秋台風、午前二時の声
十月の台風は、夏の台風よりも機嫌が悪そうに聞こえた。
窓を叩く雨は細かく、風は建物の角を曲がるたびに甲高い声を上げる。昼間まで二十四度あった気温は、夜には十七度まで下がっていた。
午後十一時四十分、地域FM局「しおさいラジオ」の編集室で、藤村杏奈は膝へ薄いブランケットをかけた。
杏奈は二十四歳。赤みのある短い髪に、黒縁の丸眼鏡。普段の仕事は番組と番組の間に流す広告の編集で、マイクの前に座ることはほとんどない。
今夜も、商店街の秋祭りを宣伝する音声を作っていた。
軽快な太鼓の音に続き、男性の声が響く。
『食欲の秋! 焼き芋、栗ごはん、きのこ汁!』
杏奈はきのこ汁の部分だけ音量が大きいことに気づき、波形を調整した。
そこへ、放送室の扉が勢いよく開いた。
「杏奈、ニュース読める?」
局長の大森が、コンビニの袋を抱えて立っていた。五十八歳。首から社員証を下げたまま、なぜかレインコートまで着ている。
「読めません」
「まだ原稿を見せてないよ」
「見ても読めません」
「台風が予想より東へ寄った。市から緊急放送の依頼が来たんだけど、担当の久住さんが電車の中で止まってる」
「大森さんが読めばいいじゃないですか」
「入れ歯の調子が悪い」
「地域の危機と入れ歯を天秤にかけないでください」
「頼んだ」
大森は杏奈の机へ原稿を置き、逃げるように部屋を出た。
紙には、避難所の開設、河川沿いの道路の通行止め、ごみ収集の延期、翌朝の小中学校の登校時間変更が並んでいた。
杏奈は紙を持ったまま放送室へ入り、椅子に座った。
目の前にはマイクとミキサー、壁の時計。時計の秒針だけが、外の嵐を無視して平然と進んでいる。
大森がガラス越しに親指を立てた。
杏奈は親指を下へ向けた。
赤いランプが点灯した。
「こちらは、しおしおラジオです」
ガラスの向こうで、大森が頭を抱えた。
杏奈は一度、口を閉じた。
「失礼しました。こちらは、しおさいラジオです。台風第十九号の接近に伴う、市からのお知らせをお伝えします」
声が少し震えた。
自分の声がヘッドホンから返ってくる。いつも聞いている声なのに、自分のものではないようだった。
避難所の名前を二つ読み、道路の名称を一つ噛んだ。原稿を一枚めくろうとして二枚めくり、戻す時にマイクへ指をぶつけた。
ごん、と鈍い音が放送に乗った。
「ただいまの音は、台風によるものではありません。私です」
大森が口元を押さえて笑っている。
放送を終えると、番組宛てのメッセージが一件届いた。
《しおしおラジオ、少し和みました》
「和ませる時間じゃない!」
杏奈が叫ぶと、大森が放送室へ顔を出した。
「反応があるのはいいことだよ」
「局名を間違えた反応です」
「次は間違えなければいい」
十分後、また市役所から情報が届いた。
杏奈は二度目の放送を始めた。今度は局名を正しく言えた。通行止めの場所も、避難所の名称も噛まなかった。
放送を終える直前、リスナーからメッセージが入った。
《ベランダにサンダルを置いたままです。取りに行った方がいいでしょうか》
杏奈は予定していた締めの挨拶をやめた。
「風が強くなっています。ベランダへ出るのはやめてください。サンダルには申し訳ありませんが、今夜は自力で耐えてもらいましょう」
すぐに別のメッセージが届いた。
《去年、片方を飛ばされました。残った一足なので心配です》
「一足ではなく、片方ですね。どちらにしても外へ出ないでください」
メッセージの通知音が続いた。
《植木鉢は昼に入れました》
《物干し竿も下ろしました》
《自転車を倒しておきました》
《猫が風の音を怖がっています》
杏奈は一つずつ目を通した。
「窓や雨戸から離れ、安全な場所で過ごしてください。停電に備えて、携帯電話も充電しておきましょう。猫と暮らしている方は、猫の居場所も確認してください。ただし、押し入れに逃げ込んだ猫を無理に出す必要はありません」
