空を飛ぶ御用機
明治三十六年――ではない。
徳川治世二百八十八年。西暦一九〇三年。
江戸郊外、幕府直轄の試験場。
巨大な木造格納庫の前に、奇妙な機械が置かれていた。
翼がある。
だが鳥ではない。
胴体には小型の内燃機関が収められ、その前方には二枚のプロペラが備えられていた。
老中の一人が、腕を組んでそれを眺める。
「……本当に飛ぶのか」
御用技術方の男が答えた。
「理屈の上では」
「その言葉はあまり信用できぬな」
「我々もそう思っております」
周囲から小さな笑いが漏れた。
その時、試験場の奥から将軍が現れた。
「これが例の空を飛ぶ機械か」
「はっ」
技術者が一礼する。
「外国では、鳥の翼を模した滑空機の研究が盛んにございます。しかし、我々は自力で離陸し、操縦し、着陸できる機械を目標といたしました」
将軍が機体を見上げた。
「なぜそこまで必要だ」
技術者は少し迷ってから答える。
「高い所から見れば、遠くまで見えるからにございます」
「それだけか」
「……敵の艦隊も、軍勢も」
老中たちの顔から笑みが消えた。
将軍はしばらく黙っていた。
やがて言う。
「なるほど」
「上様」
「戦の道具にはするな」
「は?」
「最初から兵器として作れば、外国も同じものを作る」
技術者が目を見開く。
将軍は機体を指した。
「まず郵便を運べ」
「郵便……にございますか」
「次に人を運べ」
「はっ」
「それでも余るなら、地図でも作れ」
老中が苦笑する。
「上様らしいご判断で」
「空まで戦場にしてどうする」
そう言い残し、将軍は試験場の端へ下がった。
やがて操縦士が機体へ乗り込む。
整備員がプロペラを回した。
激しい音とともに機関が始動する。
機体がゆっくりと進み始めた。
十間。
二十間。
速度が上がる。
そして――
車輪が地面から離れた。
誰も声を出さなかった。
巨大な翼が風を受け、機体は確かに空へ浮かんでいた。
一丈。
二丈。
さらに高く。
江戸の青空を、人工の鳥が飛んでいく。
老中が呟いた。
「……飛んだ」
技術者は震える手で記録帳へ書き込んだ。
飛行時間、十二分。
最高高度、百五十メートル。
飛行距離、七里余り。
そして機体は試験場へ戻り、ゆっくりと地面へ降りた。
その日の夕刻。
江戸城に正式な報告書が届けられた。
将軍は最後まで目を通し、ただ一言だけ書き加えた。
「実用化を進めよ。ただし、兵器転用には評定を要す」
数か月後。
欧米の新聞が、奇妙な記事を一斉に掲載した。
日本、有人動力飛行に成功。
アメリカ、オハイオ州。
自転車店を営む二人の兄弟が、その記事を黙って読んでいた。
弟がぽつりと言う。
「兄さん」
「なんだ」
「日本人、先に飛んだらしい」
兄は新聞を折り畳んだ。
「なら、もっと良いものを作ればいい」
弟は笑った。
その年の冬。
世界で二番目の有人動力飛行機が、ノースカロライナの空を飛ぶことになる。
そして遥か東では、すでに次の計画が始まっていた。
江戸から大阪まで、空を使って手紙を運ぶ。
世界初の航空郵便計画だった。
老中が書類を眺めながら呟く。
「空まで幕府の管轄になるとはな」
隣の役人が首を振った。
「違います」
「何がだ」
「上様は申されました」
役人は静かに答えた。
「空は誰のものでもない。だからこそ、先に法を作れ、と」
老中はしばらく黙った。
そして、ため息をついた。
「……やはり、そこからか」
幕府は今日も、飛ぶより先に規則を作ろうとしていた。
徳川治世二百八十八年。西暦一九〇三年。
江戸郊外、幕府直轄の試験場。
巨大な木造格納庫の前に、奇妙な機械が置かれていた。
翼がある。
だが鳥ではない。
胴体には小型の内燃機関が収められ、その前方には二枚のプロペラが備えられていた。
老中の一人が、腕を組んでそれを眺める。
「……本当に飛ぶのか」
御用技術方の男が答えた。
「理屈の上では」
「その言葉はあまり信用できぬな」
「我々もそう思っております」
周囲から小さな笑いが漏れた。
その時、試験場の奥から将軍が現れた。
「これが例の空を飛ぶ機械か」
「はっ」
技術者が一礼する。
「外国では、鳥の翼を模した滑空機の研究が盛んにございます。しかし、我々は自力で離陸し、操縦し、着陸できる機械を目標といたしました」
将軍が機体を見上げた。
「なぜそこまで必要だ」
技術者は少し迷ってから答える。
「高い所から見れば、遠くまで見えるからにございます」
「それだけか」
「……敵の艦隊も、軍勢も」
老中たちの顔から笑みが消えた。
将軍はしばらく黙っていた。
やがて言う。
「なるほど」
「上様」
「戦の道具にはするな」
「は?」
「最初から兵器として作れば、外国も同じものを作る」
技術者が目を見開く。
将軍は機体を指した。
「まず郵便を運べ」
「郵便……にございますか」
「次に人を運べ」
「はっ」
「それでも余るなら、地図でも作れ」
老中が苦笑する。
「上様らしいご判断で」
「空まで戦場にしてどうする」
そう言い残し、将軍は試験場の端へ下がった。
やがて操縦士が機体へ乗り込む。
整備員がプロペラを回した。
激しい音とともに機関が始動する。
機体がゆっくりと進み始めた。
十間。
二十間。
速度が上がる。
そして――
車輪が地面から離れた。
誰も声を出さなかった。
巨大な翼が風を受け、機体は確かに空へ浮かんでいた。
一丈。
二丈。
さらに高く。
江戸の青空を、人工の鳥が飛んでいく。
老中が呟いた。
「……飛んだ」
技術者は震える手で記録帳へ書き込んだ。
飛行時間、十二分。
最高高度、百五十メートル。
飛行距離、七里余り。
そして機体は試験場へ戻り、ゆっくりと地面へ降りた。
その日の夕刻。
江戸城に正式な報告書が届けられた。
将軍は最後まで目を通し、ただ一言だけ書き加えた。
「実用化を進めよ。ただし、兵器転用には評定を要す」
数か月後。
欧米の新聞が、奇妙な記事を一斉に掲載した。
日本、有人動力飛行に成功。
アメリカ、オハイオ州。
自転車店を営む二人の兄弟が、その記事を黙って読んでいた。
弟がぽつりと言う。
「兄さん」
「なんだ」
「日本人、先に飛んだらしい」
兄は新聞を折り畳んだ。
「なら、もっと良いものを作ればいい」
弟は笑った。
その年の冬。
世界で二番目の有人動力飛行機が、ノースカロライナの空を飛ぶことになる。
そして遥か東では、すでに次の計画が始まっていた。
江戸から大阪まで、空を使って手紙を運ぶ。
世界初の航空郵便計画だった。
老中が書類を眺めながら呟く。
「空まで幕府の管轄になるとはな」
隣の役人が首を振った。
「違います」
「何がだ」
「上様は申されました」
役人は静かに答えた。
「空は誰のものでもない。だからこそ、先に法を作れ、と」
老中はしばらく黙った。
そして、ため息をついた。
「……やはり、そこからか」
幕府は今日も、飛ぶより先に規則を作ろうとしていた。