秋の読書会、ただいまインフルから避難中
十月二十七日の朝、市立ひばり図書館には、百脚の椅子と、一人の参加者もいなかった。
「見事に空っぽですね」
児童書担当の平井美冬は、閲覧室に並べた椅子を見渡した。
二十五歳。肩までの黒髪を赤いヘアクリップで留め、白いブラウスの上に深緑色のカーディガンを着ている。
三日前まで、カーディガンは鞄へ入れたままだった。
ところが、今朝の気温は十二度。自転車で図書館へ来る途中、息が少しだけ白く見えた。正面玄関の欅も、昨日まで緑だった葉を、慌てて黄色へ塗り替え始めている。
今日は《秋の親子読書会》を開く予定だった。
読み聞かせ、しおり作り、好きな本を紹介する小さな発表会。予約は九十八人。午前十時の開始に備え、職員たちは昨日から会場を整えていた。
しかし、前日の午後からキャンセルが相次いだ。
近隣の小学校では学級閉鎖が続き、幼稚園でもインフルエンザにかかった園児が増えているらしい。
夜八時には参加者が二十七人に減った。
九時には十一人。
朝七時、残っていた最後の一家からも連絡が来た。
《子どもが発熱したため欠席します》
館長の間宮が、入口へ《親子読書会延期》の紙を貼った。
「中止ではないからね」
「いつに延期します?」
「流行が落ち着いてから」
「来週?」
「分からない」
「再来週?」
「分からない」
「十二月?」
「それは秋の読書会じゃないね」
美冬は椅子の背もたれへ掛けた紙の葉を一枚、指先で弾いた。
赤、黄、橙。
一枚ずつ、子どもへ渡す予定だった。裏面には本の題名を書き、館内の《読書の木》へ貼ってもらう。
紙の葉は百枚。
木の枝だけを描いた巨大な模造紙は三枚。
動物の形をした手作りのしおりは百個。
さらに、読み聞かせに使う大型絵本が十二冊。
準備だけは、町内で最も健康だった。
午前九時、図書館が開館した。
最初に入ってきたのは、毎朝新聞を読みに来る小田切だった。七十代の男性で、今日は紺色のダウンジャケットを着ている。
延期のお知らせを読むと、職員カウンターまで歩いてきた。
「図書館も休みか?」
「図書館は通常どおり開いてます」
「ここに延期って書いてある」
「親子読書会だけです」
「じゃあ、新聞は読める?」
「読めます」
「インフルエンザの記事も?」
「新聞に載っていれば」
小田切は納得し、新聞閲覧席へ向かった。
五分後、電話が鳴った。
『図書館、閉まってるんですか?』
「開いています」
『入口に紙が貼ってあるって、近所の人から聞いて』
「読書会の延期のお知らせです」
『本は借りられます?』
「借りられます」
『返せます?』
「返せます」
『咳が出るんですけど』
「今日は無理に来なくて大丈夫です。返却期限の相談もできますから、まず休んでください」
電話を切った直後、また鳴った。
『インフルエンザで休館ですか?』
「休館ではありません」
三本目。
『今日の読み聞かせは?』
「延期です」
四本目。
『参加賞のしおりだけ、もらえませんか?』
美冬は電話を耳へ当てたまま、カウンターの後ろに積んだ箱を見た。
百個の動物しおりが、こちらを見ている。
「後日、読書会を開催した時にお渡しします」
『子どもが、カワウソを予約したと言ってるんですが』
「しおりに予約制度はありません」
『本人は、申し込んだ時に決めたそうです』
美冬は箱の中を確認した。
カワウソらしき形は一つだけある。ただし、作った本人である美冬も、完成後に「これは本当にカワウソか」と疑った作品だった。
「お名前を教えてください」
自分でも驚くほど、あっさり取り置きを受け付けてしまった。
その後、電話は昼まで鳴り続けた。
読書会の問い合わせ。
返却期限の相談。
予約した本を家族が代わりに受け取れるかという確認。
中には、明らかに元気な声で尋ねてくる子どももいた。
『今日、行っちゃ駄目なの?』
「読書会はお休みになったの」
『図書館には行っていい?』
「元気なら、おうちの人と相談してね。ただ、混んでいる場所では静かに過ごそう」
『図書館は、いつも静かだよ』
「それはそうだね」
美冬は返す言葉を失った。
昼休み、職員用の休憩室で、彼女はコンビニのおにぎりを食べた。
窓の外では、風に吹かれた欅の葉が駐輪場を転がっている。空は薄い灰色で、昼なのに夕方のように暗い。
