「とりあえず中に入ろうぜ。ここで話してると、変に目立つしな」

 ラドの言葉に従い、ティータたちは複合施設の中へ足を踏み入れた。

 中に入った瞬間、薄暗い光景が広がった。

 電気が満足に通っていないのか、昼間だというのに建物全体に陰鬱な空気が漂っている。

 かつては、いくつもの店舗が並び、賑わっていたのだろう。しかし、今では、ショーケースの上にはレジが置かれたままで、棚には埃が積もり、ガラスは白く曇っていた。

 食品売り場だったらしき区画には、商品の代わりに粗末な机や椅子、空になった酒瓶が並んでいる。その周囲では、風体の悪い男たちがたむろし、こちらを値踏みするように眺めていた。

 三人がその中を歩いていると、ティータがラドに声をかけた。

「なぜ、今まで連絡をくれなかったのですか? 僕も何度かナフィリアに行こうと考えましたが、具体的な場所が分からなくて」

 その問いに、ラドは歩きながらちらりとティータへ視線を向ける。

「ウォルトさんから、身を隠せって言われてたからな」

「なぜですか?」

 ラドは鼻で笑った。

「さあな。ただ、ウォルトさんがそう言ったんだ」

 少し間を置き、言葉を続ける。

「なんか、あんだろ。俺が何かに狙われてるのかもしれねえ。そんな俺が連絡なんかしたら、迷惑がかかるかもしれねえだろ」

 筋は通っている話だが、ラド自身もその理由を深く理解しているわけではないようだった。

 もしくは、それ以上説明する気がないのか、ラドはあっさりと話題を変える。

「それより、ウォルトさんは元気か?」

 その瞬間、ティータは思わず俯いた。

「父は、姿を消しました」

 ラドの表情が、一瞬で凍りついた。

「…なんだと?」

 小さく呟き、足を止める。

「何があった。話せ」

 そう言ってから、ラドは視線を上げ、目の前に広がる大きな広場を見渡した。

 中央には、巨大な時計台のようなオブジェが鎮座している。かつては、この施設のシンボルだったのかもしれないが、今では針は止まり、装飾のいくつかは崩れ落ちていた。その周囲には、場違いなほど多くのソファが並べられている。

「ちょっとした応接室だ。ここで聞かせてくれ」

 ラドはソファのひとつに腰を下ろした。背もたれに両腕を投げ出し、大きく脚を開く。行儀の悪い座り方だったが、その態度には、この場所を仕切る者の余裕が滲んでいた。

 ティータとフェリスも、その向かい側のソファに腰を下ろす。

「それで、ウォルトさんが消えたのはいつだ?」

 その問いに、ティータの表情が陰った。

「…三年ほど前です。ラドさんがナフィリアに移動して、すぐでした」

「何があったんだ…」

 小さく漏れたラドの言葉に、フェリスが静かに口を挟んだ。

「おそらく、アストラコアの手の仕業だろうね」

 その一言に、ラドは怪訝そうに眉をひそめる。

「アストラコア? 色々噂の絶えねえ企業だが、そこが人攫いでもしてんのか?」

 フェリスは両肘を膝に乗せ、指を組んだ。

「君たちは、この世界がどうしてこんな状況に陥っているか、考えたことはあるかい?」

 ラドは鼻で笑った。

「はっ。中央政府がバカだからだろ。継星者ばっか露骨にエコ贔屓しやがってよ」

 その言葉に、ティータも内心で同意していた。

 継星者以外の人間が不当に扱われ始めたのは、紛れもない事実だ。

 もともと、継星者を異質だと恐れたのは、一般の人々の側だった。だが、政府が継星者の保護へ舵を切ってから、その構図はあっという間にひっくり返った。

 力を持つ者が守られ、持たざる者が弾かれる。気づいた時には、そういう世界になっていた。

 だが、それに抗う者たちもいたはずだ。

 ティータが生まれるよりも前、二十年前に現れた者たちが。

「そういえば、それに反発していた人たちがいましたね。…確か、抗う者たち」

 その言葉に、ラドがティータを見つめる。

「懐かしい名前だな」

 ラドが呟くように言った、その時だった。

「なんだ、こいつ!」

 切羽詰まった叫び声が、建物の入口の方向から響いた。

 直後、何かを殴りつけたような鈍い音が床を震わせる。

 この施設に入ってくる、侵入者が現れた。そう理解するより早く、ティータとラドは反射的にソファから跳ね上がっていた。

「チッ、なんだ?」

 ラドが舌打ちする。

 その時、入口の奥から、ひとりの男がゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 ジーンズにTシャツ。きっちりと後ろへ撫でつけたオールバック。どこにも焦点の合っていない視線。

