日本の四つの島を、戦争ではなく

「日本の四つの島を、戦争ではなく」

 北方四島。
 択捉島。
 国後島。
 色丹島。
 歯舞群島。
 その日、東京とモスクワは最終交渉に入った。
 モスクワ。
「四島すべてか」
 ヴィクトル・ヴォルコフは、日本側から提出された文書を見つめていた。
「はい」
 外相が答える。
「日本政府は、四島の日本への帰属確認を平和条約締結の最終条件としています」
「二島では?」
「受け入れないとのことです」
「共同統治」
「最終的な主権については日本」
「期限は?」
「設けていません」
 ヴォルコフが顔を上げた。
「期限がない?」
「はい」
「返還しなければ制裁すると?」
「ありません」
「円決済を止める?」
「ありません」
「ロシア企業を日本市場から締め出す?」
「ありません」
「軍事的圧力」
「日本政府は明確に否定しています」
 ヴォルコフは椅子にもたれた。
「……相変わらずだな」
 日本は世界最強国家である。
 その気になれば、ロシアが対抗するのは極めて難しい。
 日本海軍はロシア太平洋艦隊を圧倒する。
 核による抑止も成立しない。
 経済力は比較にならない。
 しかもロシアが持つ石油や天然ガスを、日本は必要としていない。
 普通なら、その力を交渉に使う。
 だが日本は使わない。
 だからこそ、厄介だった。
「日本側の提案を全部見せろ」
 別の資料が置かれる。
 ヴォルコフが読み始める。
 返還後、一定期間の移行期間を設置。
 現在居住するロシア人について、永住権を保障。
 土地・住宅などの財産権を保障。
 ロシア語教育を保障。
 ロシア正教会など宗教施設を保護。
 ロシア国民について一定期間、査証なし渡航を認める。
 漁業権について長期的な日露共同枠組みを設定。
 さらに――。
「日本軍基地を置かない?」
「はい」
「米軍は?」
「置かない」
「永久に?」
 外相が少し黙った。
「そこが最大の論点です」
 ヴォルコフの目が細くなる。
 日本政府は返還後の一定期間、外国軍基地を設置しないことには応じている。
 しかし、
 将来のすべての日本政府を永久に拘束することはできない。
 日本側はそう主張していた。
「当然だな」
 外相が少し驚く。
「よろしいのですか?」
「百年後の日本政府にまで、安西が命令できるわけがない」
「では安全保障上の懸念は?」
「残る」
 ヴォルコフは資料を置いた。
「だから交渉する」
 東京。
 同じころ。
 安西晋一郎も会議を開いていた。
「ロシア側が一番気にしているのは、やっぱり基地?」
「はい」
 外相が答える。
「特に米軍です」
「ドナルドは?」
「『Americaは北方四島に基地を必要としていない』と」
「珍しく話が早いな」
「その後、『日本が必要なら置けばいい』と」
「余計な一言も早いな……」
 安西が額を押さえた。
 防衛相が口を開く。
「自衛隊基地については?」
「最低限でいいでしょう」
「ロシア側が完全非武装化を要求する可能性があります」
「それは無理だね」
 安西の答えは早かった。
「日本領になるなら、日本には守る責任がある」
「では一定規模の沿岸警備・防空設備は?」
「必要でしょう」
 安西は地図を見る。
 四つの島。
 日本から見れば、長年返還を求め続けてきた領土。
 ロシアから見れば、八十年以上実効支配してきた土地。
 そこには今、生きている人間がいる。
「ロシア人住民はどうなる?」
「希望者には日本の永住資格を付与する案です」
「国籍は?」
「ロシア国籍を維持できます」
「日本国籍を希望したら?」
「取得可能にします」
 安西は頷いた。
「追い出すようなことだけは絶対にやめよう」
「はい」
「島を取り戻すために、島に住んでいる人を不幸にしたら意味がない」
 交渉の舞台は、北海道だった。
 根室。
 海の向こうには国後島がある。
 安西とヴォルコフは、長いテーブルを挟んで向かい合った。
 電話ではない。
 今回は二人とも、相手の顔が見える。
 ヴォルコフが最初に口を開いた。
「晋一郎」
「はい」
「一つ確認する」
「どうぞ」
「日本は、この交渉が決裂しても武力を使わない」
「使いません」
 即答だった。
「経済制裁も?」
「領土交渉を理由には行いません」
「なら、日本には何が残る?」
 安西が少し笑った。
「また交渉します」
 ヴォルコフは黙った。
「十年でも?」
「必要なら」
「二十年」
「やりますよ」
「君が首相でなくなっても?」
「次の人にお願いしておきます」
 ヴォルコフは小さく息を吐いた。
「面倒な国だ」
「前にも言われましたね」
「褒めてはいない」
「知ってます」
 交渉は六時間続いた。
 漁業。
 住民。
 行政。
 警察。
 海域。
 港湾。
 航空。
 税制。
 年金。
 学校。
 医療。
 墓地。
 問題は数え切れない。
 そして最後に、基地問題が残った。
 ヴォルコフが言う。
「米軍基地を永久に置かない保証が欲しい」
 安西は首を横に振った。
「それはできません」
「なぜだ」
「私が将来の日本政府の権限まで奪うことになるからです」
「なら返せない」
「では、期間を決めましょう」
「何年だ」
「五十年」
 ヴォルコフの眉が動いた。
「長いな」
「短いよりいいでしょう」
「五十年後に米軍基地ができる可能性は残る」