《押し入れにいるのを、なぜ知っているんですか》
「猫はだいたい押し入れにいます」
放送室の空気が、少しだけ変わった。
風は強くなっている。電線の鳴る音も、雨が窓を打つ音も止まらない。それでも、街のあちこちにラジオを聞いている人がいると分かるだけで、杏奈の声は先ほどより安定した。
午前一時を過ぎた頃、市役所から新しい連絡が来た。
川沿いの一部で街灯が消え、確認のため作業員が向かっているという。夜間の外出を控え、近づかないよう呼びかけてほしいと書かれていた。
杏奈が原稿を読み終えると、ミキサーのボタンが一つ点滅した。
次に流す予定の音源が表示されていない。
「大森さん、緊急放送のジングルが消えてます」
「停電の影響かな」
「まだ停電してません」
「機械も雰囲気に流されたんだろう」
「代わりの音源は?」
「何か短いのを入れて」
杏奈は編集室のパソコンを遠隔操作し、音源の一覧を開いた。
十秒程度で、権利上の問題がなく、すぐに流せる音。
一つだけあった。
嫌な予感はした。
しかし、無音のまま放送を終えるよりはいい。
杏奈はボタンを押した。
軽快な太鼓が鳴った。
『食欲の秋! 焼き芋、栗ごはん、きのこ汁!』
真夜中の緊急放送に、きのこ汁だけが元気よく響き渡った。
ガラスの向こうで、大森が机へ突っ伏した。
杏奈は両手で顔を覆った。
メッセージが一斉に届いた。
《急に腹が減った》
《避難袋にきのこ汁は入っていません》
《こんな時間に焼き芋が食べたくなりました》
《うちの子が笑って、風を怖がらなくなりました》
最後の一文を読んで、杏奈は手を下ろした。
「ただいま、秋祭りの広告が流れました。開催日は延期になる可能性があります。今夜、きのこ汁を作るために外へ買い物へ行くのはやめてください」
《念押しが具体的すぎる》
「念のためです」
午前二時半、局の建物が大きく揺れた。
窓の外で何かが転がる音がした。杏奈は椅子から立ち上がりかけたが、自分で放送した言葉を思い出し、座り直した。
見に行かない。
大森も編集室から動かなかった。
二人で窓から離れ、放送を続けた。
杏奈は市から届く情報を読み、リスナーの質問へ答えた。分からないことは勝手に答えず、市役所へ確認した。
雨漏りの連絡にはバケツを置くよう伝え、窓ガラスが鳴るという相談にはカーテンを閉めて距離を取るよう勧めた。
午前三時過ぎ、風の音が少し遠ざかった。
メッセージの数も減り、代わりに報告が届くようになった。
《停電していません》
《サンダルはまだあります》
《猫が押し入れから出てきました》
《きのこ汁の夢を見そうです》
午前四時半、市は避難所を引き続き開設しながら、台風の中心が地域を離れつつあると発表した。
杏奈は最後の原稿を読み終えた。
「雨が弱まっても、増水した川や水路には近づかないでください。明るくなるまでは、できるだけ屋内でお過ごしください。こちらは、しおさいラジオでした」
赤いランプが消えた。
大森が放送室へ入ってきて、湯気の立つ紙コップを差し出した。
「お疲れさま」
「コーヒーですか?」
「粉末のコーンスープ」
「きのこ汁じゃないんですね」
「もう売り切れてた」
杏奈は両手で紙コップを包んだ。
外へ出る頃には、雨は細くなっていた。
玄関前には、風で飛ばされた黄色い落ち葉が何十枚も張りついている。空気は台風が来る前より冷たく、濡れた土と金木犀の残り香が混じっていた。
道路の端には、青いサンダルが一つ転がっていた。
杏奈は近づきかけ、足を止めた。
まだ風は残っている。
サンダルには申し訳ないが、朝まで自力で耐えてもらうことにした。
局内へ戻ると、新しいメッセージが届いていた。
《片方、いなくなりました》
杏奈は濡れた窓の向こうにある青いサンダルを見た。
それからマイクの電源を入れた。
「サンダルをお探しの方へ。無事は確認できました。ただし、迎えは風が収まってからお願いします」