隣では、館長が湯気の立つカップスープを飲んでいた。
「せっかく準備したのに、残念だね」
「延期が正しいのは分かってます」
「うん」
「でも、百枚の葉と百個のしおりが、倉庫で冬を迎えそうです」
「葉っぱは冬を迎えたら落ちるものだよ」
「もう落ちてます。紙なので」
館長はスープを一口飲んだ。
「何か考えてる顔だね」
「この顔、分かります?」
「三年一緒に働いてるからね。去年も、その顔で館内に段ボール迷路を作った」
「あれは好評でした」
「避難経路をふさいで、消防署に注意されたけどね」
美冬はおにぎりを置いた。
「迷路は作りません」
「その一言だけで、少し安心した」
午後一時、美冬は延期になった読書会の参加者へメールを送った。
《秋の親子読書会は延期します。元気になったら、また本の話をしましょう》
その下に、小さな企画を付け加えた。
《参加予定だった皆さんへ》
《最近読んだ本、これから読みたい本、誰かへ勧めたい本の題名を、メールで一冊だけ送ってください》
《お返事は元気な時で大丈夫です》
メールを送って十分後、最初の返事が来た。
《きょうりゅうずかん》
続いて、
《パンどろぼう》
《おしりたんてい》
《注文の多い料理店》
《宇宙のはじまりがわかる本》
《まだ文字が読めないので、お母さんが読んでいる推理小説》
最後の一冊だけ、誰が選んだのか少し気になった。
美冬は本の題名を、準備していた紙の葉へ一つずつ書いた。
赤い葉には物語。
黄色い葉には図鑑。
橙の葉には絵本。
書き終えた葉を、閲覧室の《読書の木》へ貼っていく。
枝だけだった木が、少しずつ色づいた。
その日の閉館前には、四十二枚の葉が集まった。
翌朝には七十三枚。
二日後には、百枚すべてが埋まった。
読書会へ申し込んでいなかった利用者まで、葉へ本の題名を書き始めたため、職員は急きょ追加の紙を切った。
しかし、百五十枚目を貼ったところで問題が起きた。
模造紙の粘着力が、葉の重さに耐えられなくなったのである。
閲覧室に冷たい風が入った瞬間、紙の葉が一斉に剥がれた。
赤、黄、橙。
本物の落ち葉のように、館内を舞う。
「窓を閉めて!」
美冬が叫んだ。
一枚は新聞を読んでいた小田切の頭へ。
一枚は貸出機の画面へ。
黄色い葉は、館長が持っていた書類へ張りついた。
さらに数枚が、開いたままの自動ドアから玄関ホールへ飛んでいった。
利用者たちが、本を置いて葉を追い始めた。
「『銀河鉄道の夜』、そっちに行きました!」
「『からすのパンやさん』、机の下です!」
「これ、誰かの健康診断の案内です!」
「それは葉じゃありません!」
三分後、すべての葉が回収された。
小田切は、頭へ乗っていた赤い葉を美冬へ差し出した。
そこには《老人と海》と書かれている。
「これ、私が読んだことのない本だな」
「借りますか?」
「頭に落ちてきたのも縁か」
美冬は書棚から本を探し、小田切へ渡した。
その様子を見た館長が、模造紙の木を見上げた。
「落ちた葉から本を選ぶ企画にしたら?」
「図書館で落ち葉拾いですか?」
「段ボール迷路よりは安全だよ」
十一月の二週目。
近隣の学校では、少しずつ通常の授業が戻り始めた。
延期していた親子読書会は、参加人数を分け、二回に分けて開くことになった。
当日の朝、閲覧室には、前回と同じように椅子が並んだ。
今度は空席ばかりではない。
子どもたちは、自分が選んだ本の題名を《読書の木》から探した。保護者は、ほかの家族が勧めた本を手に取る。
カワウソのしおりを予約していた小学一年生の男の子は、箱からそれを取り出すと、しばらく眺めて言った。
「これ、カワウソ?」
「カワウソだよ」
「ネズミじゃない?」
「しっぽを見て」
「長いね」
「カワウソだから」
男の子は納得していない顔のまま、しおりを本へ挟んだ。
読み聞かせが始まる直前、冷たい風が窓を鳴らした。
館長が窓を確認し、美冬は模造紙へ貼った葉を手で押さえる。
一枚だけ、端から剥がれた。
ひらひらと舞い、カワウソのしおりを持つ男の子の膝へ落ちる。
《きょうりゅうずかん》
男の子は目を輝かせた。
「これ、次に借りる!」
美冬は落ちた葉を拾わなかった。
十月から続いていたインフルエンザの流行は、まだ完全には終わっていない。
それでも、延期されていた秋は、ようやく図書館へ戻ってきた。
