シルバーウィーク第二弾、休む予定が満員です
シルバーウィーク第二弾の初日、森下栞は玄関のドアに紙を貼った。
《連休中につき、急用以外は対応しません》
その下に、さらに小さく書き加える。
《宅配便は急用に含みます》
栞は二十七歳。肩まで伸ばした黒髪を無造作に結び、古いスウェットの上下を着ていた。普段は都内の小さな花屋で働いている。
シルバーウィーク前半は忙しかった。
敬老の日の花束、結婚式の卓上花、秋の彼岸用の仏花。店頭には朝から客が並び、栞は三日間で百回以上、菊とリンドウを束ねた。
連休後半の二日間だけは、何もしないと決めていた。
目覚まし時計をかけない。
化粧をしない。
外出しない。
食事は昨日買った冷凍うどんと、賞味期限が近いプリンで済ませる。
壮大な計画である。
午前九時、栞はソファへ寝転び、毛布を腹までかけた。
九月の初めには邪魔だった毛布が、今日はちょうどいい。窓を少し開けると、冷えた風がレースのカーテンを膨らませた。向かいの家の柿の木には、まだ青い実がいくつも下がっている。
遠くで運動会らしい笛の音が鳴った。
栞はテレビの電源を入れた。
その直後、玄関の呼び鈴が鳴った。
紙を貼ってから、まだ三分しか経っていない。
栞は動かなかった。
二度目の呼び鈴が鳴る。
続いて、ドアの向こうから声がした。
「森下さん、急用です」
隣室に住む八十歳の三枝ハツだった。
栞は毛布を引きずりながら玄関へ向かった。
「どうしたの?」
「ベランダに蜂がいるの」
「それは管理会社へ連絡した方がいいよ」
「でもね、よく見たら蜂じゃない気もするの」
「何だったの?」
「まだ分からないから、見てほしいの」
栞はサンダルを履き、隣の部屋へ入った。
ハツのベランダでは、大きなスズメガが網戸に止まっていた。
「蛾だね」
「蜂じゃない?」
「蜂じゃない」
「刺さない?」
「たぶん刺さないけど、近づかない方がいいよ」
栞が窓を閉めると、ハツは安心したように頷いた。
「助かったわ。栗ごはん、食べる?」
台所から、炊きたての香りが流れてきた。
栞は一瞬だけ迷った。
「少しなら」
十五分後、茶碗一杯の栗ごはんと、ナスのみそ汁を食べ終えた。
部屋へ戻った時刻は午前九時四十分。
まだ何も失っていない。
ソファへ寝転び直したところで、再び呼び鈴が鳴った。
今度は向かいの部屋に住む大学生の亮太だった。手には、しおれた観葉植物を抱えている。
「森下さん、急用です」
「その言い方、流行ってる?」
「植物が死にそうです」
「いつから水をあげてないの?」
「実家に帰ってたので、十日くらい」
「シルバーウィーク前半、丸ごと帰ってたんだ」
「親が帰るなって言うまでいました」
植物はポトスだった。
栞が土へ指を入れると、完全に乾いている。
「水をあげて、直射日光を避けて。急に大量の肥料は入れないで」
「栄養ドリンクは?」
「人間用はやめて」
「冷蔵庫に余ってるんですけど」
「自分で飲みなさい」
亮太は納得したように頷き、部屋へ戻った。
午前十時十五分。
栞がテレビをつけ直すと、玄関の外で複数の声がした。
嫌な予感がする。
ドアを開けると、同じ階の住人が四人並んでいた。
「森下さん、急用です」
先頭に立っていた小学生の少女が、両手で植木鉢を抱えていた。
鉢には、茎しか残っていない朝顔が植わっている。
「学校へ持っていくんだけど、種が取れないの」
その後ろの会社員は、葉の落ちたミニ盆栽を持っていた。
「連休中に急に元気がなくなりまして」
さらに後ろの若い夫婦は、結婚祝いでもらった胡蝶蘭を抱えている。
「花が全部落ちました」
栞は玄関の紙を見た。
《急用以外は対応しません》
植物の持ち主たちは、全員真剣な顔をしている。
どうやら、植物の不調はすべて急用として処理されているらしい。
栞は紙を剥がし、裏側へ新しく書いた。
《植物相談は午後二時から三時まで》
すると、小学生が尋ねた。
「今は?」
時計は十時二十分だった。
「今日は特別に受付中です」
栞の部屋は、臨時の植物相談所になった。
ベランダへ植木鉢が並び、ローテーブルにはハサミ、割り箸、古新聞が置かれた。