窓を叩く雨は細かく、風は建物の角を曲がるたびに甲高い声を上げる。昼間まで二十四度あった気温は、夜には十七度まで下がっていた。
午後十一時四十分、地域FM局「しおさいラジオ」の編集室で、藤村杏奈は膝へ薄いブランケットをかけた。
杏奈は二十四歳。赤みのある短い髪に、黒縁の丸眼鏡。普段の仕事は番組と番組の間に流す広告の編集で、マイクの前に座ることはほとんどない。
今夜も、商店街の秋祭りを宣伝する音声を作っていた。
軽快な太鼓の音に続き、男性の声が響く。
『食欲の秋! 焼き芋、栗ごはん、きのこ汁!』
杏奈はきのこ汁の部分だけ音量が大きいことに気づき、波形を調整した。
そこへ、放送室の扉が勢いよく開いた。
「杏奈、ニュース読める?」
局長の大森が、コンビニの袋を抱えて立っていた。五十八歳。首から社員証を下げたまま、なぜかレインコートまで着ている。
「読めません」
「まだ原稿を見せてないよ」
「見ても読めません」
「台風が予想より東へ寄った。市から緊急放送の依頼が来たんだけど、担当の久住さんが電車の中で止まってる」
「大森さんが読めばいいじゃないですか」
「入れ歯の調子が悪い」
「地域の危機と入れ歯を天秤にかけないでください」
「頼んだ」
大森は杏奈の机へ原稿を置き、逃げるように部屋を出た。
紙には、避難所の開設、河川沿いの道路の通行止め、ごみ収集の延期、翌朝の小中学校の登校時間変更が並んでいた。
杏奈は紙を持ったまま放送室へ入り、椅子に座った。
目の前にはマイクとミキサー、壁の時計。時計の秒針だけが、外の嵐を無視して平然と進んでいる。
大森がガラス越しに親指を立てた。
杏奈は親指を下へ向けた。
赤いランプが点灯した。
「こちらは、しおしおラジオです」
ガラスの向こうで、大森が頭を抱えた。
杏奈は一度、口を閉じた。
「失礼しました。こちらは、しおさいラジオです。台風第十九号の接近に伴う、市からのお知らせをお伝えします」
声が少し震えた。
自分の声がヘッドホンから返ってくる。いつも聞いている声なのに、自分のものではないようだった。
避難所の名前を二つ読み、道路の名称を一つ噛んだ。原稿を一枚めくろうとして二枚めくり、戻す時にマイクへ指をぶつけた。
ごん、と鈍い音が放送に乗った。
「ただいまの音は、台風によるものではありません。私です」
大森が口元を押さえて笑っている。
放送を終えると、番組宛てのメッセージが一件届いた。
《しおしおラジオ、少し和みました》
「和ませる時間じゃない!」
杏奈が叫ぶと、大森が放送室へ顔を出した。
「反応があるのはいいことだよ」
「局名を間違えた反応です」
「次は間違えなければいい」
十分後、また市役所から情報が届いた。
杏奈は二度目の放送を始めた。今度は局名を正しく言えた。通行止めの場所も、避難所の名称も噛まなかった。
放送を終える直前、リスナーからメッセージが入った。
《ベランダにサンダルを置いたままです。取りに行った方がいいでしょうか》
杏奈は予定していた締めの挨拶をやめた。
「風が強くなっています。ベランダへ出るのはやめてください。サンダルには申し訳ありませんが、今夜は自力で耐えてもらいましょう」
すぐに別のメッセージが届いた。
《去年、片方を飛ばされました。残った一足なので心配です》
「一足ではなく、片方ですね。どちらにしても外へ出ないでください」
メッセージの通知音が続いた。
《植木鉢は昼に入れました》
《物干し竿も下ろしました》
《自転車を倒しておきました》
《猫が風の音を怖がっています》
杏奈は一つずつ目を通した。
「窓や雨戸から離れ、安全な場所で過ごしてください。停電に備えて、携帯電話も充電しておきましょう。猫と暮らしている方は、猫の居場所も確認してください。ただし、押し入れに逃げ込んだ猫を無理に出す必要はありません」
