第一次世界大戦へ

 大正三年――ではなく、徳川治世二百七十九年。
 西暦一九一四年。
 江戸城の一室に、欧州から届いた報告書が積み上げられていた。
 オーストリアがセルビアへ宣戦布告。
 ロシアが動員を開始。
 ドイツがロシア、フランスへ宣戦。
 そしてドイツ軍はベルギーへ侵攻した。
 老中の一人が地図を見つめる。
「わずか一月で、ここまで広がるとは」
「同盟とは厄介なものだ。一国が戦えば、次々と引きずり込まれる」
 上座の将軍は何も言わなかった。
 やがて老中が尋ねる。
「英国より参戦要請が届いております」
「断れ」
 即答だった。
「欧州の争いに我が国が兵を出す理由はない」
 日本は二百年以上前、黒船来航を機に世界との交易を始めた。
 だが、外国に領土を求めることはなかった。
 その間にも工業力は拡大を続け、今や日本の造船所、製鉄所、油田、兵器工場は世界最大級の規模を誇っている。
 それでも幕府の原則は変わらなかった。
 戦を日本へ持ち込まない。
 そして、日本から戦を持ち出さない。
「では、中立を宣言いたします」
「そうせよ」
 数か月が過ぎた。
 しかし、戦争は終わらなかった。
 西部戦線には塹壕が延び、若者たちが一日に何万人という単位で死んでいく。
 さらに海では商船が沈められ、民間人にも犠牲が出始めた。
 ある日、再び評定が開かれた。
「ドイツ政府は、我が国商船についても安全を保証できぬと回答しております」
 室内の空気が変わった。
「こちらは中立国だぞ」
「承知の上とのことにございます」
 沈黙。
 将軍が報告書を置いた。
「使者を送れ」
「最後通牒にございますか?」
「違う」
 将軍は静かに首を振った。
「英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア。すべてだ」
 老中たちが顔を上げる。
「江戸へ呼べ」
 数週間後。
 各国政府へ同じ文書が届けられた。
 ――日本国政府は、交戦各国に対し即時停戦協議を提案する。
 ドイツ政府は拒否した。
 フランスも拒否した。
 ロシアも応じなかった。
 英国からは、まずドイツ軍がベルギーから撤退すべきだとの回答が届いた。
 再び江戸城。
「全て拒絶か」
「はい」
 将軍はしばらく黙っていた。
 やがて、ため息をつく。
「ならば仕方あるまい」
 老中が身を正した。
「参戦いたしますか」
「まだだ」
 将軍は世界地図へ目を落とした。
「戦争を続けるための物を、我が国から売るな」
「石油も?」
「止めよ」
「鉄鋼も?」
「止めよ」
「工作機械も?」
「すべてだ」
 老中が息を呑んだ。
 日本は世界最大級の産油国であり、工業国でもある。
 その国が、交戦国すべてへの軍需輸出を停止する。
 世界経済への影響は計り知れない。
「そして伝えよ」
 将軍は続けた。
「停戦協議に応じた国から、民需取引を再開する」
「つまり……」
「戦を続けるなら、自分たちの物だけで続ければよい」
 数日後。
 ロンドン市場が揺れた。
 ベルリンでは軍需当局が緊急会議を開いた。
 パリも、ウィーンも、ペトログラードも同じだった。
 そして世界中の新聞が、一面に同じ言葉を載せた。
『江戸、交戦国への戦略物資輸出を停止』
 それでも戦争は止まらない。
 さらに半年後。
 何十万もの新たな死者が積み上がった。
 江戸城に、再び報告が届く。
 将軍はそれを最後まで読み、静かに閉じた。
「……まだやるのか」
 誰も答えなかった。
 その日の夕刻。
 横須賀、呉、佐世保。
 長く港に留め置かれていた巨大艦隊に、同時に命令が届いた。
 だが、その命令は攻撃ではなかった。
 ――欧州近海へ進出せよ。
 ――中立国商船の航路を確保せよ。
 ――交戦国双方による攻撃を認めず。
 世界最大級の海軍が、初めて欧州へ向けて動き始めた。
 翌朝。
 英国政府から江戸へ電報が届く。
 その直後、ドイツ政府からも届いた。
 どちらにも書かれていた言葉は、ほとんど同じだった。
『停戦協議について、改めて検討したい』
 報告を聞いた将軍は、小さく頷いた。
「最初から、そうすればよい」
 老中が尋ねる。
「では、各国代表をどちらへ?」
 将軍は当然のように答えた。
「江戸へ」
 数か月後。
 欧州の大国すべての代表が、江戸城へ集まった。
 後世、この出来事は第一次世界大戦の転換点として語られることになる。
 世界最強の軍隊が戦場へ到着した日ではない。
 世界最大級の工業国が、兵器を作り始めた日でもない。
 世界最大級の力を持つ国家が、「もうやめろ」と言った日だった。

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