 だが、何よりも目を引いたのは、Tシャツから覗く腕の肌だった。人のものとは思えない鱗のようなものが、まだらに浮かんでいるのだ。

 その姿を目にした瞬間、ティータは息を呑んだ。

「…父さん!」

 そこに立っていたのは、間違いなくティータの父、ウォルトだった。

 ラドも一瞬、驚いたように目を見開く。

 だが、すぐに引き攣った笑みを浮かべた。

「お、おい…ウォルトさんじゃねえか。久しぶりだな」

 その言葉を聞いた瞬間、ウォルトは苦しそうに顔を歪めた。

 頭を押さえ、喉の奥から呻くような息を漏らす。

 そして、ウォルトはゆっくりと顔を上げた。

「…すまない」

 その直後だった。

 ウォルトは、ラドに向かって駆け出した。

 ティータは慌てて駆け寄り、父の腕を掴む。

「父さん! どうしたんですか!?」

 だが、ウォルトの返事はなく、視線はラドへ向いたまま、ティータの声など聞こえていないかのようだった。

「父さん!」

 再度、ティータが叫ぶと、ウォルトは険しい顔でティータを見つめる。

 そして、ティータの掴んでいた腕を乱暴に振り払い、そのまま、ティータの首を掴んだ。

「うっ」

 ティータの身体が、床から持ち上げられる。足が地面から離れ、宙を蹴るように小刻みに動いた。

 息ができない。空気が、喉に入ってこない。ティータの視界が大きく揺れる。

 ティータはウォルトの腕を必死に掴み、引き剥がそうとしたが、びくともしない。父の剛腕が、今まさに自分の命を奪おうとしている。

「おい! やめろ! どうしたんだ!」

 ラドは怒鳴り声を上げながら、ティータの首を掴んでいる手に飛びつく。

 しかし、ウォルトは造作もなく、空いた方の手でラドの腕を掴んだ。

 そして、そのまま、力を込める。握り潰すかのような圧力が、ラドの腕に食い込んでいた。

「ど…どうしたんだ…。ウォルトさん」

 ラドの声が、苦しげに歪む。

「あんなに優しかった、あんたが…」

 その時、ウォルトが苦しそうな顔をする。

「…声が、聞こえるんだ」

 ウォルトは険しい表情のまま、呟いた。

「ラド。お前を、殺せと」

「…声、だと?」

 ラドは苦しそうに声を絞り出した。

 一方で、ティータの意識はゆっくりと遠のいていた。

 視界が滲む。音が遠ざかる。喉の奥で、掠れた息だけが漏れる。

 そんな中、もう一人の男がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。

 それは、フェリスだった。彼はまるで世間話でもするかのように、淡々と口を開く。

「何があったんだ? 何の声が聞こえているんだい?」

 その言葉に、ウォルトの視線がゆっくりとフェリスへ向いた。

「フェ…フェリス、か…」

 その名が零れた、次の瞬間だった。

 フェリスの瞳が紫に光る。そして、彼の姿が、一瞬で掻き消えた。

 直後、何かを殴りつける鈍い音が響き、ティータの首を締めつけていたウォルトの手から、力が抜けた。

 そのまま、ティータの身体が床へ落ちる。

「げほっ…!」

 激しく咳き込みながら、ティータは必死に視線を上げた。

 腹を押さえたまま、ウォルトが膝をついている。その傍らには、彼を見下ろすように立つフェリスの姿があった。

「何があった?」

 フェリスの問いに、ウォルトは視線を落とす。

「の…脳に直接、聞こえてくるんだ。指示が…。身体が、言うことをきかない」

 ウォルトが、途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。震える手で頭を押さえながら、ウォルトは必死に声を絞り出した。

