誰も断れない平和式典

「誰も断れない平和式典」

 八月。
 広島市から、世界各国へ一通の招待状が送られた。
 平和記念式典への参列のお願い。
 毎年行われていることだった。
 だが今年、日本政府は一つの試みを始めていた。
「首脳級で、できるだけ多くの国に来てもらえないか」
 首相官邸で安西晋一郎がそう口にした時、外務省の担当者は少し困った顔をした。
「同盟国は問題ないと思います」
「アメリカも?」
「グレイヴス大統領はすでに出席すると」
「早いな」
「英国首相が出席すると聞いて、その場で決めたそうです」
「……理由は聞かなかったことにしよう」
 問題はそこではない。
 安西が机の上に置かれた二枚の資料を見る。
 中華人民共和国。
 そして、
 ロシア連邦。
「この二か国にも送ろう」
 部屋の空気が少しだけ変わった。
「総理」
「うん」
「ロシアと中国です」
「知ってるよ」
「核保有国でもあります」
「だから呼ぶんじゃないか」
 安西はそれだけ言った。
 北京。
 日本から届いた招待状を前に、習静峰は黙っていた。
「日本側は主席本人の出席を希望しています」
 外交担当者が説明する。
「他には?」
「アメリカ、英国、フランス、インドなど多数の首脳が出席予定です」
「ロシアは?」
「招待されています」
 静峰は招待状を手に取った。
 核兵器のない世界へ。
 その文字をしばらく眺める。
「日本には核兵器が効かないのだったな」
「はい」
「ならば、日本にとって核廃絶など必要ないのではないか?」
 誰もすぐには答えなかった。
 安全保障だけを考えれば、その通りだった。
 世界中から核兵器が消えなくても、日本は困らない。
 中国の核も。
 ロシアの核も。
 アメリカの核も。
 日本だけには届かない。
 それでも日本は、毎年同じことを訴えている。
「……面倒な国だ」
 静峰が呟いた。
 側近が尋ねる。
「欠席しますか?」
 静峰は彼を見る。
「なぜそうなる?」
「しかし、広島で核軍縮について――」
「だから行く」
 側近が少し驚いた。
「日本だけが核兵器を恐れなくていい世界で、日本が核廃絶を言っている」
 静峰は招待状を机へ戻した。
「そこで中国が逃げたと思われる方が面倒だ」
「では主席御本人が?」
「出席する」
 決定は、それだけだった。
 モスクワ。
 ヴィクトル・ヴォルコフはもっと露骨だった。
「広島?」
「はい」
「私に?」
「日本政府から正式な招待です」
 ヴォルコフは書類を読む。
「核軍縮について各国首脳が意見交換する場も設けたいとのことです」
「日本には核が効かない」
「はい」
「我々にはある」
「はい」
「その日本に呼ばれて、核軍縮を話すのか」
「そうなります」
 ヴォルコフは書類を机へ置いた。
「罠のようだな」
 側近の顔が強張った。
「欠席しますか?」
「いや」
 ヴォルコフは即答した。
「罠ではないから厄介なのだ」
「……」
「安西は我々に核を捨てろとは書いていない」
「はい」
「来て、見て、考えてほしいとしか書いていない」
 ヴォルコフは立ち上がった。
「行く」
「大統領御自身が?」
「中国主席は?」
「出席すると」
「なら、なおさらだ」
 別の理由が一つ増えた。
 八月六日。
 広島。
 平和記念公園周辺には、世界中の国旗が並んでいた。
 アメリカ。
 中国。
 ロシア。
 英国。
 フランス。
 ドイツ。
 インド。
 韓国。
 カナダ。
 オーストラリア。
 トルコ。
 ポーランド。
 南アフリカ。
 ブラジル。
 そして、その他多くの国々。
 参加国、百八十九。
 首脳級出席、百十二。
 広島市の職員がその数字を見た時、最初に出た言葉は、
「警備どうするんだ、これ」
 だった。
 世界平和以前に、現場には現場の事情があった。
 午前八時。
 各国首脳が席につく。
