米中経済戦争。しかし、太平洋の向こうに、もっと大きな市場があった

「米中経済戦争。しかし、太平洋の向こうに、もっと大きな市場があった」

 中国もまた巨大な人口と市場、製造業を持つ世界有数の大国だった。
 そしてアメリカ大統領ドナルド・グレイヴスは、その中国との貿易関係を見ながら、ある日こう言った。
「中国に勝つ」
 ホワイトハウス。
 財務長官が顔を上げた。
「何ででしょう?」
「経済だ!」
「……なるほど」
 最近、この大統領の発言には主語が足りないことが多かった。
 グレイヴスは巨大な対中貿易統計を指差す。
「中国はAmericaに大量の商品を売っている!」
「はい」
「我々の技術も欲しがっている!」
「はい」
「ならAmericaが条件を決める!」
 グレイヴスは拳を握った。
「中国製品に六十パーセントの関税をかける!」
 部屋が静かになった。
 商務長官が尋ねる。
「全品目ですか?」
「戦略物資はもっとだ!」
「中国側は報復すると思われます」
「やらせろ!」
「レアアースの輸出規制なども予想されます」
「Americaには日本がいる!」
 そこで全員が少し黙った。
 確かにいた。
 しかも日本には、世界全体に匹敵するほどの鉱物資源がある。
「半導体も日本から買える!」
「はい」
「工作機械も!」
「はい」
「電池も!」
「はい」
 グレイヴスは満足そうに腕を組んだ。
「完璧だ」
 財務長官が小さく手を上げる。
「一つだけ」
「なんだ?」
「中国にも日本がいます」
 グレイヴスの笑顔が消えた。
「……どういう意味だ?」
「日本は中国とも貿易しています」
「知っている!」
「かなりの規模です」
「それも知っている!」
「日本は我々の同盟国ですが、中国の敵国ではありません」
 グレイヴスは少し考えた。
「シンなら分かってくれる」
 何を分かってくれるのかは、誰にも分からなかった。
 北京。
 習静峰の机にも、アメリカ政府の発表が届いた。
「六十パーセント?」
「はい」
「半導体関連は?」
「一部百パーセントを超えます」
「中国企業への投資規制」
「強化されます」
「AI関連」
「輸出規制対象です」
 静峰は資料を閉じた。
「報復する」
「関税ですか?」
「同率だ」
「アメリカ製品六十パーセント?」
「そうだ」
 側近が頷く。
「さらに重要鉱物について――」
「待て」
 静峰が止めた。
「日本の反応は?」
「今のところ中立です」
「中立?」
「米中双方に対して、対話による解決を求めています」
 静峰の眉間に皺が寄った。
「いつものやつか」
「はい」
「日本企業は?」
「通常通り中国と取引しています」
「日本市場は?」
「中国製品への追加関税はありません」
 静峰は少し黙った。
「……なら、日本へ売れ」
「はい?」
「アメリカへ売れなくなった分だ」
 側近が戸惑う。
「しかし日本にも巨大な製造業があります」
「全部競合するわけではない」
 静峰は立ち上がる。
「六億人いるんだろう」
「はい」
「しかもアメリカの十倍の経済規模」
「はい」
「なら売る場所はある」
 側近が資料を開いた。
「欧州、ASEAN、アフリカ向け輸出も増やせます」
「やれ」
 静峰は窓の外を見る。
「アメリカ市場を失うのは痛い」
 そして付け加えた。
「だが、世界を失ったわけではない」
 数か月後。
 中国沿岸部。
 巨大な港からコンテナ船が次々と出港していた。
 行き先は以前とは違う。
 横浜。
 神戸。
 名古屋。
 大阪。
 福岡。
 そして欧州、ASEAN、アフリカ。
 アメリカ向け輸出は急減した。
 だが、中国企業は販売先を変え始めていた。
 その中でも最大の行き先が日本だった。
 日本の商社は中国企業から大量の商品を買った。
 衣料品。
 家具。
 化学製品。
 機械部品。