ただし、カワウソだけは最後まで、誰にもカワウソだと認めてもらえなかった。
「見事に空っぽですね」
児童書担当の平井美冬は、閲覧室に並べた椅子を見渡した。
二十五歳。肩までの黒髪を赤いヘアクリップで留め、白いブラウスの上に深緑色のカーディガンを着ている。
三日前まで、カーディガンは鞄へ入れたままだった。
ところが、今朝の気温は十二度。自転車で図書館へ来る途中、息が少しだけ白く見えた。正面玄関の欅も、昨日まで緑だった葉を、慌てて黄色へ塗り替え始めている。
今日は《秋の親子読書会》を開く予定だった。
読み聞かせ、しおり作り、好きな本を紹介する小さな発表会。予約は九十八人。午前十時の開始に備え、職員たちは昨日から会場を整えていた。
しかし、前日の午後からキャンセルが相次いだ。
近隣の小学校では学級閉鎖が続き、幼稚園でもインフルエンザにかかった園児が増えているらしい。
夜八時には参加者が二十七人に減った。
九時には十一人。
朝七時、残っていた最後の一家からも連絡が来た。
《子どもが発熱したため欠席します》
館長の間宮が、入口へ《親子読書会延期》の紙を貼った。
「中止ではないからね」
「いつに延期します?」
「流行が落ち着いてから」
「来週?」
「分からない」
「再来週?」
「分からない」
「十二月?」
「それは秋の読書会じゃないね」
美冬は椅子の背もたれへ掛けた紙の葉を一枚、指先で弾いた。
赤、黄、橙。
一枚ずつ、子どもへ渡す予定だった。裏面には本の題名を書き、館内の《読書の木》へ貼ってもらう。
紙の葉は百枚。
木の枝だけを描いた巨大な模造紙は三枚。
動物の形をした手作りのしおりは百個。
さらに、読み聞かせに使う大型絵本が十二冊。
準備だけは、町内で最も健康だった。
午前九時、図書館が開館した。
最初に入ってきたのは、毎朝新聞を読みに来る小田切だった。七十代の男性で、今日は紺色のダウンジャケットを着ている。
延期のお知らせを読むと、職員カウンターまで歩いてきた。
「図書館も休みか?」
「図書館は通常どおり開いてます」
「ここに延期って書いてある」
「親子読書会だけです」
「じゃあ、新聞は読める?」
「読めます」
「インフルエンザの記事も?」
「新聞に載っていれば」
小田切は納得し、新聞閲覧席へ向かった。
五分後、電話が鳴った。
『図書館、閉まってるんですか?』
「開いています」
『入口に紙が貼ってあるって、近所の人から聞いて』
「読書会の延期のお知らせです」
『本は借りられます?』
「借りられます」
『返せます?』
「返せます」
『咳が出るんですけど』
「今日は無理に来なくて大丈夫です。返却期限の相談もできますから、まず休んでください」
電話を切った直後、また鳴った。
『インフルエンザで休館ですか?』
「休館ではありません」
三本目。
『今日の読み聞かせは?』
「延期です」
四本目。
『参加賞のしおりだけ、もらえませんか?』
美冬は電話を耳へ当てたまま、カウンターの後ろに積んだ箱を見た。
百個の動物しおりが、こちらを見ている。
「後日、読書会を開催した時にお渡しします」
『子どもが、カワウソを予約したと言ってるんですが』
「しおりに予約制度はありません」
『本人は、申し込んだ時に決めたそうです』
美冬は箱の中を確認した。
カワウソらしき形は一つだけある。ただし、作った本人である美冬も、完成後に「これは本当にカワウソか」と疑った作品だった。
「お名前を教えてください」
自分でも驚くほど、あっさり取り置きを受け付けてしまった。
その後、電話は昼まで鳴り続けた。
読書会の問い合わせ。
返却期限の相談。
予約した本を家族が代わりに受け取れるかという確認。
中には、明らかに元気な声で尋ねてくる子どももいた。
『今日、行っちゃ駄目なの?』
「読書会はお休みになったの」
『図書館には行っていい?』
「元気なら、おうちの人と相談してね。ただ、混んでいる場所では静かに過ごそう」
『図書館は、いつも静かだよ』
「それはそうだね」
美冬は返す言葉を失った。
昼休み、職員用の休憩室で、彼女はコンビニのおにぎりを食べた。
窓の外では、風に吹かれた欅の葉が駐輪場を転がっている。空は薄い灰色で、昼なのに夕方のように暗い。
隣では、館長が湯気の立つカップスープを飲んでいた。
「せっかく準備したのに、残念だね」