「手間をかけるが、頼む。もう…、もう限界だ」

 ウォルトの目が、ティータへ向く。その瞳の奥には、昔、ティータが見てきた暖かさが宿っていた。

「俺に…、この子たちを、手にかけさせないでくれ!」

 その言葉を受けて、フェリスの表情が消えた。そして、彼は静かに一歩を踏み出す。紫の瞳には、冷たい光が宿っていた。

「待て!」

 鋭い声を上げたのは、ラドだった。

「ウォルトさんを手にかけるのは、俺が許さねぇ」

 その直後、ティータも首に手を当てたまま、必死に声を上げる。

「お、お願いです…! 父さんを…」

 二人の言葉を聞き、フェリスはゆっくりと視線を落とした。

 しかし、その一瞬の隙を突いて、ウォルトはフェリスに体当たりをした。僅かに、彼がよろけると、そのまま出口へ向かって駆け出す。

 誰もが、その背中を目で追うだけだった。

 やがて、ウォルトの背中は視界の奥へ消えていく。

 すると、フェリスは小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。

「…俺らしくないな」

 そして、ティータとラドへ視線を向ける。

「きっと、彼を生かしたことを後悔することになるよ」

 その言葉に、ラドは腕を押さえながらも、真っ直ぐにフェリスを見返した。

「ここでウォルトさんの命を奪う方が、よっぽど後悔するぜ。…あんたもな」

 フェリスは鼻で笑う。

「…かもね」

 すると、ティータが堪えきれずに声を上げた。

「父はなぜ、あんなことを…。それに、声って、なんなんですか? 父は、何の声を聞いていたんですか?」

 ウォルトは何度もその言葉を口にしていた。

 声が、聞こえる。だが、それが何なのか、ティータにはまだ分からない。

 フェリスはしばらく黙り込み、ゆっくりと視線を落とした。

「具体的なことは分からない。ただ、細胞が変異した人間の症状に似てはいるんだけどね…」

「変異?」

 ラドが眉をひそめるが、フェリスはその問いには答えず、少し間を置いてから言葉を続けた。

「ただ、アストラコアが関わっているのは間違いないと思う」

「アストラコアって、なんなんですか!? 巨大企業以外に何かあるんですか!?」

 感情を抑えきれず問いかけるティータに、フェリスは小さくため息を吐いた。

「何も、話していなかったんだね」

 そして、噛みしめるように呟く。

「会った時から、そうじゃないかと思っていた」

 ゆっくりと言葉を選びながら、フェリスは続けた。

「だから、俺は君を巻き込みたくなかった。アリアもウォルトも、君たちが関わらないことを望んでいると思っていたからさ」

 そして、静かに問いかける。

「それでも、知りたいかい?」

 ティータとラドは、一瞬も迷うことなく頷いた。それを見て、フェリスが口を開く。

「アストラコアの、ある女性が世界をおかしくしているんだ」

「ある女?」

 ラドが怪訝そうに声を上げる。

 その瞬間だった。

 フェリスはふっと表情を歪め、こめかみに手を当てた。

「…悪い」

 呼吸を整えるように、一度だけ目を閉じる。

「少し、無理をしすぎたみたいだ」

 顔色が異常に悪い。それは、フェリスの身体の奥で、何かが軋んでいるように見えた。

「大丈夫か?」

 ラドが声をかけると、フェリスは制するように片手を上げた。

「続きはホテルで話そう。ウォルトのことも、そこでだね。場所はティータが知っているから」

 そう言い残し、フェリスは出入口へ歩き出す。足取りは乱れていなかったが、どこか急いでいるようにも見えた。

「先に行ってる」

 それだけを告げて、フェリスは静かにその場を後にした。

 

 ティータの背後では、先ほどまでいた雑居ビルが静かに佇んでいた。

 ティータが空を見上げると、すでに空の色が深く沈み始めていた。夕日は建物の影に隠れ、代わりに薄い月が遠くの空へ浮かび上がっている。

「本当に、ウォルトさんを探さなくていいのか?」

 隣にいるラドの問いかけに、ティータは小さく微笑んだ。

「悔しいですが、僕の力だけじゃ、父さんを救えませんから」

 そう言ってから、ティータは決意を秘めた目でラドをまっすぐに見つめる。

「でも、必ず助け出します。父さんを、おかしな声から」

 その言葉に、ラドはふっと柔らかな笑みを浮かべた。

「ああ。俺も手を貸す」

 そう言って、ラドは視線を前へ向ける。

「まずはホテルに行こうぜ。フェリスと、どうやってウォルトさんを助けるか考えねえと」

 そして、わずかに口元を吊り上げた。

「次に会った時は、俺も少しくらいはカッコつけねえとな」

 ティータが笑みを浮かべて頷くと、二人は並んでホテルへ向かって歩き出した。

 しばらく、荒れ果てた街並みが、足を進めるたびにゆっくりと流れていく。

 日が落ちたせいか、来た時よりも風体の悪い男たちが増えている気がした。

 だが、その視線はどこか違っていた。

 敵意がない。

 いや、それどころか、わずかな親しみのようなものさえ感じられる。実際、何度か親しげに声をかけられたのだ。

「好かれてるんですね、ラドさん」

 ティータがそう言うと、ラドは首を傾げ、不思議そうに眉を寄せた。

「なんでだよ? 別に普通さ。同じ街で生きてる仲間なんだからな」

 そして、軽く肩をすくめる。

「それに、さんはいらねえよ」

 ラドは軽くそう言った。だが、ティータの胸にはどうしても拭えない違和感が残っていたのだ。

「でも…、どうして、盗賊団なんてしてるんですか? それに、どうして一人で…。確か、身元引受人の人がいたと思ったんですが」

 ラドは苦笑いを浮かべた。

「俺を預かってくれた人なんだけどな。破天荒だが、いいおっさんだったんだよ。ただ、俺が来てしばらくして、病で亡くなっちまった」

 ティータは小さく俯いた。ラドの表情にも一瞬だけ翳りが差したが、それからすぐにいつもの笑みに戻る。

「だからさ。食うために、盗賊団よ」

 生きるためは分からないでもない。こんな世の中だ。力のない少年だったラドにとって、それは仕方のない選択だったのかもしれない。

 それでも、悪事に手を染めることが正しいとは、ティータにはどうしても思えなかったのだ。

 そんな胸の内を見透かしたように、ラドは言葉を続ける。

「でもな。俺は、恥ずかしいことをしてるつもりはねえ」

 そして、少しだけ声を小さくする。

「俺らの両親に、胸を張れねえような真似はしてねえつもりだぜ」

 その言葉に、ティータははっとした。

 そして、幼い頃のラドの顔が、脳裏に浮かぶ。あの頃の、少し照れたような笑顔と、今のラドの笑顔が重なって見えたのだ。

 口調も、服装も、立ち振る舞いも変わっているが、それでも、その奥にあるものは何も変わっていないように見えたのだ。

 しばらく、二人が歩くと、宿泊予定のホテルが視界に入ってきた。

 二人がホテルへ足を踏み入れると、薄暗い照明の下にレセプションのカウンターがぼんやりと浮かび上がっていた。

 ティータはそこへ歩み寄り、受付の男に声をかける。

「鍵をお願いします」

 受付の男は、最初に受付した時と同じように、だるそうな目つきでティータを見る。その愛想の欠片もない態度に、ティータは少しばかり苛立ちを覚えた。

 だが、男がふとラドへ視線を向けた瞬間、その表情が一変する。

「ラドさん!」

「ん?」

 ラドは怪訝そうに眉をひそめた。

「この前は、本当にありがとうございました!」

 受付の男は勢いよく頭を下げる。

 それを見て、ティータは思わず目を丸くした。ラドも何のことか分からない様子で首を傾げている。

「ほら、この前です。酔っ払って暴れた客がいた時に、取り押さえてくれたじゃないですか」

 ラドは思い出したように、軽く手を叩いた。

「ああ、あったな。そんなこと」

「本当に助かりましたよ。あのままだと店の中を、めちゃくちゃにされるところでした」

 受付の男の言葉には、取り繕いのない感謝が滲んでいた。だが、ラドは苦笑し、肩をすくめる。

「いや、俺がムカついただけだよ。だから取り押さえただけさ」

 そして、軽く息を吐いた。

「それに、あいつも酔いが覚めて、ちゃんと反省してくれた。普段はいい奴なんだ。あんまり根に持ってやんなよ」

「そう言えるのがすごいんですよ」

 受付の男は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。それから、ふと思い出したようにティータへ視線を向ける。