 食品。
 日本企業との共同生産品。
 もちろん競争も起きた。
 日本企業:
「安すぎる!」
 中国企業:
「売らないと余る!」
 日本政府:
「不当廉売なら調査します」
 中国政府:
「それは仕方ない」
 ここは妙に冷静だった。
 一方。
 アメリカ。
 スーパーで、中国製品の代わりに別の商品が並び始めた。
 ベトナム。
 メキシコ。
 インド。
 そして日本。
 消費者が値札を見る。
「高くない?」
 店員が答える。
「前よりは」
「中国製は?」
「関税が高いです」
「じゃあこれ」
 日本製の商品を籠へ入れる。
 結果。
 中国製品:
 減少。
 日本製品:
 増加。
 グレイヴスが求めた、
 America製品増加。
 思ったほど増えなかった。
 ホワイトハウス。
「なぜだ!」
 また始まった。
 商務長官が資料を広げる。
「中国からの輸入は四十八パーセント減少しました」
「素晴らしい!」
「日本からの輸入が三十一パーセント増加しました」
「……」
「ベトナム二十四パーセント」
「……」
「インド十九パーセント」
「Americaは?」
「国内生産も増えています」
 グレイヴスの顔が明るくなる。
「どのくらい?」
「七パーセント」
「少ない!」
「工場を作るには時間が必要です」
 グレイヴスは資料を見る。
 中国製品を締め出した。
 だが、空いた棚に星条旗が並んだわけではない。
 日の丸が入ってきた。
「日本は何かしているのか?」
「普通に輸出しています」
「補助金?」
「一部ありますが、それが主因ではありません」
「為替操作?」
「円が基軸通貨です」
「……」
「単純に競争力があります」
 グレイヴスは天井を見た。
 最近よく見る天井だった。
 東京。
 経済産業省では、別の問題が起きていた。
「中国からの輸入が急増しています」
 担当者が報告する。
 安西晋一郎は資料を見る。
「国内企業への影響は?」
「一部業種でかなり出ています」
「じゃあ調べよう」
「中国に配慮しますか?」
 安西が顔を上げた。
「なんで?」
「米中経済戦争の最中ですので」
「それと不当廉売は別でしょう」
 日本政府は、中国製品の一部について調査を開始した。
 同時にアメリカ製品についても規制緩和を進めた。
 中国にも寄らない。
 アメリカにも寄らない。
 日本企業にも無条件で甘くしない。
 市場を守る。
 それだけだった。
 北京。
 静峰が報告を受ける。
「日本が我が国製品の一部について調査を開始しました」
「根拠は?」
「急激な価格低下です」
「実際に下げたのか?」
「……かなり」
 静峰は額を押さえた。
「なら仕方ない」
 側近が驚く。
「抗議は?」
「形式的にはする」
「形式的に?」
「国内向けだ」
「……」
「その後、企業に価格を戻させろ」
 静峰は資料を閉じた。
「日本市場まで失う方が馬鹿だ」
 そして一年後。
 米中貿易は大幅に縮小した。
 しかし世界貿易そのものは止まらなかった。
 中国企業は日本、欧州、ASEAN、インド、アフリカへ。
 アメリカ企業は日本、欧州、メキシコ、インドへ。
 サプライチェーンは二つに割れるどころか――。
 日本を中心に迂回し始めた。
 円建て取引はさらに増えた。
 東京の商品市場はさらに巨大化。
 日本の商社は米中双方との取引を増やした。
 そして、ついにグレイヴスが気づいた。
 ホワイトハウス。
「待て」
 全員が止まる。
「我々は中国と経済戦争をしている」
「はい」
「中国はAmericaへの輸出を減らした」
「はい」
「我々も中国から買わなくなった」
「はい」
「中国は日本へ売っている」
「はい」
「Americaも日本から買っている」
「はい」
 グレイヴスが地図を見る。
 太平洋。
 左に中国。
 右にアメリカ。
