リスが階段を降りるころ
「また、一段下がってる」
片瀬ひよりは、階段の途中にしゃがみ込んだ。
古びた木造シェアハウス「木犀荘」の階段には、栗を抱えた木彫りのリスがいる。手のひらほどの大きさで、丸い目だけが妙に鋭い。ひよりが二週間前に越してきた時、そのリスは二階の踊り場に置かれていた。
ところが、月曜日には上から六段目。火曜日には五段目。水曜日の朝には四段目まで降りていた。
そして木曜日。リスは三段目にいる。
「自力で?」
後ろから声がして、ひよりは振り返った。夜勤帰りの看護師、菜央が紙袋をぶら下げて立っている。
「木製にしては脚力ありすぎない?」
「築五十年の家だからね。何が動いても驚かない方がいいよ」
「菜央さん、動かした?」
「今帰ってきたばかり」
確かに菜央の鼻先は冷たい風にさらされたように赤い。薄手のコートの襟もきっちり閉じられていた。
一週間前まで、朝の気温は二十四度あった。それが二十二度になり、二十度を切り、今朝は十七度。金木犀の匂いを運んでいた風も、今日は首筋から服の中へ勝手に入り込んでくる。
ひよりは半袖だった。
長袖を出していないのではない。出したくないのだ。
先週、洗濯物をためすぎて着る服がなくなり、共有リビングで「私は十一月まで半袖でいける人だから」と強がった。その場にいた住人たちが全員、何とも言えない顔をしたため、今さら引っ込みがつかない。
「もしかして、このリスで私に圧をかけてる?」
「何の圧?」
「秋を認めろ、長袖を着ろ、風邪をひいても看病しないぞ、みたいな」
菜央は少し考え、紙袋から温かい肉まんを取り出した。
「被害妄想には温かいものが効くよ」
「それ、くれるの?」
「見せただけ」
菜央は肉まんを両手で包み、ひよりの横を通り過ぎた。
その夜、ひよりは住人用のグループチャットへ、階段のリスの写真を送った。
《これを毎日動かしている人、正直に名乗り出てください》
映像編集者の駿から、すぐに返事が来た。
《自走式では?》
パン屋で働く美月は、栗の絵文字を三つ送ってきた。
《夜中に木の実を探してるんだよ》
菜央は肉まんの写真だけを送ってきた。
誰も名乗り出ない。
ひよりはアニメ制作会社で効果音を作る仕事をしている。ドアが閉まる音を三十種類聞き分け、砂利を踏む音だけで靴底の厚さを当てるような毎日だ。原因の分からない「コトン」を放置するのは、職業上どうにも気持ちが悪かった。
彼女はリスを二階の踊り場へ戻し、尻尾の裏に小さな付箋を貼った。
《勝手に動くな》
翌朝、リスは上から四段目にいた。
「一晩で三段!」
しかも付箋には、別の筆跡が増えていた。
《無理》
ひよりは出勤前の階段で、半袖の腕をさすった。認めたくはないが、今日は昨日より寒い。スマートフォンの天気予報には、夜から雨、最低気温十四度と表示されている。
ここまで来ると、いたずらではなく組織的犯行である。
その晩、ひよりは会社から小型の録音機材を借りて帰った。リスを再び二階の踊り場へ戻してから、階段の手すりの裏に接触マイクを取り付け、自室のヘッドホンで音を監視する。人の会話を録るつもりはない。足音と、木のリスが置かれる音だけで十分だった。
午前一時十三分。
玄関の鍵が回り、疲れた靴音が廊下を進む。階段の前で止まり、コトン、と小さな音がした。
ひよりが扉を開けると、夜勤へ出る準備をした菜央が、リスを一段下へ置いたところだった。
「やっぱり!」
「しっ。これは一回だけだから」
「何が一回?」
「見なかったことにして」
菜央は足早に出ていった。
午前三時六分。