「あ、この方たち、お連れの方々なんですよね? でしたら、少しお値引きさせていただきますよ」

「いや、それはダメだ」

 ラドは即座に首を振った。

「俺が勝手にやったことだからさ。こいつらの分は、ちゃんと金を払わせてくれ。金ありそうだから、少しぼったくってもいいくらいだ」

「ちょっと、ラドさん」

 ティータが思わず抗議すると、ラドは悪びれもせず笑った。

 受付の男は残念そうな顔をしながらも、一度奥へ引っ込んだ。

 やがて戻ってくると、鍵を手にしてティータへ差し出してくる。それを受け取り、ティータがラドの方へ振り向こうとした、その時だった。

「あっ、そうだ。一丁目の定食屋の爺さんが、ラドさんに礼を言ってましたよ。病気で困ってる時に、ラドさんが金を…」

「余計なことを言うな」

 ラドは短く言い放った。その声には怒りというより、気まずさが混じっていた。

 そして、鍵を受け取って戻ってきたティータへ、ぶっきらぼうに声をかける。

「行くぞ。部屋に」

 そう言うと、ラドはそのままエレベーターへ向かって歩き出した。

 その横顔を見つめながら、ティータの中でラドという人物の印象が、少しずつ変わり始めていた。

 二人がエレベーターに乗り込むと、ティータは宿泊階のボタンを押し、続けて閉じるボタンを押した。

 扉がゆっくりと閉まり、狭い空間に一瞬の静寂が落ちる。

 その沈黙を破るように、ティータが口を開いた。

「優しいんですね。お爺さんにも、お金を出してあげるなんて」

 ティータの言葉に、ラドは鼻で笑う。

「はっ。行きつけの定食屋が潰れたら困るだろ。それだけ」

「それだけとは、思えませんけど?」

 ティータが悪戯っぽく笑いながら言うと、ラドは何も答えず天井を見上げた。

 しばらくの沈黙のあと、小さな声で口を開く。

「本来、金ってのは、天下の回りものだろ」

 その言葉に、ティータはほんのわずかに目を見開く。

 ラドは照れ隠しのように、頭の後ろで手を組んだ。

「悪党だけが抱え込んでるのは、おかしいと思わねえか?」

 正しいとは言えない。

 それでも、ラドが盗賊団をしている理由は、単なる略奪とは違うのだろう。彼なりの筋が、そこには確かにあるように思えた。

 その時、エレベーターの停止音が静かに響いた。

 二人は外へ出て、ティータの案内で部屋へ向かって歩き始める。

 だが、フェリスに同行してから、ティータの頭から、ひとつの疑問が常にこびりついていた。それは、フェリスと出会ってから、ずっと胸の奥に引っかかっていたものだ。

 なぜ、今になってフェリスはラドに接触してきたのか。

 ラドの顔が見たいと言っていたが、それだけが理由だとは、どうしても思えなかった。それが事実であるならば、もっと前に会えたはずだ。

「なんで、今になってフェリスさんが会いに来たんだと思いますか?」

 その問いに、ラドは歩きながら、ちらりとティータを見る。

「さあな。分からねえよ」

 だが、すぐに何かを思い出したように目を細めた。

「ただ、抗う者たちって言葉。さっき、お前が言ってたよな」

 ティータは黙って頷く。

「俺の生まれる前だから、噂でしか知らねえけど、昔、そんな連中がいたよな。継星者の制度に真っ向から噛みついてた組織だ」

「リーク・アルセイン、ですよね」

 ティータがそう言うと、ラドは軽く鼻で笑った。

「そうそう。リークって名乗ってた男が、中心にいたって話だ」

 その言葉に、ティータは思い出したように口を開く。

「父が、リークさんの名前を出したことがありました。まるで、友人だったみたいな言い方で」

 ラドは少しだけ目を細めた。

「ウォルトさんも、そんなこと言ってたな」

 懐かしむように続ける。

「でも、俺らが聞いてるって気づくと、ハッとした顔して、その話題をやめるんだよ」

 ラドは少し考えるように視線を落とした。

「そういや、その組織の話で、もう一つ名前が出てたな」

「名前…?」

「パープルアイズ、とかいうやつだ」

 その瞬間、ティータの脳裏に紫の瞳が浮かんだ。

 フェリス。

 だが、ラドはそれ以上深掘りすることなく、再び前を向いた。

「まあ、今はそんなことはどうでもいいさ。フェリスが何を考えていようと、ウォルトさんを助けるのが最優先だろ」

「そうですね」

 そんな話をしているうちに、二人は目的の部屋の前へ辿り着いていた。

 ティータがカードキーを扉にかざす。すると、電子音とともに扉が開き、二人は部屋の中へ踏み込んだ。

 二人が部屋に入ると、そこには、フェリスの姿があった。彼はテーブルの前の椅子に腰掛け、俯いている。

 だが、ティータたちに気づくと、ゆっくりと顔を上げ、軽く手を挙げた。

「ああ、よく来てくれたね」

「大丈夫か? 体調が悪いのか?」

 ラドの問いに、フェリスは苦笑いを浮かべた。

「ああ。心配かけてすまないね。少し疲れているだけだよ」

「本当か?」

「本当さ」

 フェリスは軽く笑ってみせると、自分の向かいにある椅子を指し示した。