 真ん中に日本。
「……」
 グレイヴスが指を差す。
「なんでシンが一番儲かってるんだ?」
 誰も答えなかった。
 正確には、日本が意図してそうしたわけではない。
 世界最大の市場。
 基軸通貨。
 巨大な金融市場。
 世界最大の物流企業。
 世界最大級の商社。
 米中双方と普通に取引する国。
 そこへ世界第二、第三級の巨大経済が互いとの取引を減らせば――。
 自然と東京へ流れる。
 財務長官が恐る恐る答えた。
「市場の結果です」
「シンは何もしてない?」
「ほぼ」
「静峰と裏で組んでる?」
「証拠はありません」
「中国を助けている?」
「通常の貿易です」
「Americaも?」
「通常の貿易です」
 グレイヴスは腕を組んだ。
「……ずるくない?」
「何もしてません」
「だからずるい!」
 理不尽だった。
 そのころ北京。
 静峰も同じ統計を見ていた。
「日本の対米輸出が増えている?」
「はい」
「対中輸入も?」
「増えています」
「円決済」
「過去最高です」
 静峰はしばらく黙った。
 そして、ほんの少し笑った。
「グレイヴスは気づいたか?」
「おそらく」
「怒っているだろうな」
「かなり」
「そうか」
 珍しく機嫌が良かった。
 数週間後。
 国際経済会議。
 グレイヴス。
 静峰。
 安西。
 三人が同じテーブルについた。
 グレイヴスが安西を見る。
「シン」
「はい」
「AmericaとChinaの経済戦争で、日本が一番得している」
 安西が困った顔をする。
「私に言われても」
 静峰が横から口を挟む。
「今回は日本の言う通りだ」
 グレイヴスが静峰を見る。
「お前は黙ってろ」
「事実だ」
「Chinaが不公平な貿易をするからこうなった!」
「関税を始めたのはAmericaだろう」
「中国が先に――」
「二人とも」
 安西が止めた。
 二人が同時に日本を見る。
「せっかく同じ場所にいるんだから、話しません?」
 沈黙。
 静峰が腕を組む。
 グレイヴスも腕を組む。
 誰も最初に折れたくない。
 安西はため息をついた。
「じゃあ、ご飯にしましょうか」
 グレイヴスが顔を上げた。
「寿司?」
「中華でもいいですよ」
「寿司だ」
 静峰が言う。
「中華だ」
「寿司」
「中華」
 安西は頭を抱えた。
 経済戦争より面倒だった。
 結局、その日の夕食は和食になった。
 グレイヴスは満足した。
 静峰は不満そうだった。
 しかし翌日。
 米中両国は、追加関税の一部凍結と実務協議の再開で合意した。
 全面和平ではない。
 輸出規制も残る。
 互いへの不信も消えていない。
 それでも、少しだけ壁は低くなった。
 記者が安西に尋ねた。
「日本が米中を仲介したのでしょうか?」
 安西は首を振る。
「ご飯を食べただけですよ」
「しかし両国は協議再開に合意しました」
「本人たちが決めたことです」
 その夜。
 グレイヴスは側近に言った。
「昨日の寿司は良かった」
「はい」
「静峰も本当は気に入ってた」
「そうでしょうか」
「三皿食ってた」
「見てたんですか?」
「見てた」
 一方、北京。
 静峰も側近に言った。
「昨日の寿司」
「はい」
「悪くなかった」
「グレイヴス大統領は、主席が三皿召し上がったことを確認していたそうです」
 静峰の顔が止まった。
「……なぜ見ている」
「分かりません」
「気持ち悪い男だ」
 世界最大の二つの大国が経済戦争を始めた。
 互いに傷ついた。
 貿易は遠回りした。
 そしてその遠回りの途中には――。
 なぜかいつも、日本がいた。
 世界最強国家、日本。
 今回は本当に何もしていなかった。
 それなのにまた、少しだけ強くなっていた。

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