栞は枯れた葉を取り、根腐れを確認し、土の状態を見た。
朝顔からは、茶色く乾いた実がいくつも見つかった。実を割ると、中から黒い種がこぼれた。
小学生は歓声を上げた。
「死んでなかった!」
「朝顔は秋になると枯れるの。種が残っていれば、来年また育てられるよ」
「じゃあ、休んでるだけ?」
「長めの休みみたいなものかな」
栞は言いながら、自分のソファを見た。
自分も今日、長めの休みに入る予定だった。
昼前になると、相談所の噂が別の階まで広がった。
「シクラメンを夏の間、外へ出しっぱなしにした」
「ミントが増えすぎて、鉢から逃げ出しそう」
「名前が分からない植物をもらった」
「サボテンが傾いた」
玄関には植木鉢を持った住人が列を作った。
栞は頭を抱えた。
「ここ、花屋じゃないんだけど」
ハツが自分の部屋から折り畳み椅子を持ってきた。
「でも、花屋さんがいるじゃない」
「今日は休みなの」
「連休だものね」
「その連休を、今ここで消費してるんだよ」
亮太は栄養ドリンクを飲みながら、受付係を始めた。
「お名前と植物名をお願いします」
「受付まで作らないで」
「植物名が分からない人は、特徴を書いてください」
「順応が早すぎる」
午後一時、マンションの管理人までやって来た。
胸に抱えているのは、エントランスに置かれていた大きな鉢植えだった。
「森下さん、これも頼めるかな」
「管理人さんまで?」
「葉っぱが黄色くなってね。管理組合で会議にするか迷ってたんだ」
「会議にする前に水の量を見直して」
栞が鉢底を確認すると、受け皿に水がたまっていた。
「毎日、誰が水をあげてるの?」
「私と清掃員さんと、三階の奥さん」
「三人とも?」
「親切な住人が、ほかにもいるかもしれない」
植物は、水不足ではなく親切の集中攻撃を受けていた。
「今日から一人だけ担当を決めて」
栞が言うと、周囲から笑いが起きた。
午後二時を過ぎる頃には、ベランダも廊下も植木鉢で埋まっていた。
冷たい風が吹くたび、ミントやローズマリーの匂いが広がる。どこかの家から焼き魚の匂いも流れてきた。
空は薄い雲に覆われ、朝より気温が下がっている。
栞がくしゃみをすると、ハツが薄手のカーディガンを持ってきた。
「これ、着なさい」
「大丈夫だよ」
「休みの日に風邪をひいたら、もったいないでしょう」
それは確かにそうだった。
栞は素直に袖を通した。
午後三時、最後の相談者が帰った。
朝顔の種を手に入れた少女は、来年の分を栞にも三粒くれた。若い夫婦は、花が落ちた胡蝶蘭を捨てずに育てることにした。
亮太のポトスも、少しだけ葉に張りが戻っている。
栞はようやくソファへ倒れ込んだ。
テレビでは、シルバーウィーク後半の行楽地を紹介していた。紅葉にはまだ早い山、満員の観光列車、長い高速道路の渋滞。
栞はそれを眺めながら、冷めた麦茶を飲んだ。
今日はどこにも行かなかった。
それでも、朝から十七種類の植物と、十二人の住人が部屋を出入りした。
休んだ気はしない。
午後四時、また呼び鈴が鳴った。
栞はクッションへ顔を埋めた。
「本日の受付は終了しました!」
ドアの向こうからハツの声がした。
「焼き芋ができたの」
栞は顔を上げた。
「それは急用?」
「冷める前に食べないと」
栞は立ち上がり、玄関を開けた。
ハツは新聞紙に包んだ焼き芋を二本持っていた。割れ目から、黄色い中身と湯気が見える。
廊下には、相談を終えた住人たちも集まっていた。亮太は折り畳み椅子を並べ、管理人は温かいお茶を運んでいる。
いつの間にか、マンションの小さな廊下が秋の休憩所になっていた。
栞は焼き芋を受け取り、一口かじった。
甘くて熱い。
冷えた指先まで、じわじわと温まった。
「明日は絶対、何もしないからね」
栞が宣言すると、朝顔の少女が尋ねた。
「明日も連休?」
「そうだよ」
「じゃあ、朝顔の種を植えていい?」
「春まで待って」
「春になったら急用?」
栞は少し考えた。
「その時は予約制にする」
翌朝、玄関のドアには新しい紙が貼られていた。
《本日完全休業》
その下には、亮太の字で一行増えていた。
《植物以外の急用は応相談》