「まあ、座ってよ。話しておきたいこともある」

 ティータとラドが席に着く。

 フェリスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「…さっきのウォルトのことなんだけど」

 ティータの表情が僅かに強張る。

「ウォルトの様子を見る限り、おそらく彼に起きていることは、ただの病気や事故じゃない」

 そこで、ラドがフェリスを見つめた。

「さっき、アストラコアが関わってるとか言ってたな」

「ああ。その可能性が高いと思う」

 フェリスは静かに頷く。

 そして、少しだけ間を置いてから二人を見た。

「あの企業と事を構える勇気はあるかい?」

「はっ。あの大企業と? 政府とすら仲良しだって噂だぜ」

「そうだね」

 フェリスは静かに息を吐いた。

 そのやり取りを聞いていたティータが、ふと何かを思い出したように顔を上げる。

「…それって、昔の抗う者って人たちと同じようにということですか? あの人たちも、アストラコアと争っていました」

 フェリスの視線が、ゆっくりとティータへ向いた。

 ティータは少し迷ってから、続けた。

「もしかして、フェリスさんも、そこにいたんですか?」

 フェリスはしばらくティータを見つめ返した。

 それは、逃げるような沈黙ではなかった。それは、何を、どこまで話すべきかを選んでいる沈黙に思えた。

 やがて、覚悟を決めたように口を開く。

「そうだよ。俺も、ウォルトも、抗う者たちの一員だった」

 ラドが声を上げる。

「それで、俺らも参加させようとして、会いにきたのか?」

 フェリスは肩をすくめた。

「そんな気はないさ。ただ…」

 フェリスは、ラドをまっすぐに見つめた。

「もし、俺の話に乗らないなら、すべてを忘れるんだ。さっきのウォルトのことも、ね」

「なぜだ?」

「率直に言う。今の君たちには、まだ扱いきれないものがあるからさ」

 ラドが眉をひそめる。

「扱いきれないもの?」

 フェリスはそれ以上説明しようとせず、静かに続けた。

「フィーチャー細胞を使いこなせている者と戦うことになる。今の君らでは、命がいくつあっても足りないよ」

「そんなに凄えのかよ。継星者さま方は」

「ほとんどの継星者は、フィーチャー細胞を使いこなないさ」

 そう言った直後、フェリスの視線が窓の外へ向いた。

 ラドもつられるように眉をひそめる。

「…なんだ?」

 窓際まで歩み寄ったラドは、次の瞬間、表情を変えた。先ほどまで彼らがいた複合施設の方角から、赤い光が夜空を照らしている。

「チッ!」

 ラドは勢いよくポケットからスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押した。

「聞こえるか!? マイケル! そっちで何があった!」

 相手の声が聞こえないのか、ラドは苛立ちを隠そうともせず、何度も声を張り上げる。

「おい! 答えろ! 何が…」

 そして、通話が、唐突に切れた。

「…くそっ!」

 ラドはスマートフォンを強く握りしめ、そのままドアへ向かって駆け出した。

「ラドさん!」

 ティータも反射的にその後を追う。

 それを見たフェリスが立ち上がった。

「待つんだ!」

 だが、二人はその声を振り切るように部屋を飛び出していく。

 エレベーターの前に辿り着くと、ラドは乱暴にボタンを押し、表示される階数を見上げて舌打ちした。

「…遅ぇ」

 次の瞬間、隣の非常階段の扉へ視線を向ける。

「階段のほうが早ぇ!」

 ラドは叫ぶと同時に扉へ飛びつき、力任せに押し開けた。

 ティータも慌ててその背中を追う。

 扉の向こうには、下へ続く長い階段が伸びていた。二人が一気に駆け下り始めると、ラドが怒鳴る。

「お前はついて来なくていい!」

「そんなわけにはいきません!」

「何者かがアジトに来たのかもしれねえ! さっきの件もあるし、何があるか分かんねえんだ!」

「だからこそです! 一人で行かせませんよ! ラドさんだって、さっき何も対処できなかったじゃないですか!」

 その一言に、ラドは舌打ちした。

「…ちっ。ただし、無理はすんなよ!」

 言葉を交わしながらも、二人は勢いを緩めることなく階段を駆け下り続けた。

 一階へ辿り着くと、ラドは非常扉を勢いよく押し開ける。視界が一気に開け、ホテルのロビーが広がった。

 そして、受付カウンターの男が、驚愕の表情のままその場に固まっている。

「ど、どうしたんですか!?」

「すまねえ! 急用だ!」

 ラドは叫び、出口へ一直線に駆け抜けた。

 ティータも慌ててその背中を追う。

 二人が外へ出ると、夜の闇が街を覆っていた。

 だが、その一角だけが赤く染まっている。

 ラドは迷うことなくアジトの方角を一瞥し、すぐに駆け出した。ティータも遅れまいと全力で走る。

 息が荒れ、肺が焼けるように熱くなる。それほどの速度で走っているはずなのに、ラドは涼しい顔のままだった。

(…どんな体力なんだ?)