「あります」
「自衛隊は?」
「沿岸警備と防空に必要な最低限の部隊を置きます」
「攻撃兵器」
「置きません」
「長距離ミサイル」
「置きません」
「核兵器」
 安西が少し笑った。
「そもそも日本には必要ありません」
 ヴォルコフもわずかに口元を緩めた。
「それはそうだったな」
 夕方。
 交渉は休憩に入った。
 ヴォルコフは一人、窓から海を見ていた。
 側近が近づく。
「大統領」
「なんだ」
「国内の反発は避けられません」
「分かっている」
「四島すべてとなれば、弱腰との批判も」
「それも分かっている」
「ならば――」
 ヴォルコフが振り返る。
「日本に負けたから返すのではない」
 側近が黙る。
「そこを間違えるな」
「では?」
「ロシアが得るものを作る」
 ヴォルコフは机の資料を指差した。
 日本からロシア極東への大規模投資。
 港湾整備。
 鉄道。
 医療。
 AI。
 農業。
 寒冷地都市開発。
 北極航路。
 そして日露自由貿易圏。
「島を持ち続ける利益と、日本との平和条約によって得る利益を比較しろ」
「……」
「感情ではなく数字でだ」
「はい」
 ヴォルコフは海へ視線を戻した。
「勝てない相手だから譲るのではない」
 少し間を置く。
「取引として、得をすればいい」
 やはりこの男は、最後まで現実主義者だった。
 翌朝。
 交渉再開。
 ヴォルコフが一枚の紙を安西へ渡した。
「ロシア側の最終案だ」
 安西が読む。
 四島の主権を日本へ移管。
 移行期間、十年。
 ロシア住民の権利保障。
 五十年間、外国軍基地を設置しない。
 攻撃用長距離兵器を配備しない。
 周辺海域に日露共同漁業区域を設定。
 日本はロシア極東への長期経済協力を実施。
 そして――。
 日露平和条約を締結する。
 安西は最後まで読み終えた。
「ヴィクトル」
「なんだ」
「いいんですか?」
 ヴォルコフは腕を組んだ。
「その質問をするな」
「いや、でも」
「返してほしかったのだろう?」
「そうですけど」
「なら喜べ」
 安西は少し笑った。
「ありがとうございます」
「礼も言うな」
「難しいな……」
 ヴォルコフが安西を見る。
「一つ条件がある」
「何でしょう」
「式典で、『ロシアが日本の圧力に屈した』などという演説をしたら帰る」
 安西は苦笑した。
「言いませんよ」
「本当だな?」
「むしろ、日露双方の決断によって解決したと言います」
 ヴォルコフは頷いた。
「それでいい」
 数か月後。
 東京。
 日本国とロシア連邦の平和条約が署名された。
 世界中へ速報が流れる。
『北方四島、日本へ返還』
『日露、平和条約締結』
『長年の領土問題が終結』
 日本国内では歓声が上がった。
 根室では元島民とその家族がテレビを見ながら泣いていた。
 ロシア国内では批判も出た。
 しかし同時に、日本企業による極東投資計画が発表された。
 ウラジオストク。
 サハリン。
 ハバロフスク。
 ロシア極東に、日本から巨額の資本が流れ始める。
 そして、返還の日。
 国後島。
 日本とロシアの国旗が並んでいた。
 ロシア国旗が降ろされる。
 日本国旗が上がる。
 だが、その横には小さなロシア国旗も残された。
 島に暮らすロシア人住民たちが持っていたものだった。
 日本の警察官とロシアの警察官が並ぶ。
 十年間の共同移行行政が始まる。
 安西は式典で演説した。
「今日、勝者はいません」
 会場が静かになる。
「そして敗者もいません」
 ヴォルコフが無言で聞いている。
「長い時間を要しました。しかし日本とロシアは、武器ではなく、言葉によって一つの問題を終わらせました」
 安西は海を見る。
「この四つの島が、これから日本とロシアを隔てる場所ではなく、結ぶ場所になることを願っています」
 拍手が起こった。
 ヴォルコフは拍手しなかった。
 ただ、小さく頷いた。
 式典終了後。
 二人は海岸を歩いていた。
 安西が尋ねる。
「ヴィクトル」
「なんだ」
「本当に拍手くらいしてくれてもよかったんじゃないですか?」
「調子に乗るな」
「厳しいな」
「四島全部返したんだ。十分だろう」
「それは確かに」
 少し歩く。
 ヴォルコフが立ち止まった。
「晋一郎」
「はい」
「日本が今ほど強くなければ、この結果にはならなかった」
 安西は何も言わない。
「だが」
 ヴォルコフは続ける。
「日本がその力を使おうとしていたら、もっと返さなかっただろう」
 安西が彼を見る。
 ヴォルコフは海の向こうを見たままだった。
「覚えておけ」
「……はい」
 再び歩き出す。
 世界最強国家、日本。
 軍事力なら、もっと早く決着できたかもしれない。
 経済力なら、ロシアを追い込むこともできた。
 核兵器さえ恐れる必要はなかった。
 それでも、日本は待った。
 話した。
 譲れるところを探した。
 そして最後に手に入れたのは、四つの島だけではなかった。
 戦争をせずに領土問題を終わらせた、という事実だった。
 北の海では、日本とロシアの漁船が同じ漁場へ向かっていた。
 国境は残る。
 国益も違う。
 これからも揉めるだろう。
 それでも――。
 少なくとも四つの島を巡って、もう誰かが武器を持つ必要はなかった。

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