二階から靴下で滑るような足音が降りてきた。駿が水を飲みに来て、リスを一段下へ移す。
ひよりは壁際から飛び出した。
「二人目!」
「起きてたの? 怖っ」
「私の台詞だよ。なぜ動かすの?」
「それは…朝になれば分かる」
駿は水を一杯飲み、逃げるように二階へ戻った。
午前五時四十二分。
今度は美月がパン屋へ出勤する。マフラーを巻いた彼女は、玄関へ向かう途中でリスを持ち上げた。
「三人目!」
「うわっ! 階段の妖怪かと思った!」
「妖怪を作ってるのはそっちでしょ!」
ひよりの声で、二階の住人たちが次々に起きてきた。眠そうな顔が階段に並び、誰もが厚手の部屋着を着ている。半袖なのは、ひよりだけだった。
彼女はリスを掲げた。
「連続リス移動事件の犯人、全員じゃん」
沈黙のあと、駿があくびをしながら言った。
「誰か、説明してなかった?」
木犀荘では毎年、秋になると暖房を始める日でもめるらしい。暑がりはまだ早いと言い、寒がりはもう限界だと言う。そこで先代の大家が始めたのが、階段のリスだった。
寒いと感じた住人は、一人一度だけ、リスを一段下へ動かす。七人分の票が集まり、一階まで降りたら、共有リビングにこたつを出す。
「そんな制度、聞いてない!」
「入居のしおりに書いてあるよ」と美月が言った。
ひよりは自室から、ほとんど開いていなかった入居のしおりを持ってきた。裏表紙には確かに、リスの絵とともに《秋季暖房投票》と書かれている。
その下には、赤字で注意書きがあった。
《上へ戻す行為は、住民感情を著しく冷却します》
全員の視線が、ひよりへ集まった。
「つまり、私が票を何度も無効にしてた?」
「そういうことになるね」
「昨夜のリビング、十五度だったよ」
「厚着すれば平気かと思って…」
「半袖の人が言う?」
今朝の三票は有効ということになり、まだ投票していなかった三人も、順番にリスを一段ずつ下へ動かした。残る階段は、あと一段だった。
窓の隙間から風が吹き込み、廊下のカレンダーがめくれた。十月の紙がぱたぱたと鳴る。
ひよりは何も言わず、最後の一段へリスを置いた。
コトン。
それを合図に、住人たちが一斉に動いた。
押し入れの奥からこたつ布団を引っ張り出し、天板を運び、絡まったコードをほどく。駿が逆向きに脚を取り付け、美月が笑い、菜央が説明書を探す。ひよりは押し入れの隅から聞こえた金属の転がる音を頼りに、なくなっていた固定金具を見つけた。
三十分後、共有リビングの中央に、少し古びたこたつが完成した。
美月が売り物にならなかった栗あんパンを持ってきた。菜央は冷蔵庫から梨を切り、駿は熱いほうじ茶を淹れた。七人が足を入れると、こたつは狭く、誰かの膝と誰かのすねがぶつかる。
「狭い」
「ひよりが票を止めてた罰」
「制度を周知しなかった管理側の責任もある」
「急に会社員みたいなこと言い出した」
外では雨が降り始めていた。窓ガラスに細かな水滴が並び、その向こうで金木犀の枝が揺れている。ひよりは栗あんパンを半分に割り、湯気の立つ餡を見てから、自分の半袖を見下ろした。
「明日は長袖にする」
「十一月までいける人じゃなかった?」
「気温に合わせて判断を更新できる人なの」
「便利な言い方だね」
笑い声の間に、またコトンと音がした。
見ると、階段の一番下にいたリスが、いつの間にかこたつの天板へ置かれている。
「今度は何の投票?」
ひよりが尋ねると、美月が空になった籠を指差した。
「みかんを買いに行く人」
全員が、新入りのひよりを見た。
彼女はこたつへ肩まで潜り込み、首を横に振った。