「延期が正しいのは分かってます」
「うん」
「でも、百枚の葉と百個のしおりが、倉庫で冬を迎えそうです」
「葉っぱは冬を迎えたら落ちるものだよ」
「もう落ちてます。紙なので」
館長はスープを一口飲んだ。
「何か考えてる顔だね」
「この顔、分かります?」
「三年一緒に働いてるからね。去年も、その顔で館内に段ボール迷路を作った」
「あれは好評でした」
「避難経路をふさいで、消防署に注意されたけどね」
美冬はおにぎりを置いた。
「迷路は作りません」
「その一言だけで、少し安心した」
午後一時、美冬は延期になった読書会の参加者へメールを送った。
《秋の親子読書会は延期します。元気になったら、また本の話をしましょう》
その下に、小さな企画を付け加えた。
《参加予定だった皆さんへ》
《最近読んだ本、これから読みたい本、誰かへ勧めたい本の題名を、メールで一冊だけ送ってください》
《お返事は元気な時で大丈夫です》
メールを送って十分後、最初の返事が来た。
《きょうりゅうずかん》
続いて、
《パンどろぼう》
《おしりたんてい》
《注文の多い料理店》
《宇宙のはじまりがわかる本》
《まだ文字が読めないので、お母さんが読んでいる推理小説》
最後の一冊だけ、誰が選んだのか少し気になった。
美冬は本の題名を、準備していた紙の葉へ一つずつ書いた。
赤い葉には物語。
黄色い葉には図鑑。
橙の葉には絵本。
書き終えた葉を、閲覧室の《読書の木》へ貼っていく。
枝だけだった木が、少しずつ色づいた。
その日の閉館前には、四十二枚の葉が集まった。
翌朝には七十三枚。
二日後には、百枚すべてが埋まった。
読書会へ申し込んでいなかった利用者まで、葉へ本の題名を書き始めたため、職員は急きょ追加の紙を切った。
しかし、百五十枚目を貼ったところで問題が起きた。
模造紙の粘着力が、葉の重さに耐えられなくなったのである。
閲覧室に冷たい風が入った瞬間、紙の葉が一斉に剥がれた。
赤、黄、橙。
本物の落ち葉のように、館内を舞う。
「窓を閉めて!」
美冬が叫んだ。
一枚は新聞を読んでいた小田切の頭へ。
一枚は貸出機の画面へ。
黄色い葉は、館長が持っていた書類へ張りついた。
さらに数枚が、開いたままの自動ドアから玄関ホールへ飛んでいった。
利用者たちが、本を置いて葉を追い始めた。
「『銀河鉄道の夜』、そっちに行きました!」
「『からすのパンやさん』、机の下です!」
「これ、誰かの健康診断の案内です!」
「それは葉じゃありません!」
三分後、すべての葉が回収された。
小田切は、頭へ乗っていた赤い葉を美冬へ差し出した。
そこには《老人と海》と書かれている。
「これ、私が読んだことのない本だな」
「借りますか?」
「頭に落ちてきたのも縁か」
美冬は書棚から本を探し、小田切へ渡した。
その様子を見た館長が、模造紙の木を見上げた。
「落ちた葉から本を選ぶ企画にしたら?」
「図書館で落ち葉拾いですか?」
「段ボール迷路よりは安全だよ」
十一月の二週目。
近隣の学校では、少しずつ通常の授業が戻り始めた。
延期していた親子読書会は、参加人数を分け、二回に分けて開くことになった。
当日の朝、閲覧室には、前回と同じように椅子が並んだ。
今度は空席ばかりではない。
子どもたちは、自分が選んだ本の題名を《読書の木》から探した。保護者は、ほかの家族が勧めた本を手に取る。
カワウソのしおりを予約していた小学一年生の男の子は、箱からそれを取り出すと、しばらく眺めて言った。
「これ、カワウソ?」
「カワウソだよ」
「ネズミじゃない?」
「しっぽを見て」
「長いね」
「カワウソだから」
男の子は納得していない顔のまま、しおりを本へ挟んだ。
読み聞かせが始まる直前、冷たい風が窓を鳴らした。
館長が窓を確認し、美冬は模造紙へ貼った葉を手で押さえる。
一枚だけ、端から剥がれた。
ひらひらと舞い、カワウソのしおりを持つ男の子の膝へ落ちる。
《きょうりゅうずかん》
男の子は目を輝かせた。
「これ、次に借りる!」
美冬は落ちた葉を拾わなかった。
十月から続いていたインフルエンザの流行は、まだ完全には終わっていない。
それでも、延期されていた秋は、ようやく図書館へ戻ってきた。
ただし、カワウソだけは最後まで、誰にもカワウソだと認めてもらえなかった。