《押し入れにいるのを、なぜ知っているんですか》
「猫はだいたい押し入れにいます」
放送室の空気が、少しだけ変わった。
風は強くなっている。電線の鳴る音も、雨が窓を打つ音も止まらない。それでも、街のあちこちにラジオを聞いている人がいると分かるだけで、杏奈の声は先ほどより安定した。
午前一時を過ぎた頃、市役所から新しい連絡が来た。
川沿いの一部で街灯が消え、確認のため作業員が向かっているという。夜間の外出を控え、近づかないよう呼びかけてほしいと書かれていた。
杏奈が原稿を読み終えると、ミキサーのボタンが一つ点滅した。
次に流す予定の音源が表示されていない。
「大森さん、緊急放送のジングルが消えてます」
「停電の影響かな」
「まだ停電してません」
「機械も雰囲気に流されたんだろう」
「代わりの音源は?」
「何か短いのを入れて」
杏奈は編集室のパソコンを遠隔操作し、音源の一覧を開いた。
十秒程度で、権利上の問題がなく、すぐに流せる音。
一つだけあった。
嫌な予感はした。
しかし、無音のまま放送を終えるよりはいい。
杏奈はボタンを押した。
軽快な太鼓が鳴った。
『食欲の秋! 焼き芋、栗ごはん、きのこ汁!』
真夜中の緊急放送に、きのこ汁だけが元気よく響き渡った。
ガラスの向こうで、大森が机へ突っ伏した。
杏奈は両手で顔を覆った。
メッセージが一斉に届いた。
《急に腹が減った》
《避難袋にきのこ汁は入っていません》
《こんな時間に焼き芋が食べたくなりました》
《うちの子が笑って、風を怖がらなくなりました》
最後の一文を読んで、杏奈は手を下ろした。
「ただいま、秋祭りの広告が流れました。開催日は延期になる可能性があります。今夜、きのこ汁を作るために外へ買い物へ行くのはやめてください」
《念押しが具体的すぎる》
「念のためです」
午前二時半、局の建物が大きく揺れた。
窓の外で何かが転がる音がした。杏奈は椅子から立ち上がりかけたが、自分で放送した言葉を思い出し、座り直した。
見に行かない。
大森も編集室から動かなかった。
二人で窓から離れ、放送を続けた。
杏奈は市から届く情報を読み、リスナーの質問へ答えた。分からないことは勝手に答えず、市役所へ確認した。
雨漏りの連絡にはバケツを置くよう伝え、窓ガラスが鳴るという相談にはカーテンを閉めて距離を取るよう勧めた。
午前三時過ぎ、風の音が少し遠ざかった。
メッセージの数も減り、代わりに報告が届くようになった。
《停電していません》
《サンダルはまだあります》
《猫が押し入れから出てきました》
《きのこ汁の夢を見そうです》
午前四時半、市は避難所を引き続き開設しながら、台風の中心が地域を離れつつあると発表した。
杏奈は最後の原稿を読み終えた。
「雨が弱まっても、増水した川や水路には近づかないでください。明るくなるまでは、できるだけ屋内でお過ごしください。こちらは、しおさいラジオでした」
赤いランプが消えた。
大森が放送室へ入ってきて、湯気の立つ紙コップを差し出した。
「お疲れさま」
「コーヒーですか?」
「粉末のコーンスープ」
「きのこ汁じゃないんですね」
「もう売り切れてた」
杏奈は両手で紙コップを包んだ。
外へ出る頃には、雨は細くなっていた。
玄関前には、風で飛ばされた黄色い落ち葉が何十枚も張りついている。空気は台風が来る前より冷たく、濡れた土と金木犀の残り香が混じっていた。
道路の端には、青いサンダルが一つ転がっていた。
杏奈は近づきかけ、足を止めた。
まだ風は残っている。
サンダルには申し訳ないが、朝まで自力で耐えてもらうことにした。
局内へ戻ると、新しいメッセージが届いていた。
《片方、いなくなりました》
杏奈は濡れた窓の向こうにある青いサンダルを見た。
それからマイクの電源を入れた。
「サンダルをお探しの方へ。無事は確認できました。ただし、迎えは風が収まってからお願いします」