焼き芋の現在地

 午後五時十二分。
 窓の外から、あの声が聞こえた。
 「いしやーきいもー。おいもー」
 三上紗良は、ノートパソコンのキーボードから両手を離した。
 Web制作会社で働く二十五歳。今日は自宅勤務で、朝から灰色のパーカーとジャージ姿のまま、一歩も外へ出ていない。
 画面には、修正中の予約フォームが表示されていた。
 《現在地を取得しています》
 奇しくも、今の紗良が最も知りたい情報だった。
 焼き芋車の現在地である。
 声は近い。
 これまでにないほど近い。
 紗良は椅子を蹴るように立ち上がり、財布をつかんだ。玄関でスニーカーを履いている間にも、声は少しずつ遠ざかっていく。
 「待って、今行く!」
 もちろん、焼き芋車から返事はない。
 アパートの階段を駆け下り、表通りへ飛び出した。
 十月の夕方は、先週までとは別の顔をしていた。空にはまだ薄い明るさが残っているのに、建物の間はもう夜に近い。冷たい風がパーカーの隙間から入り、金木犀の残り香をさらっていく。
 右を見る。
 いない。
 左を見る。
 いない。
 遠くから、かすかに声だけが聞こえた。
 「はやくしないとー、いっちゃうよー」
 「分かってる!」
 紗良は声の方向へ走った。
 角を曲がる。
 いない。
 細い路地へ入る。
 いない。
 公園の前まで来たところで、完全に声が消えた。
 代わりに、ベンチで缶コーヒーを飲んでいた男性が、不思議そうに紗良を見ていた。
 「焼き芋、見ませんでした?」
 息を切らしながら尋ねると、男性は住宅街の奥を指さした。
 「さっき、あっちへ行ったよ」
 「ありがとうございます!」
 「でも、十五分くらい前」
 目撃情報が古すぎる。
 紗良は肩を落とした。
 これで七回目だった。
 最初は財布を忘れた。
 二回目は、玄関で靴ひもが切れた。
 三回目は焼き芋車だと思って追いかけたら、廃品回収車だった。
 四回目は声の主を見つけたものの、道路の反対側におり、信号を待っている間に消えた。
 五回目は、ちょうどオンライン会議中だった。
 六回目は、風呂に入っていた。
 そして七回目の今日は、目撃情報の十五分遅れである。
 紗良はスーパーへ寄り、焼き芋を一本買って帰った。
 味は悪くない。
 むしろ甘くて、十分おいしい。
 それでも、何かが違った。
 紙袋を抱え、夜の住宅街を歩きながら食べる焼き芋には、逃げられた獲物を別の店で買い直したような敗北感があった。
 部屋へ戻った紗良は、冷めかけた焼き芋を机へ置いた。
 そして予約フォームの修正を中断し、新しい画面を作り始めた。
 ページの上部に、大きく文字を置く。
 《焼き芋車は今どこ?》
 その下に、近所の地図を表示する。
 目撃した人が地図を押せば、時刻と位置が共有されるだけの簡単な仕組みだ。
 ページ名は《IMO NOW》にした。
 少し格好をつけすぎた気もしたが、《芋どこ》では切迫感が足りない。
 翌朝、紗良は地域掲示板へ投稿した。
 《夕方に来る焼き芋車を何度も逃しています。目撃情報を共有するページを作りました》
 どうせ誰も使わないだろうと思っていた。
 十分後、最初の返信が来た。
 《私も三回逃しました》
 続いて、別の住人からも届いた。
 《子どもが音を聞くたびに外へ出ますが、見つかりません》
 《うちの犬だけ先に気づきます》
 《昨日は東公園付近にいました》
 《あの車、速くないですか?》
 紗良は思わず姿勢を正した。
 自分だけではなかった。
 夕方になると、《IMO NOW》の地図へ赤い印が現れ始めた。
 午後四時五十分、駅前。
 五時二分、薬局の横。
 五時八分、川沿い。
 紗良はパーカーのポケットへ財布を入れ、玄関で待機した。
 五時十三分、新しい印がついた。
 《白い軽トラック発見。西へ移動中》
 紗良は外へ飛び出した。
 西へ二百メートル走ったところで、前方から女性が来た。
 「焼き芋ですか?」
 女性は紗良の財布を握った手を見て尋ねた。
 「はい」
 「私もです」
 二人で地図を見る。
 次の印がついた。
 《神社の前を通過》
 二人は神社へ向かった。
 途中で、幼稚園児を自転車の後ろへ乗せた母親が合流した。
 「焼き芋車、こっちですか?」
 「今の情報では神社です」
 「乗ってください。自転車の方が速いです」
 「三人乗りになります」
 「じゃあ、走ってください!」
 容赦がない。
 神社へ着くと、犬を連れた老人と、制服姿の高校生が立っていた。
