定時は、実在した
終電を逃した社員は、会議室の椅子を三つ並べると、意外によく眠れる。
早川栞は、それを入社二年目で学んだ。
二十六歳。ウェブ制作会社『スマイルリンク』のディレクター。会社の理念は「笑顔で未来をつなぐ」だったが、午後九時を過ぎた社内で笑っている人間はほとんどいなかった。
ある火曜日の午後十一時四十分。
栞がパソコンへ向かっていると、部長が腕時計を見ながら言った。
「今日は早く上がれそうだな」
栞も時計を見る。
終電まで、あと十二分。
「そうですね」
反射的に答えてから、少しだけ疑問に思った。
これは本当に「早い」のだろうか。
しかし、周囲の社員は誰も驚いていない。キーボードを叩きながら、「今日は日付が変わる前に帰れそう」と喜んでいる。
この会社では、午前零時より前は早い時間だった。
翌週。
制作部へ一人の女性が入社した。
三枝日菜、二十五歳。
前職では広報を担当していたらしく、受け答えも仕事も丁寧だった。
初日の午後六時。
日菜はパソコンを閉じ、鞄を持って立ち上がった。
「お先に失礼します」
社内から音が消えた。
十人以上が一斉にキーボードから手を離し、日菜を見た。
部長が困惑した顔で尋ねる。
「三枝さん、どこへ行くの?」
「家です」
「いや、それは分かるんだけど。まだみんな仕事してるよ」
「今日いただいた作業は終わりました」
「でも、入社初日だし、職場の雰囲気を知る意味でも……」
日菜は社内を見渡した。
誰も彼女と目を合わせなかった。
「雰囲気は分かりました」
そう言い残し、本当に帰ってしまった。
自動ドアが閉まった後も、社員たちはしばらく入口を見つめていた。
栞は、生まれて初めて野生の定時退社を見た気がした。
翌朝。
日菜は始業十五分前に出社した。
昨日の仕事に抜けはなく、連絡事項も整理され、担当した資料は部長が直すところもないほど完成していた。
昼休みになると、彼女はまた立ち上がった。
「早川さん、お昼に行きませんか?」
栞はパソコンから目を離さずに答えた。
「私は大丈夫。メールがたまってるから」
「休憩しないんですか?」
「食べながらやるよ」
「休憩中に届いたメールは、休憩後も存在してますよ」
当たり前の話だった。
だが、栞には新鮮だった。
日菜に連れられ、会社の近くにある定食屋へ入る。温かい生姜焼きと味噌汁を食べた。
栞は、自分が平日の昼に会社の外へ出たのが三か月ぶりだと気づいた。
「三枝さんって、前の会社でも毎日定時で帰ってたの?」
「仕事が終わっていれば」
「周りが残っていても?」
「周りの仕事は、周りの仕事なので」
「強いね」
「普通だと思います」
その「普通」が、栞には強さに見えた。
数日後。
午後五時半になったところで、部長が制作部全員を集めた。
「緊急案件だ。新商品のキャンペーンページを、明日の朝までに完成させる」
社員たちの顔から光が消えた。
デザイン。
文章。
画像加工。
動作確認。
通常なら一週間以上かかる仕事だった。
部長は拳を握る。
「今夜が山場だ。みんなで力を合わせれば乗り越えられる」
誰も反論しなかった。
栞も、夕飯を買うためのコンビニを頭の中で選んでいた。
しかし、日菜だけが手を挙げた。
「納期は来週の木曜日ではありませんか?」
「先方の期待を超えるために、こちらから明朝までと提案した」
「先方が急いでいるわけではないんですね?」
部長の眉が動く。
「仕事というのは、言われたことだけをやればいいわけじゃない」
「明朝までに仕上げると、品質確認の時間が取れません」
「若いうちは、多少無理をしてでも経験を積むべきだ」
日菜はしばらく部長を見た後、何も言わず席へ戻った。
その三十分後、クライアントとのオンライン会議が始まった。
部長は得意げに宣言した。
「御社への熱意を示すため、キャンペーンページは明朝までに初稿をご用意します」
画面の向こうで、担当者が目を丸くした。
「明朝ですか? 来週木曜日でお願いしていたと思いますが」
「いえ、弊社としては、より迅速に……」
日菜が静かに口を開いた。
