黒船来航

 嘉永六年、浦賀。
 水平線の向こうから現れた四隻の黒船を、浦賀奉行所の役人たちは静かに眺めていた。
「米利堅の軍艦にございます」
「左様か」
 それだけだった。
 誰も騒がない。
 その様子を船上から望遠鏡で眺めていたペリーは、わずかに眉をひそめた。
 聞いていた話と違う。
 日本は二百年以上にわたって国を閉ざした島国。近代的な海軍など持たず、蒸気船を目にすれば恐れおののく――そのはずだった。
 やがて幕府の役人を乗せた小舟が近づいてきた。
「合衆国大統領より、日本国政府へ国書を持参した」
 通訳を介したペリーの言葉に、役人は淡々と答える。
「国書はお預かりする。ただし、開港については幕府の評定を経ねば返答できぬ」
「我々は十分な武力を伴って来ている。その意味は理解しているな?」
 役人が不思議そうに首を傾げた。
「無論」
 その時だった。
 水平線に、黒い影が現れた。
 一つではない。
 二つ、十、二十――。
 ペリーは望遠鏡を向けたまま固まった。
 蒸気軍艦。
 しかも、どれも自分たちの艦艇に劣らぬ大型艦だった。
「……なんだ、あれは」
 さらに浦賀の奥には巨大な造船施設が並び、煙突から絶え間なく煙が立ち上っている。
 埠頭では、規格の揃った砲弾が荷車へ積み込まれていた。その向こうでは、新造艦らしき巨大な船体がいくつも建造されている。
 ペリーの副官が青ざめた。
「提督……事前情報では、日本にこのような工業力があるなどとは」
「私も聞いていない」
 幕府の役人が静かに告げる。
「我が国は外国との争いを望んでおらぬ」
 ペリーが役人を見る。
「ならば開国すればよい」
「それとこれとは別の話にございます」
 役人は穏やかに続けた。
「交易について話し合うことはできる。遭難した貴国船員の保護についても協議しよう。石炭や水の補給についても、条件を定めればよい」
「では港を開くのだな?」
「幕府が必要と認める港だけを」
「拒否すれば?」
 一瞬、沈黙が流れた。
 役人は浦賀沖に並ぶ艦隊へ目を向けた。
「戦になりますな」
 脅しではなかった。
 ただ事実を確認するような声だった。
 そして、役人は再びペリーを見る。
「もっとも、その必要がどこにございましょう」
 ペリーは答えなかった。
 砲艦外交とは、相手より砲艦を持っているから成立する。
 その単純な事実を、彼は誰より理解していた。
 数日後。
 江戸城では老中たちが、アメリカから提出された国書を囲んでいた。
「さて、いかがいたしましょう」
 一人の老中が尋ねる。
 上座の男はしばらく国書を眺め、やがて口を開いた。
「水と石炭くらいは売ってやればよかろう。難破した者を助けるのも当然のことだ」
「開国については?」
「必要なものだけ買い、必要なものだけ売ればよい」
 そして少し考えてから付け加えた。
「ただし、向こうにも法があり、こちらにも法がある。それを互いに守れる仕組みを先に決めよ」
 老中たちが頭を下げる。
「御意」
 こうして日本は、砲艦によって開かれることはなかった。
 代わりに翌年、アメリカ合衆国との間に対等な通商協議が始まる。
 後世の歴史家は、この日の出来事をこう記している。
 黒船が日本を開いたのではない。
 黒船が、江戸幕府を世界へ引っ張り出してしまったのだ。

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