最後のおにぎり

 病院から電話が来たのは、雨の降る夕方だった。
「おばあさまの容体が急変しました」
 その一言だけで、心臓が強く脈を打った。
 仕事を放り出し、駅まで走る。
 電車が遅く感じる。
 信号が長く感じる。
 病院までの道が、こんなにも遠かったことは一度もなかった。
 病室へ飛び込む。
 祖母は静かに眠っていた。
 酸素マスク。
 細くなった手。
 昔はあんなに大きく見えた背中が、今は布団に埋もれている。
「ばあちゃん」
 声をかける。
 ゆっくりと目が開いた。
「あら」
 少し笑う。
「来たの」
「来たよ」
「仕事は?」
「そんなのいい」
 祖母は小さく笑った。
「よくないよ」
 その笑い方は、小さい頃と何も変わっていなかった。
 私は祖母の手を握る。
 温かい。
 でも、どこか頼りない温もりだった。
「覚えてる?」
 祖母が突然聞いた。
「何を?」
「小学校の運動会」
 私は首を傾げる。
「お弁当」
 その瞬間、思い出した。
 朝早く起きて作ってくれたおにぎり。
 少しだけ塩が多かった。
 でも、それが好きだった。
「覚えてる」
「よかった」
 祖母は安心したように目を閉じた。
「私ね」
「うん」
「料理、あんまり上手じゃなかった」
 思わず笑う。
「いや」
「煮物、毎回味違ったよ」
 祖母も笑った。
「でしょう?」
 病室に、小さな笑い声が響く。
 しばらく沈黙が続いた。
 窓の外では雨が降っている。
 祖母がぽつりと呟いた。
「ごめんね」
「え?」
「もっと長く、一緒にいたかった」
 私は首を横に振る。
「謝ることなんかない」
「あるよ」
「ない」
 少しだけ強く言った。
「俺が今こうして笑えるのは、ばあちゃんがいたからだ」
 祖母は何も言わなかった。
 ただ、目に涙が浮かんでいた。
「一つだけ」
「何?」
「最後にお願い」
 私は頷く。
「ちゃんと、ご飯食べなさい」
 その言葉に、笑ってしまった。
「そこ?」
「そこ」
「分かった」
「野菜も」
「分かった」
「夜更かししない」
「……努力する」
「努力じゃない」
「はい」
 まるで子どもの頃に戻ったみたいだった。
 祖母は満足そうに微笑む。
「いい返事」
 その笑顔が、最後だった。
 静かに。
 本当に静かに。
 祖母は眠るように息を引き取った。
 病室には、時計の音だけが響いていた。
 葬儀の日。
 たくさんの人が祖母へ会いに来た。
 近所の人。
 昔の友達。
 八百屋のおじさん。
 知らない人まで泣いていた。
「優しい人だった」
 みんな同じことを言う。
 家へ帰る。
 祖母の家は静かだった。
 台所へ入る。
 冷蔵庫には、まだ漬物が入っている。
 食器棚には湯のみ。
 壁には、私が幼稚園で描いた祖母の似顔絵。
 全部、そのままだった。
 引き出しを開ける。
 一枚の紙が入っていた。
 祖母の字だった。
『お腹が空いたら、ちゃんと食べること。』
 思わず吹き出した。
 最後まで、それだった。
 涙が止まらないのに、笑ってしまう。
 数日後。
 私は久しぶりに、おにぎりを作った。
 塩を振る。
 少しだけ、多くなった。
 一口食べる。
「あ」
 しょっぱい。
 でも、懐かしかった。
 窓から風が入る。
 どこからか、祖母の声が聞こえた気がした。
「ちょっと塩、多かったね」
 私は笑いながら答える。
「ばあちゃんの真似したんだよ」
 返事はない。
 でも、不思議と寂しくはなかった。
 人は、いつか必ず別れる。
 それでも、一緒に食べたご飯の味や、何気ない会話は消えない。
 悲しい時ほど思い出すのは、大きな出来事じゃない。
「ちゃんと食べなさい」
 そんな何気ない一言だったりする。
 今日も私は、おにぎりを握る。
 少しだけ塩を多めにして。
 それが今、祖母に一番近づける気がするから。

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