「そのリス、春までそこから動かさないから」
片瀬ひよりは、階段の途中にしゃがみ込んだ。
古びた木造シェアハウス「木犀荘」の階段には、栗を抱えた木彫りのリスがいる。手のひらほどの大きさで、丸い目だけが妙に鋭い。ひよりが二週間前に越してきた時、そのリスは二階の踊り場に置かれていた。
ところが、月曜日には上から六段目。火曜日には五段目。水曜日の朝には四段目まで降りていた。
そして木曜日。リスは三段目にいる。
「自力で?」
後ろから声がして、ひよりは振り返った。夜勤帰りの看護師、菜央が紙袋をぶら下げて立っている。
「木製にしては脚力ありすぎない?」
「築五十年の家だからね。何が動いても驚かない方がいいよ」
「菜央さん、動かした?」
「今帰ってきたばかり」
確かに菜央の鼻先は冷たい風にさらされたように赤い。薄手のコートの襟もきっちり閉じられていた。
一週間前まで、朝の気温は二十四度あった。それが二十二度になり、二十度を切り、今朝は十七度。金木犀の匂いを運んでいた風も、今日は首筋から服の中へ勝手に入り込んでくる。
ひよりは半袖だった。
長袖を出していないのではない。出したくないのだ。
先週、洗濯物をためすぎて着る服がなくなり、共有リビングで「私は十一月まで半袖でいける人だから」と強がった。その場にいた住人たちが全員、何とも言えない顔をしたため、今さら引っ込みがつかない。
「もしかして、このリスで私に圧をかけてる?」
「何の圧?」
「秋を認めろ、長袖を着ろ、風邪をひいても看病しないぞ、みたいな」
菜央は少し考え、紙袋から温かい肉まんを取り出した。
「被害妄想には温かいものが効くよ」
「それ、くれるの?」
「見せただけ」
菜央は肉まんを両手で包み、ひよりの横を通り過ぎた。
その夜、ひよりは住人用のグループチャットへ、階段のリスの写真を送った。
《これを毎日動かしている人、正直に名乗り出てください》
映像編集者の駿から、すぐに返事が来た。
《自走式では?》
パン屋で働く美月は、栗の絵文字を三つ送ってきた。
《夜中に木の実を探してるんだよ》
菜央は肉まんの写真だけを送ってきた。
誰も名乗り出ない。
ひよりはアニメ制作会社で効果音を作る仕事をしている。ドアが閉まる音を三十種類聞き分け、砂利を踏む音だけで靴底の厚さを当てるような毎日だ。原因の分からない「コトン」を放置するのは、職業上どうにも気持ちが悪かった。
彼女はリスを二階の踊り場へ戻し、尻尾の裏に小さな付箋を貼った。
《勝手に動くな》
翌朝、リスは上から四段目にいた。
「一晩で三段!」
しかも付箋には、別の筆跡が増えていた。
《無理》
ひよりは出勤前の階段で、半袖の腕をさすった。認めたくはないが、今日は昨日より寒い。スマートフォンの天気予報には、夜から雨、最低気温十四度と表示されている。
ここまで来ると、いたずらではなく組織的犯行である。
その晩、ひよりは会社から小型の録音機材を借りて帰った。リスを再び二階の踊り場へ戻してから、階段の手すりの裏に接触マイクを取り付け、自室のヘッドホンで音を監視する。人の会話を録るつもりはない。足音と、木のリスが置かれる音だけで十分だった。
午前一時十三分。
玄関の鍵が回り、疲れた靴音が廊下を進む。階段の前で止まり、コトン、と小さな音がした。
ひよりが扉を開けると、夜勤へ出る準備をした菜央が、リスを一段下へ置いたところだった。
「やっぱり!」
「しっ。これは一回だけだから」
「何が一回?」
「見なかったことにして」
菜央は足早に出ていった。
午前三時六分。