 驚きながらも、ティータは必死にラドの背中を追い続けた。

 やがて、視界の先に大きな建物が見えてくる。

 燃えていた。炎は外壁を舐めるように広がり、黒い煙が夜空へ伸びている。それは、まぎれもなくラドのアジトだった。

 周囲には何人もの人間が集まっている。

 逃げ出した者たち、呆然と立ち尽くす者たち、水を運ぼうとしている者たち。誰もが、燃え上がる建物を前に混乱していた。

 そんな中、ラドが一人の男に視線を向ける。

「マイケル!」

 ラドは、マイケルと呼ばれた男に乱暴に詰め寄った。

「何があった?」

「いや、突然、建物が燃え出して…」

「怪我人はいないか!?」

「あ、ああ。すぐに逃げましたから。全員無事です」

 その言葉を聞き、ラドの表情がわずかに緩んだ。安堵の色が、はっきりと浮かぶ。

 その時だった。

 施設の影から、ひとりの男がゆっくりと姿を現した。

 炎を背に、焦げた煙の中を歩いてくる。Tシャツから覗く腕には、人のものとは思えない鱗がまだらに浮かんでいた。

 ウォルトだった。

 ラドはその姿を認めた瞬間、鋭くウォルトを睨みつける。

「…まさか。この火事は、あんたがやったのか?」

「…お、お前が、いると思ってな。炙り出そうとしてな」

 ウォルトは焦点の合わない目で、そう呟いた。

 その言葉に、ティータは悲痛な表情を浮かべる。

「父さん! なんで、こんな酷いことを…!」

 ティータが叫んでも、ウォルトは答えなかった。ふらつく足取りのまま、ラドへ近づいていく。

「ウォルトさん、あんた、どうしちまったんだ?」

 ラドの言葉を無視するように、ウォルトは彼の肩をがっしりと掴んだ。

「…お、お前を…」

 片手で頭を押さえ、苦しそうに言葉を絞り出す。

「こ、ここで…潰さなければ、ならないんだ」

 言い終えた瞬間、ウォルトはラドの身体を片手で持ち上げ、力任せに投げ捨てた。

 鈍い音とともに、ラドの身体が地面を転がる。

「ラドさん!」

 ティータが叫び、駆け寄ろうとしたが、その瞬間、視界が大きく揺れる。

 ウォルトの拳が、ティータの腹部に深く突き刺さっていたのだ。

 息が一気に吐き出され、身体が宙に浮き、そのまま地面へ叩きつけられた。

 ラドは歯を食いしばり、ふらつく身体を無理やり起こす。

「…くそっ!」

 ラドは、ウォルトへ駆け寄り、渾身の力で殴りかかった。

 だが、その拳は当たらない。

 ウォルトは人間とは思えない動きでそれをかわし、肘、膝、拳を無造作に、ラドに叩き込んでいく。

 すぐに、ラドの膝が崩れ落ちた。

 気づけば、ラドもティータも為す術なく地面に転がされていた。

 ティータは立ちあがろうとしたが、足に力が入らなかった。これが、フェリスの言っていた、継星者の力なのかもしれない。

 ウォルトは、跪くラドの前に立つ。

「…すまない。許してくれ」

 片手で頭を押さえながら、もう片方の手をラドへ伸ばす。

 しかし、その指先はラドに届く直前で止まった。

 ウォルトの顔が、苦痛に歪む。

「…ダメだ。やっぱり、俺には無理だ…」

 首を横に振る。

 その時だった。

「やはり、こうなったね」

 小さな声が、炎と喧騒を切り裂いた。

 ウォルトの背後には、いつの間にかフェリスが立っていた。その紫の瞳が、冷たくウォルトを捉えている。

「…フェ…リス…」

 次の瞬間、フェリスがウォルトの足を蹴り上げた。

 ウォルトの身体が宙に浮き、そのまま地面へ転がる。

 フェリスは倒れたウォルトを見下ろしながら、内ポケットへ手を入れた。そこから、取り出したのは、ナイフのような細長い刃だった。

「やめろ!」

 ラドの叫びに、フェリスは一瞬だけ動きを止めた。

 その隙に、ウォルトがふらつきながらも立ち上がる。ゆっくりと顔を上げ、口を開いた。

「…脳から…女の声が聞こえてくるんだ」

 その言葉に、フェリスの目がわずかに細まる。

「笑いながら…。ラ、ラドを…、排除しろと…」

「女の声…」

 フェリスの声が、低く沈んだ。

 その瞬間、ウォルトの視線が周囲をさまよう。

 炎に照らされた人々。逃げ遅れた者。呆然と立ち尽くす者。その中にいた一人の女性を、ウォルトの目が捉えた。

「…なんだと…。ひ、人質を取れと…?」

「父さん!」

 ティータの叫びが、夜の闇に響き渡る。

「や、やめろ。身体が言うことを…」

 ウォルトは必死に踏みとどまろうとしていたが、次の瞬間、彼の身体が命令に引きずられるように動き出す。

 その女性へ向かって、躊躇なく駆け出した。

 ティータが反射的に父の方へ手を伸ばす。

 しかし、その瞬間、フェリスの姿が視界から掻き消えた。

 ティータが気づいた時には、一瞬で距離を詰めたフェリスの刃が、ウォルトの背中から胸元を正確に貫いていた。

 その瞬間、時間が、止まったように見えた。

 ウォルトの背中に、赤い染みが広がっていく。

「…すまない」

 フェリスが、かすかに呟く。

 同時に、ウォルトの身体から、ゆっくりと力が抜けていった。

 倒れながら、ウォルトの瞳はティータを見つめていた。焦点の揺れていた瞳に、ほんの一瞬だけ、父の色が戻る。

 そして、その顔に、かすかな微笑みが浮かんだ。

「…すまなかったな」