栞は無言で紙を剥がし、内側から鍵を二つかけた。
《連休中につき、急用以外は対応しません》
その下に、さらに小さく書き加える。
《宅配便は急用に含みます》
栞は二十七歳。肩まで伸ばした黒髪を無造作に結び、古いスウェットの上下を着ていた。普段は都内の小さな花屋で働いている。
シルバーウィーク前半は忙しかった。
敬老の日の花束、結婚式の卓上花、秋の彼岸用の仏花。店頭には朝から客が並び、栞は三日間で百回以上、菊とリンドウを束ねた。
連休後半の二日間だけは、何もしないと決めていた。
目覚まし時計をかけない。
化粧をしない。
外出しない。
食事は昨日買った冷凍うどんと、賞味期限が近いプリンで済ませる。
壮大な計画である。
午前九時、栞はソファへ寝転び、毛布を腹までかけた。
九月の初めには邪魔だった毛布が、今日はちょうどいい。窓を少し開けると、冷えた風がレースのカーテンを膨らませた。向かいの家の柿の木には、まだ青い実がいくつも下がっている。
遠くで運動会らしい笛の音が鳴った。
栞はテレビの電源を入れた。
その直後、玄関の呼び鈴が鳴った。
紙を貼ってから、まだ三分しか経っていない。
栞は動かなかった。
二度目の呼び鈴が鳴る。
続いて、ドアの向こうから声がした。
「森下さん、急用です」
隣室に住む八十歳の三枝ハツだった。
栞は毛布を引きずりながら玄関へ向かった。
「どうしたの?」
「ベランダに蜂がいるの」
「それは管理会社へ連絡した方がいいよ」
「でもね、よく見たら蜂じゃない気もするの」
「何だったの?」
「まだ分からないから、見てほしいの」
栞はサンダルを履き、隣の部屋へ入った。
ハツのベランダでは、大きなスズメガが網戸に止まっていた。
「蛾だね」
「蜂じゃない?」
「蜂じゃない」
「刺さない?」
「たぶん刺さないけど、近づかない方がいいよ」
栞が窓を閉めると、ハツは安心したように頷いた。
「助かったわ。栗ごはん、食べる?」
台所から、炊きたての香りが流れてきた。
栞は一瞬だけ迷った。
「少しなら」
十五分後、茶碗一杯の栗ごはんと、ナスのみそ汁を食べ終えた。
部屋へ戻った時刻は午前九時四十分。
まだ何も失っていない。
ソファへ寝転び直したところで、再び呼び鈴が鳴った。
今度は向かいの部屋に住む大学生の亮太だった。手には、しおれた観葉植物を抱えている。
「森下さん、急用です」
「その言い方、流行ってる?」
「植物が死にそうです」
「いつから水をあげてないの?」
「実家に帰ってたので、十日くらい」
「シルバーウィーク前半、丸ごと帰ってたんだ」
「親が帰るなって言うまでいました」
植物はポトスだった。
栞が土へ指を入れると、完全に乾いている。
「水をあげて、直射日光を避けて。急に大量の肥料は入れないで」
「栄養ドリンクは?」
「人間用はやめて」
「冷蔵庫に余ってるんですけど」
「自分で飲みなさい」
亮太は納得したように頷き、部屋へ戻った。
午前十時十五分。
栞がテレビをつけ直すと、玄関の外で複数の声がした。
嫌な予感がする。
ドアを開けると、同じ階の住人が四人並んでいた。
「森下さん、急用です」
先頭に立っていた小学生の少女が、両手で植木鉢を抱えていた。
鉢には、茎しか残っていない朝顔が植わっている。
「学校へ持っていくんだけど、種が取れないの」
その後ろの会社員は、葉の落ちたミニ盆栽を持っていた。
「連休中に急に元気がなくなりまして」
さらに後ろの若い夫婦は、結婚祝いでもらった胡蝶蘭を抱えている。
「花が全部落ちました」
栞は玄関の紙を見た。
《急用以外は対応しません》
植物の持ち主たちは、全員真剣な顔をしている。
どうやら、植物の不調はすべて急用として処理されているらしい。
栞は紙を剥がし、裏側へ新しく書いた。
《植物相談は午後二時から三時まで》
すると、小学生が尋ねた。
「今は?」
時計は十時二十分だった。
「今日は特別に受付中です」
栞の部屋は、臨時の植物相談所になった。
ベランダへ植木鉢が並び、ローテーブルにはハサミ、割り箸、古新聞が置かれた。
栞は枯れた葉を取り、根腐れを確認し、土の状態を見た。
