核が効かない隣国
「核が効かない隣国」
日本には、他国には存在しない技術があった。
核攻撃を完全に防御する技術。
それでも日本は平和国家のままだ。
自ら侵略戦争を始めず、領土問題も外交によって解決する。
その方針を最も複雑な思いで見ている国が、日本のすぐ北にあった。
ロシアである。
「日本への核攻撃が成功する可能性は?」
モスクワ。
ロシア大統領ヴィクトル・ヴォルコフは、国家安全保障会議の席で静かに尋ねた。
軍参謀総長が答える。
「ありません」
「ゼロか?」
「ゼロです」
「大量に撃っても?」
「同じです」
「極超音速兵器は?」
「核弾頭を搭載している限り、結果は変わりません」
ヴォルコフは机を指で二度叩いた。
「では通常弾頭なら?」
参謀総長が一瞬黙る。
「迎撃されます」
「どの程度?」
「ほぼすべて」
「……つまり、何を撃てばいい?」
誰も答えなかった。
ヴォルコフは椅子にもたれる。
ロシアは依然として世界有数の軍事大国だった。
巨大な国土。
豊富な資源。
強大な陸軍。
そして世界最大級の核戦力。
それらは今も、ほとんどの国家に対して強烈な意味を持つ。
ただ一国を除いて。
「日本だけか」
「はい」
「気に入らんな」
「はい」
「そこは否定してもいい」
「失礼しました」
ヴォルコフは資料を閉じた。
別の資料が置かれる。
表紙には、
『日露平和条約交渉』
と書かれていた。
ヴォルコフの表情がさらに険しくなる。
「今日だったか」
「はい。午後に安西首相との電話会談が予定されています」
「議題は?」
「平和条約及び北方四島です」
「……そうだろうな」
核兵器より、こちらの方が頭が痛かった。
かつて北方四島を巡る交渉には、ロシア側にも明確な軍事的優位があった。
日本が不満を持っても、力による奪還など現実的ではない。
だが今は違う。
軍事力は日本が圧倒的に上。
海軍力に至っては比較する意味さえ薄い。
核兵器も効かない。
そして何より――。
日本はロシアから資源を買わなくても困らない。
石油もある。
天然ガスもある。
レアメタルもある。
世界全体に匹敵するほど。
ヴォルコフが側近を見る。
「我々が北方四島を保持する最大の理由は?」
「安全保障です」
「経済的価値は?」
「ありますが、日本との関係悪化による損失と比較する必要があります」
「日本との貿易規模は?」
数字が読み上げられる。
ヴォルコフは黙った。
円は世界の基軸通貨。
日本は世界最大の市場。
ロシア極東から見れば、その巨大経済圏が海の向こうに存在する。
側近が続ける。
「日本政府は返還後について、ロシア系住民の居住権及び財産権を保障する案を提示しています」
「日本軍基地は?」
「配置しない協定について協議可能とのことです」
「米軍」
「同様です」
「共同経済区域は?」
「日本側は前向きです」
ヴォルコフは眉間を押さえた。
「条件が良すぎる」
側近が戸惑う。
「問題でしょうか?」
「断りづらい」
そこだった。
昔なら言えた。
安全保障上、返還できない。
戦略上、重要である。
日米同盟がある以上、米軍基地が置かれる可能性を排除できない。
だが日本は今、そのすべてに回答を用意していた。
しかも日本軍は、ロシアが四島に何を配備しようと関係ないほど強い。
「いっそ脅してくれれば楽なのだがな」
「日本をですか?」
「違う。日本が我々をだ」
側近は黙った。
ヴォルコフは窓の外を見る。
「『返さなければ奪う』と言ってくれれば、我々は祖国防衛を叫べる」
「……」
「だが安西は言わない」
その日の午後。
電話が鳴った。
『お久しぶりです、ヴィクトル』
「久しぶりだ、晋一郎」
『体調はいかがですか』
「悪くない。君の国について考える時間が増えたこと以外は」
電話の向こうで安西が笑った。
『それは光栄です』
「褒めていない」
『最近それをよく言われます』
ヴォルコフはわずかに口元を緩めた。
「北方四島だろう」
『ええ』
「君は毎回それを言う」
『日本の立場は変わっていませんから』
「軍事力で奪うつもりは?」
『ありません』
即答だった。
ヴォルコフは目を細める。
「なぜだ?」
今度は安西が黙った。
『なぜ、と言われましても』
「君たちならできる」
『できるかどうかと、やっていいかどうかは別でしょう』
「……」
『戦争で取り戻した島に、どんな未来があるんです?』
ヴォルコフは答えなかった。
安西が続ける。