 それを最後に、ウォルトの瞳から光が消えた。

 身体がうつ伏せに、静かに倒れる。

 誰も、言葉を発することができなかった。炎の音と、遠くのざわめきだけが、重苦しく響いている。

 しばらくして、フェリスが静かにティータへ視線を向けた。

「すまない」

 ティータはゆっくりと首を横に振る。

「…いえ」

 胸の内は、混乱が渦巻いていた。

 父の命が奪われたことは、耐え難いが、もしフェリスが動かなければ、ウォルトは他人の命を奪っていた。

 どちらが正しかったのか。その答えは、どこにもなかった。

 その時だった。

 ウォルトの身体が、砂のように静かに崩れ始めた。

「…え?」

 ティータの呟きとともに、ウォルトの身体は音ひとつ立てることなく、完全に消えていった。

「…どうなっているんだ。まるで、細胞が変異した者の末路だ」

 フェリスが悲哀を滲ませ、静かに呟く。

「さっきも言っていましたね。変異とはなんですか!?」

「継星者の世代が古い者に起こる悲劇さ」

 フェリスはそう言うと、言葉を切った。

「君らには関係がない話だよ」

 それ以上続けることなく、ただ俯く。

 すると、ラドが苦々しく吐き捨てた。

「…くそが。結局、何もできなかった」

 その感情は、ティータも同じだった。

 救えなかったのか、という後悔。父を失った悲しみ。そして、どうしようもない無力感。

 言葉にならない感情が、ティータの胸の中で浮かんでは消えていった。

 三人は、ホテルの一室に戻っていた。

 重厚なカーテンは閉め切られ、外の喧騒はほとんど遮断されている。薄暗い照明が、無機質なテーブルと椅子を淡く照らしていた。

 そのテーブルを囲むように、ティータ、ラド、フェリスの三人が座っている。

 誰も、すぐには口を開かなかった。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いている。

 しかし、その沈黙を破ったのは、ラドだった。

「…一体、何の声が聞こえるってんだ。あの女の声だとか言ってたよな。その声がウォルトさんをおかしくしたのか?」

 フェリスが静かに答える。

「厳密には分からない。ただ、ある女性が関わっているのは間違いないと思う」

「女性?」

「セリス・スピルバーグ」

 その名に、ラドが怪訝そうに眉を寄せた。ティータも同じだった。なぜなら、その名は、誰もが知っているものだったからだ。

「その名前なら、俺でも知ってるぜ。アストラコアの社長じゃねえか。なんで、その女の声が聞こえるんだよ」

 フェリスはすぐには答えず、ゆっくりと天井を見上げた。

「それを答える前に、アストラコアの、二十年前の動きって、知っているかい?」

 ティータが考えるような仕草をする。

 二十年前、彼はまだ生まれていない。ただ、情報としてなら知っていた。

「ええ。二十年前、前社長のユン・スピルバーグの部下が、フィーチャー細胞を偶然見つけて実用化したんですよね。発見者は確か、ダーマ・エンツレリクレツ」

 フェリスがゆっくりと首を縦に振る。

「世間では、そう発表されているね」

「違うんですか?」

「厳密には違う。フィーチャー細胞は偶然発見されたわけじゃない。ユンとエンツレリクレツは、治療法を探し続けていたんだ」

 一拍置き、続ける。

「そして、ノーザンモウストで、一つの遺体を見つけた」

 ラドたちの表情が変わる。

「遺体?」

「ああ。その肉体から、フィーチャー細胞が見つかったんだ」

 フェリスは静かに目を伏せる。

「ユンの娘を救うためにね」

「ユンの娘?」

「そう。ユンには、当時は公表していない娘がいた。ミトコンドリア病を患った娘がね」

「ミトコンドリア病?」

 ラドの問いに、フェリスはわずかに俯いた。

「人の身体は、動くにも、考えるにも、心臓を動かすにも、すべてエネルギーが要る。そのエネルギーを作っているのが、ミトコンドリアなんだよ」

 一呼吸置いて、言葉を続ける。

「それが、生まれつき、あるいは途中から、うまく働かなくなる。しかも、全身でね」

 フェリスの声が、静かに暗さを帯びていく。

「脳も、筋肉も、心臓も、呼吸も。エネルギーを多く必要とするところから、少しずつ機能が奪われていく。そんな恐ろしい病なんだ」

 ラドが怪訝そうな顔をした。

「話の流れ的に、その娘がセリスなんだろ? でも、そんな重病人が社長なんかやれてんのか?」

 ティータも同じ疑問を抱いた。しかし、その脳裏に、ある単語が浮かび上がる。

「フィーチャー細胞…」

 フェリスが、再びゆっくりと頷いた。

「そう。口外されていないが、彼女はフィーチャー細胞の最初の被験者だ。しかも、全身に移植されたんだよ」

 フェリスは淡々と言ったが、その声には、かすかな嫌悪が混じっていた。

「それで、病は治った。少なくとも、表向きはね」

 ラドがゆっくりと頷く。

「その女が治って、跡を継いだわけか。そこまでは分かった。でも、なんで、そいつがウォルトさんにちょっかいを出した。そして、なぜ俺を狙う」

「ウォルトが狙われた理由は、厳密には分からない。抗う者たちの人間だったからかもしれない」

 フェリスは、真っ直ぐにラドを見つめた。