朝顔からは、茶色く乾いた実がいくつも見つかった。実を割ると、中から黒い種がこぼれた。
小学生は歓声を上げた。
「死んでなかった!」
「朝顔は秋になると枯れるの。種が残っていれば、来年また育てられるよ」
「じゃあ、休んでるだけ?」
「長めの休みみたいなものかな」
栞は言いながら、自分のソファを見た。
自分も今日、長めの休みに入る予定だった。
昼前になると、相談所の噂が別の階まで広がった。
「シクラメンを夏の間、外へ出しっぱなしにした」
「ミントが増えすぎて、鉢から逃げ出しそう」
「名前が分からない植物をもらった」
「サボテンが傾いた」
玄関には植木鉢を持った住人が列を作った。
栞は頭を抱えた。
「ここ、花屋じゃないんだけど」
ハツが自分の部屋から折り畳み椅子を持ってきた。
「でも、花屋さんがいるじゃない」
「今日は休みなの」
「連休だものね」
「その連休を、今ここで消費してるんだよ」
亮太は栄養ドリンクを飲みながら、受付係を始めた。
「お名前と植物名をお願いします」
「受付まで作らないで」
「植物名が分からない人は、特徴を書いてください」
「順応が早すぎる」
午後一時、マンションの管理人までやって来た。
胸に抱えているのは、エントランスに置かれていた大きな鉢植えだった。
「森下さん、これも頼めるかな」
「管理人さんまで?」
「葉っぱが黄色くなってね。管理組合で会議にするか迷ってたんだ」
「会議にする前に水の量を見直して」
栞が鉢底を確認すると、受け皿に水がたまっていた。
「毎日、誰が水をあげてるの?」
「私と清掃員さんと、三階の奥さん」
「三人とも?」
「親切な住人が、ほかにもいるかもしれない」
植物は、水不足ではなく親切の集中攻撃を受けていた。
「今日から一人だけ担当を決めて」
栞が言うと、周囲から笑いが起きた。
午後二時を過ぎる頃には、ベランダも廊下も植木鉢で埋まっていた。
冷たい風が吹くたび、ミントやローズマリーの匂いが広がる。どこかの家から焼き魚の匂いも流れてきた。
空は薄い雲に覆われ、朝より気温が下がっている。
栞がくしゃみをすると、ハツが薄手のカーディガンを持ってきた。
「これ、着なさい」
「大丈夫だよ」
「休みの日に風邪をひいたら、もったいないでしょう」
それは確かにそうだった。
栞は素直に袖を通した。
午後三時、最後の相談者が帰った。
朝顔の種を手に入れた少女は、来年の分を栞にも三粒くれた。若い夫婦は、花が落ちた胡蝶蘭を捨てずに育てることにした。
亮太のポトスも、少しだけ葉に張りが戻っている。
栞はようやくソファへ倒れ込んだ。
テレビでは、シルバーウィーク後半の行楽地を紹介していた。紅葉にはまだ早い山、満員の観光列車、長い高速道路の渋滞。
栞はそれを眺めながら、冷めた麦茶を飲んだ。
今日はどこにも行かなかった。
それでも、朝から十七種類の植物と、十二人の住人が部屋を出入りした。
休んだ気はしない。
午後四時、また呼び鈴が鳴った。
栞はクッションへ顔を埋めた。
「本日の受付は終了しました!」
ドアの向こうからハツの声がした。
「焼き芋ができたの」
栞は顔を上げた。
「それは急用?」
「冷める前に食べないと」
栞は立ち上がり、玄関を開けた。
ハツは新聞紙に包んだ焼き芋を二本持っていた。割れ目から、黄色い中身と湯気が見える。
廊下には、相談を終えた住人たちも集まっていた。亮太は折り畳み椅子を並べ、管理人は温かいお茶を運んでいる。
いつの間にか、マンションの小さな廊下が秋の休憩所になっていた。
栞は焼き芋を受け取り、一口かじった。
甘くて熱い。
冷えた指先まで、じわじわと温まった。
「明日は絶対、何もしないからね」
栞が宣言すると、朝顔の少女が尋ねた。
「明日も連休?」
「そうだよ」
「じゃあ、朝顔の種を植えていい?」
「春まで待って」
「春になったら急用?」
栞は少し考えた。
「その時は予約制にする」
翌朝、玄関のドアには新しい紙が貼られていた。
《本日完全休業》
その下には、亮太の字で一行増えていた。
《植物以外の急用は応相談》
栞は無言で紙を剥がし、内側から鍵を二つかけた。