『ロシアと平和条約を結びたい。そのうえで、両国が納得できる形で領土問題を解決したい。それだけです』
「我々が拒否したら?」
『また話しましょう』
「来年も?」
『もちろん』
「十年後も?」
『必要なら』
ヴォルコフは額に手を当てた。
「君は面倒な男だな」
『よく言われます』
「それは嘘だろう」
『分かります?』
初めて、ヴォルコフが小さく笑った。
通話終了後。
側近が尋ねる。
「いかがでしたか?」
「変わらん」
「交渉は?」
「続ける」
「返還についても?」
ヴォルコフは少し考えた。
「四島すべてを含めて、条件を再検討しろ」
側近が目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「勘違いするな。返すと決めたわけではない」
「はい」
「だが、持っているだけで得をする時代でもない」
ヴォルコフは日本列島が描かれた地図を見る。
かつてロシアは、日本に対して核兵器という絶対的な抑止力を持っていた。
資源という外交カードもあった。
北方四島についても、時間はロシア側にあると思っていた。
そのすべてが変わった。
日本には核が効かない。
資源も効かない。
軍事力でも勝てない。
なのに、日本は攻めてこない。
だからこそ、交渉を拒み続ける理由が少しずつ消えていく。
側近が退出しようとした時、ヴォルコフが呼び止めた。
「一つ聞く」
「はい」
「日本が最後に他国の領土を軍事力で奪ったのはいつだ?」
側近は資料を確認する。
「現在の体制になってからは、一度もありません」
「そうか」
「はい」
ヴォルコフは再び地図へ視線を落とした。
「なら、しばらくは信じてやる」
側近が出ていく。
執務室には一人だけが残った。
机の上には、北方四島の地図。
その隣には日本の軍事力についての報告書。
ヴォルコフは後者を手に取り、しばらく眺めた。
そして引き出しへ放り込んだ。
「勝てない相手の戦力を数えても仕方がない」
今度は北方四島の資料を手に取る。
こちらは閉じなかった。
核が効かない隣国。
軍事力では到底かなわない隣国。
それでも、戦争ではなく交渉を求め続ける隣国。
ヴィクトル・ヴォルコフにとって――。
それは強大な敵より、少しだけ扱いに困る存在だった。
日本には、他国には存在しない技術があった。
核攻撃を完全に防御する技術。
それでも日本は平和国家のままだ。
自ら侵略戦争を始めず、領土問題も外交によって解決する。
その方針を最も複雑な思いで見ている国が、日本のすぐ北にあった。
ロシアである。
「日本への核攻撃が成功する可能性は?」
モスクワ。
ロシア大統領ヴィクトル・ヴォルコフは、国家安全保障会議の席で静かに尋ねた。
軍参謀総長が答える。
「ありません」
「ゼロか?」
「ゼロです」
「大量に撃っても?」
「同じです」
「極超音速兵器は?」
「核弾頭を搭載している限り、結果は変わりません」
ヴォルコフは机を指で二度叩いた。
「では通常弾頭なら?」
参謀総長が一瞬黙る。
「迎撃されます」
「どの程度?」
「ほぼすべて」
「……つまり、何を撃てばいい?」
誰も答えなかった。
ヴォルコフは椅子にもたれる。
ロシアは依然として世界有数の軍事大国だった。
巨大な国土。
豊富な資源。
強大な陸軍。
そして世界最大級の核戦力。
それらは今も、ほとんどの国家に対して強烈な意味を持つ。
ただ一国を除いて。
「日本だけか」
「はい」
「気に入らんな」
「はい」
「そこは否定してもいい」
「失礼しました」
ヴォルコフは資料を閉じた。
別の資料が置かれる。
表紙には、
『日露平和条約交渉』
と書かれていた。
ヴォルコフの表情がさらに険しくなる。
「今日だったか」
「はい。午後に安西首相との電話会談が予定されています」
「議題は?」
「平和条約及び北方四島です」
「……そうだろうな」
核兵器より、こちらの方が頭が痛かった。
かつて北方四島を巡る交渉には、ロシア側にも明確な軍事的優位があった。
日本が不満を持っても、力による奪還など現実的ではない。
だが今は違う。
軍事力は日本が圧倒的に上。
海軍力に至っては比較する意味さえ薄い。
核兵器も効かない。
そして何より――。
日本はロシアから資源を買わなくても困らない。
石油もある。
天然ガスもある。
レアメタルもある。
世界全体に匹敵するほど。
ヴォルコフが側近を見る。
「我々が北方四島を保持する最大の理由は?」