「ただ、お前が狙われる理由には心当たりがある」

「なんだってんだ」

 ラドは肩をすくめた。

「その女が、俺のストーカーだからとか言わねえよな」

 その言葉に、フェリスが小さく鼻で笑う。

「ふっ。一部、そういうところはあるかもしれない」

「なんだと? 会ったこともねえぞ」

 ラドが顔をしかめる。

 フェリスは、そこで笑みを消した。

「お前が狙われるのは…」

 一拍置いて、はっきりと告げる。

「お前が、英雄の息子だからだ」

「俺が…、英雄の息子?」

 ラドの顔に、はっきりとした動揺が浮かんだ。

「第一、英雄って誰だよ」

「リーク・アルセインだよ。夢半ばに命を落とした悲劇の英雄さ」

 その名を聞いた瞬間、ラドは思わず苦笑いを浮かべた。

「俺がリークの息子?」

「ああ」

 フェリスは短く頷いた。

 そのやり取りを、ティータは言葉もなく見つめていた。

 彼の胸にも、強い驚きが走っていたからだ。なぜなら、両親から、そんな話を聞いたことは一度もない。

 確かに、リークの顔とラドの顔がどこか似ていると感じたことはあった。だが、ただの他人の空似だと思っていたのだ。

「だから、あんたも俺に会いに来たってことか? 親の遺志を継げと」

「そんな気はないよ」

 フェリスは静かに首を横に振る。

「お前の人生は、お前のものだ」

 ラドは少し考えるような表情を浮かべたが、次の瞬間、椅子が音を立てて引かれる。

「俺は、そんな遺志を継ぐ気はねえぜ」

 立ち上がったラドは、フェリスを真っ直ぐに見据えた。

「英雄ごっこに付き合う余裕はねえ。ウォルトさんの仇を取りたい気持ちは、確かにある。けどな、仇を取ったところで、死んだ人間が帰ってくるわけじゃねえ」

 ラドは視線を外し、窓の方へ向けた。

「それに、このナフィリアの連中には、まだ俺が必要かもしれねえ」

 そう言い残し、ラドは部屋の出入り口へ向かって歩き出した。

「…ラド」

 その背に、フェリスが声を投げるが、ラドは足を止めなかった。

 フェリスは、ほんの一瞬だけ黙る。

 だが、その沈黙は短かった。それは、次に出す言葉を選んでいるようにも、最初から用意していた言葉を取り出しているようにも見えた。

「お前の養母、アリア・ブレイバーも、アストラコアに関わっている可能性がある」

 ラドの足が止まった。

 その反応を見ても、フェリスの表情はほとんど変わらない。ただ、紫の瞳だけが静かにラドを見つめていた。

「…今、なんて言った?」

「彼女が、なぜアストラコアに関わっているのかは分からない。ただ、もしかすると、協力を強要されているのかもしれない」

 ラドは俯いた。

 視線は床に落ちたまま、しばらく動かない。考えているというよりも、過去をひとつずつ辿っているような時間だった。

 やがて、小さく息を吐く。

「…こっちに来てからも、ずっと探していたんだ…」

 掠れた声だった。

「アリアは、俺を育ててくれた大切な存在だ」

 ラドは拳を握りしめる。

「もし本当に、アリアが何かに利用されてるなら。それで苦しんでいるなら、放っておくわけにはいかねえ」

 そう言って、ラドは再び椅子に座り直した。それは、逃げ場を、自分で断つような動きだった。

「俺は、復讐のために動く気はねえ。けどな…、守りたかったもんを、また失うのは御免だ。ウォルトさんみたいにな」

 フェリスは静かに頷いた。

「俺も、同じ気持ちさ」

「ただよ」

 ラドは、一拍置いた。

「アジトの連中がな…」

 ラドが言いかけると、フェリスが少し苦い表情を浮かべた。

「正直に言うよ」

 そう言って、ラドを真っ直ぐに見つめる。

「お前と一緒にいる方が、彼らは危険だ」

 その言葉に、ラドは一瞬だけ目を見開いた。しかし、すぐに考えるような仕草を見せ、小さく呟く。

「…そうか。俺がアストラコアの社長に狙われてるからか」

「ああ。アストラコアが動き出したのは間違いない。英雄の息子であるお前は、彼らにとって脅威になり得るからね。今回のようなことは、再び起こる可能性が高いんだ」

 沈黙が、部屋に落ちた。

 ラドは、しばらくテーブルの一点を見つめていたが、やがて、顔を上げる。

「…分かった」

 短い言葉だったが、その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。

「ただ、一つだけ聞かせてくれ。アリアを、助け出せる可能性はあるか」

 フェリスは、少し間を置いてから答えた。

「ゼロじゃない。ただ、俺は命を賭けても救い出したいと思っている」

 それだけだったが、その声には力があった。ラドは一度だけ、小さく鼻で笑う。

「十分だ」

 そして、ラドは窓の外へ視線を向けた。ティータもそちらに目を向ける。窓の向こうには、闇夜の空が広がっていた。

 ラドは、その光景をしばらく眺めた後に、声を上げる。

「マイケルたちには、俺の口から話す」

 振り返ることなく、ラドは静かに言った。

「彼らのことは俺に任せて。安全な場所は用意するから」

 ラドは黙って頷いた。

試し読みは以上になります。続きは本編となります。

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