 静峰の数席先にはグレイヴス。
 反対側にはヴォルコフ。
 三人が同じ場所にいる。
 普段なら、それだけで世界的ニュースになる光景だった。
 だが、この日ばかりは誰も互いを見ていなかった。
 八時十五分。
 鐘が鳴った。
 黙祷。
 一分間。
 世界が静かになった。
 軍事力がアメリカの十倍でも。
 GDPが十倍でも。
 核攻撃を完全に防げても。
 過去に落とされた一発を、なかったことにはできない。
 式典が終わった後。
 首脳たちは平和記念資料館へ移動した。
 静峰は焼け焦げた遺品の前で足を止めた。
 ヴォルコフも少し離れた場所に立っている。
 グレイヴスは珍しく何も喋らなかった。
 誰かが演説しているわけではない。
 安西も何も説明しない。
 展示物がそこにあるだけだった。
 やがて静峰が小さく口を開く。
「日本は、これを防げるのだな」
 隣にいた安西が答えた。
「今なら」
「なら、もう恐れる必要はない」
「日本はね」
 安西は展示ケースを見る。
「でも、他の国は違うでしょう」
 静峰は何も言わなかった。
 少し離れた場所で、ヴォルコフがその会話を聞いていた。
「つまり」
 ヴォルコフが口を挟む。
「日本にはもう核兵器を恐れる理由がない。それでも、我々には核について考えろと言うのか?」
 安西が振り返る。
「ええ」
「自分たちは安全な場所に立って?」
「だからこそ、だと思っています」
 ヴォルコフの眉がわずかに動いた。
「日本だけ安全なら、それでいいとは思えません」
「……」
「今日は核を捨てろとも、何かに署名しろとも言いません。ただ、ここを見てもらいたかった」
「それだけか?」
「それだけです」
 ヴォルコフはしばらく安西を見る。
 そして展示へ視線を戻した。
「……本当に面倒な国だ」
 静峰が小さく頷いた。
「そこだけは同意する」
 二人の意見が珍しく一致した。
 安西は苦笑した。
 その日の午後。
 広島で非公式の首脳会合が開かれた。
 共同声明に、
「核兵器が再び使用されてはならない」
 という一文を入れる。
 そこで議論が止まった。
 核廃絶ではない。
 核放棄でもない。
 たった一文。
 それでも百を超える国家が言葉を調整した。
 中国が修正案を出した。
 ロシアが別案を出した。
 アメリカが文言を変えた。
 フランスが条件を加えた。
 インドが妥協案を作った。
 三時間後。
 全参加国が合意した。
 たった一文に。
 安西は完成した文書を見て、小さく息を吐いた。
 世界最強の軍事力を使えば、他国を黙らせることはできる。
 円を使えば、経済的に圧力をかけることもできる。
 だが――。
 同じ言葉を百を超える国に自分から言わせることは、力だけではできない。
 帰国前。
 静峰は記者から質問を受けた。
「主席、日本の核完全防御技術についてどう考えますか?」
「羨ましい」
 記者たちがざわついた。
 静峰は続ける。
「しかし今日、それについて話すつもりはない」
 ヴォルコフにも同じ質問が飛んだ。
「日本の核防御はロシアの抑止力を弱めていると思いますか?」
「当然だ」
「では日本を脅威と?」
 ヴォルコフは少し考えた。
「今日の日本は、我々を広島へ呼んだ」
 それだけ答え、歩き去った。
 夜。
 広島の街から、各国首脳を乗せた車列が次々と去っていく。
 安西はその様子を窓から眺めていた。
 百八十九か国。
 敵対する国も。
 競争する国も。
 同盟国も。
 核保有国も。
 そのほとんどが、同じ日に同じ場所へ集まった。
 日本が世界最強だから来た者もいる。
 日本との関係を重視して来た者もいる。
 他国が来るから仕方なく来た者もいる。
 理由は何でもよかった。
 八月六日、八時十五分。
 その一分だけは――。
 世界のほとんどが、同じ方向を向いていた。

目次