二階から靴下で滑るような足音が降りてきた。駿が水を飲みに来て、リスを一段下へ移す。
ひよりは壁際から飛び出した。
「二人目!」
「起きてたの? 怖っ」
「私の台詞だよ。なぜ動かすの?」
「それは…朝になれば分かる」
駿は水を一杯飲み、逃げるように二階へ戻った。
午前五時四十二分。
今度は美月がパン屋へ出勤する。マフラーを巻いた彼女は、玄関へ向かう途中でリスを持ち上げた。
「三人目!」
「うわっ! 階段の妖怪かと思った!」
「妖怪を作ってるのはそっちでしょ!」
ひよりの声で、二階の住人たちが次々に起きてきた。眠そうな顔が階段に並び、誰もが厚手の部屋着を着ている。半袖なのは、ひよりだけだった。
彼女はリスを掲げた。
「連続リス移動事件の犯人、全員じゃん」
沈黙のあと、駿があくびをしながら言った。
「誰か、説明してなかった?」
木犀荘では毎年、秋になると暖房を始める日でもめるらしい。暑がりはまだ早いと言い、寒がりはもう限界だと言う。そこで先代の大家が始めたのが、階段のリスだった。
寒いと感じた住人は、一人一度だけ、リスを一段下へ動かす。七人分の票が集まり、一階まで降りたら、共有リビングにこたつを出す。
「そんな制度、聞いてない!」
「入居のしおりに書いてあるよ」と美月が言った。
ひよりは自室から、ほとんど開いていなかった入居のしおりを持ってきた。裏表紙には確かに、リスの絵とともに《秋季暖房投票》と書かれている。
その下には、赤字で注意書きがあった。
《上へ戻す行為は、住民感情を著しく冷却します》
全員の視線が、ひよりへ集まった。
「つまり、私が票を何度も無効にしてた?」
「そういうことになるね」
「昨夜のリビング、十五度だったよ」
「厚着すれば平気かと思って…」
「半袖の人が言う?」
今朝の三票は有効ということになり、まだ投票していなかった三人も、順番にリスを一段ずつ下へ動かした。残る階段は、あと一段だった。
窓の隙間から風が吹き込み、廊下のカレンダーがめくれた。十月の紙がぱたぱたと鳴る。
ひよりは何も言わず、最後の一段へリスを置いた。
コトン。
それを合図に、住人たちが一斉に動いた。
押し入れの奥からこたつ布団を引っ張り出し、天板を運び、絡まったコードをほどく。駿が逆向きに脚を取り付け、美月が笑い、菜央が説明書を探す。ひよりは押し入れの隅から聞こえた金属の転がる音を頼りに、なくなっていた固定金具を見つけた。
三十分後、共有リビングの中央に、少し古びたこたつが完成した。
美月が売り物にならなかった栗あんパンを持ってきた。菜央は冷蔵庫から梨を切り、駿は熱いほうじ茶を淹れた。七人が足を入れると、こたつは狭く、誰かの膝と誰かのすねがぶつかる。
「狭い」
「ひよりが票を止めてた罰」
「制度を周知しなかった管理側の責任もある」
「急に会社員みたいなこと言い出した」
外では雨が降り始めていた。窓ガラスに細かな水滴が並び、その向こうで金木犀の枝が揺れている。ひよりは栗あんパンを半分に割り、湯気の立つ餡を見てから、自分の半袖を見下ろした。
「明日は長袖にする」
「十一月までいける人じゃなかった?」
「気温に合わせて判断を更新できる人なの」
「便利な言い方だね」
笑い声の間に、またコトンと音がした。
見ると、階段の一番下にいたリスが、いつの間にかこたつの天板へ置かれている。
「今度は何の投票?」
ひよりが尋ねると、美月が空になった籠を指差した。
「みかんを買いに行く人」
全員が、新入りのひよりを見た。
彼女はこたつへ肩まで潜り込み、首を横に振った。
「そのリス、春までそこから動かさないから」