「安全保障です」
「経済的価値は?」
「ありますが、日本との関係悪化による損失と比較する必要があります」
「日本との貿易規模は?」
数字が読み上げられる。
ヴォルコフは黙った。
円は世界の基軸通貨。
日本は世界最大の市場。
ロシア極東から見れば、その巨大経済圏が海の向こうに存在する。
側近が続ける。
「日本政府は返還後について、ロシア系住民の居住権及び財産権を保障する案を提示しています」
「日本軍基地は?」
「配置しない協定について協議可能とのことです」
「米軍」
「同様です」
「共同経済区域は?」
「日本側は前向きです」
ヴォルコフは眉間を押さえた。
「条件が良すぎる」
側近が戸惑う。
「問題でしょうか?」
「断りづらい」
そこだった。
昔なら言えた。
安全保障上、返還できない。
戦略上、重要である。
日米同盟がある以上、米軍基地が置かれる可能性を排除できない。
だが日本は今、そのすべてに回答を用意していた。
しかも日本軍は、ロシアが四島に何を配備しようと関係ないほど強い。
「いっそ脅してくれれば楽なのだがな」
「日本をですか?」
「違う。日本が我々をだ」
側近は黙った。
ヴォルコフは窓の外を見る。
「『返さなければ奪う』と言ってくれれば、我々は祖国防衛を叫べる」
「……」
「だが安西は言わない」
その日の午後。
電話が鳴った。
『お久しぶりです、ヴィクトル』
「久しぶりだ、晋一郎」
『体調はいかがですか』
「悪くない。君の国について考える時間が増えたこと以外は」
電話の向こうで安西が笑った。
『それは光栄です』
「褒めていない」
『最近それをよく言われます』
ヴォルコフはわずかに口元を緩めた。
「北方四島だろう」
『ええ』
「君は毎回それを言う」
『日本の立場は変わっていませんから』
「軍事力で奪うつもりは?」
『ありません』
即答だった。
ヴォルコフは目を細める。
「なぜだ?」
今度は安西が黙った。
『なぜ、と言われましても』
「君たちならできる」
『できるかどうかと、やっていいかどうかは別でしょう』
「……」
『戦争で取り戻した島に、どんな未来があるんです?』
ヴォルコフは答えなかった。
安西が続ける。
『ロシアと平和条約を結びたい。そのうえで、両国が納得できる形で領土問題を解決したい。それだけです』
「我々が拒否したら?」
『また話しましょう』
「来年も?」
『もちろん』
「十年後も?」
『必要なら』
ヴォルコフは額に手を当てた。
「君は面倒な男だな」
『よく言われます』
「それは嘘だろう」
『分かります?』
初めて、ヴォルコフが小さく笑った。
通話終了後。
側近が尋ねる。
「いかがでしたか?」
「変わらん」
「交渉は?」
「続ける」
「返還についても?」
ヴォルコフは少し考えた。
「四島すべてを含めて、条件を再検討しろ」
側近が目を見開いた。
「よろしいのですか?」
「勘違いするな。返すと決めたわけではない」
「はい」
「だが、持っているだけで得をする時代でもない」
ヴォルコフは日本列島が描かれた地図を見る。
かつてロシアは、日本に対して核兵器という絶対的な抑止力を持っていた。
資源という外交カードもあった。
北方四島についても、時間はロシア側にあると思っていた。
そのすべてが変わった。
日本には核が効かない。
資源も効かない。
軍事力でも勝てない。
なのに、日本は攻めてこない。
だからこそ、交渉を拒み続ける理由が少しずつ消えていく。
側近が退出しようとした時、ヴォルコフが呼び止めた。
「一つ聞く」
「はい」
「日本が最後に他国の領土を軍事力で奪ったのはいつだ?」
側近は資料を確認する。
「現在の体制になってからは、一度もありません」
「そうか」
「はい」
ヴォルコフは再び地図へ視線を落とした。
「なら、しばらくは信じてやる」
側近が出ていく。
執務室には一人だけが残った。
机の上には、北方四島の地図。
その隣には日本の軍事力についての報告書。
ヴォルコフは後者を手に取り、しばらく眺めた。
そして引き出しへ放り込んだ。
「勝てない相手の戦力を数えても仕方がない」
今度は北方四島の資料を手に取る。
こちらは閉じなかった。
核が効かない隣国。
軍事力では到底かなわない隣国。
それでも、戦争ではなく交渉を求め続ける隣国。
ヴィクトル・ヴォルコフにとって――。
それは強大な敵より、少しだけ扱いに困る存在だった。