 焼き芋車はいない。
 代わりに、地図へ新しい書き込みがあった。
 《北公園に停車中》
 「北公園って、逆方向じゃない?」
 高校生が言った。
 全員で地図を見つめた。
 さらに印が増えた。
 《商店街で見た》
 《図書館の裏にいた》
 《たぶん同じ車が橋を渡った》
 《さっき猫がいました》
 最後の情報だけ、焼き芋と関係がない。
 紗良は画面を確認した。
 目撃時刻の表示が小さすぎて、昨日の情報を今日のものと勘違いしている人がいる。位置情報の誤差も大きい。
 地図上では、一台の焼き芋車が数分で町内を三周していた。
 「これ、分身してません?」
 母親が言った。
 「してません。表示の不具合です」
 「作った人に言った方がいいですね」
 「私です」
 全員の視線が紗良へ集まった。
 「直します」
 八回目の挑戦も失敗した。
 その夜、紗良は目撃情報を十五分で消えるように変更し、車の進行方向を矢印で表示できるようにした。誤って猫を登録した人のために、《焼き芋車ではありません》という削除ボタンも追加した。
 翌日は雨だった。
 次の日も、焼き芋車は来なかった。
 三日目の金曜日、朝から気温が下がった。
 昼間でも窓ガラスが冷たく、夕方になると、向かいの家の柿の葉が風に揺れる音まで聞こえた。
 午後五時四分。
 《IMO NOW》に最初の印がついた。
 《川沿いを北へ》
 五時七分。
 《交番前を通過》
 五時九分。
 《中央公園へ向かっています》
 紗良はコートを羽織った。
 財布はある。
 靴ひもも切れていない。
 会議も終わっている。
 風呂にも入っていない。
 完璧だった。
 中央公園へ着くと、入口に人が集まっていた。
 幼稚園児の母子。
 犬を連れた老人。
 制服姿の高校生。
 先日一緒に走った女性。
 そのほかにも、地図を見て来たらしい住人が二十人ほどいる。
 全員が道路の向こうを見ていた。
 やがて、あの声が聞こえた。
 「いしやーきいもー。おいもー」
 白い軽トラックが、ゆっくりと角を曲がってくる。
 誰かが拍手した。
 それにつられ、全員が拍手した。
 運転席の男性は、ぎょっとした顔でブレーキを踏んだ。
 「何だ、何だ?」
 六十代くらいの男性が窓から顔を出した。
 住人たちは一斉に車を取り囲んだ。
 「一列に並んでください!」
 紗良は反射的に叫んだ。
 自分で作った予約フォームの仕事より、はるかに大勢の客を整理することになった。
 男性は荷台の焼き窯を開け、目を丸くした。
 「今日は妙に客が多いな」
 老人がスマートフォンの地図を見せた。
 「みんなで追跡してたんだよ」
 「俺を?」
 「焼き芋をです」
 「どっちも同じだろ」
 焼き芋は次々と売れた。
 紙袋から甘い湯気が立ち、冷たい公園に香ばしい匂いが広がった。子どもたちはベンチへ並び、大人たちは立ったまま熱い芋を半分に割っている。
 紗良の番になった時、窯に残っていたのは小さな一本だけだった。
 「これで最後だ」
 男性が言った。
 後ろを見ると、まだ三人並んでいる。
 紗良は焼き芋を受け取り、四つに割った。
 「小さいけど、分けます」
 「作った人が食べなくていいの?」
 高校生が尋ねた。
 「私は七回も追いかけたので、一口でも達成扱いです」
 四人で食べた焼き芋は、スーパーで買ったものより少し焦げていた。
 それでも、驚くほど甘かった。
 男性は空になった窯を閉めた。
 「来週から、金曜の五時にここへ来ようか。追いかけられると、こっちも落ち着かん」
 「固定でいいんですか?」
 「その代わり、何人来るか分かるようにできるか?」
 紗良は少し考えた。
 「予約機能を追加します」
 「予約って、電話か?」
 「スマートフォンです」
 「俺は持ってない」
 「じゃあ、私が管理します」
 「焼き芋屋になるのか?」
 「そこまではなりません」
 翌週の金曜日。
 《IMO NOW》の地図には、一つだけ赤い印が表示されていた。
 《午後五時、中央公園》
 公園には、先週より多くの人が集まっていた。
 白い軽トラックの横には、男性が手書きした段ボールが立っている。
 《焼き芋の現在地 ここ》
 紗良は熱い紙袋を受け取り、ベンチへ座った。
 アプリの位置情報は、一メートルもずれていない。
 公開以来、初めてのことだった。

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