「品質を保つため、予定どおり来週木曜日にご確認いただく形でよろしいでしょうか」
「もちろんです。急いで作っていただく必要はありません」
担当者は、むしろ心配そうな顔をしていた。
「皆さん、今夜作業される予定だったんですか?」
部長が答える前に、日菜が微笑んだ。
「念のため確認できて助かりました」
会議が終わる。
制作部は静まり返っていた。
誰も部長を見ない。
栞は口元を押さえた。
笑ってはいけないと思った。
しかし、四年間で何度も経験した「緊急対応」のうち、いくつが本当の緊急だったのだろう。
そう考えた瞬間、笑いが漏れた。
一人が笑うと、隣の社員も吹き出した。
やがて制作部全体が、声を殺して震え始めた。
部長だけが笑っていなかった。
その日、午後六時十分。
日菜は帰り支度を始めた。
栞は自分のパソコンを見た。
今日の仕事は終わっている。
明日までの作業もない。
それでも、席を立つのが怖かった。
日菜が尋ねる。
「早川さん、帰らないんですか?」
「みんな残ってるから」
「どうしてですか?」
「どうしてって……みんな残ってるから」
答えになっていなかった。
日菜は少し考えた。
「火事でもないのに?」
「火事みたいな会社ではあるけど」
日菜が笑った。
栞もつられて笑う。
その日、栞は午後六時十五分に退社した。
外は、まだ明るかった。
駅前の店が開いている。
スーパーの総菜には半額シールが貼られていない。
公園では子どもたちが遊んでいる。
平日の町には、こんなに人がいたのかと思った。
帰宅したのは午後七時前。
テレビドラマを最初から見た。
湯船へお湯を張った。
布団の上で横になり、眠る前に本を読んだ。
何か大切な予定を忘れているようで、何度も会社のチャットを確認した。
もちろん、部長からメッセージが来ていた。
『もう少し責任感を持って行動してください』
栞は画面を見つめた。
そして初めて、返信しなかった。
それから一か月後。
栞は退職届を部長へ提出した。
「どういうことだ?」
「書いてあるとおりです」
「急すぎる。引き継ぎはどうするんだ」
「一か月かけて資料を作ります」
「うちは家族みたいな会社だろ」
栞は少し考えた。
「家族は、深夜一時に『至急』のスタンプを十二回も送りません」
「君の成長を考えて厳しくしていたんだ」
「四年間で一番伸びたのは、勤務時間でした」
部長の顔が赤くなる。
「どこの会社へ行っても同じだぞ」
「同じじゃない会社を探します」
声は少し震えていた。
それでも、言い終えた時には、不思議と胸が軽くなっていた。
退職後、栞は三日間ほとんど眠った。
四日目に美容院へ行き、五日目に友人と昼から食事をした。六日目には、洗濯物を太陽の下へ干した。
転職活動を始めると、面接で必ず退職理由を聞かれた。
「定時が都市伝説になったからです」
正直に答えると、何人かの面接官は困った顔をした。
しかし、一社だけ声を上げて笑った。
その会社から、採用の連絡が来た。
新しい職場での初日。
午後六時になると、社員たちは次々にパソコンを閉じた。
栞だけが席に残っていた。
上司が声をかける。
「早川さん、今日の仕事は終わった?」
「はい」
「じゃあ、帰ろう」
「本当に帰っていいんですか?」
「何か残ってる?」
「いえ。でも、みなさんがまだ……」
上司は周囲を見た。
「みんな帰る準備をしてるよ」
栞も見渡した。
本当だった。
誰も罪悪感を抱いていない。
誰も上司の顔色をうかがっていない。
ただ、仕事を終えて帰ろうとしている。
栞は鞄を持ち、立ち上がった。
外へ出ると、夕焼けがビルの窓へ映っていた。
スマートフォンが鳴る。
日菜からだった。
彼女も試用期間で前の会社を辞め、別の会社へ転職している。
送られてきたのは、一枚の画像だった。
『スマイルリンク 働き方改革宣言』
会社の新しいポスターらしい。
その下には、部長から全社員へ送られたメッセージも写っていた。
『明日から定時退社を推奨します。各自、意識を改革してください』
送信時刻。
午前二時十三分。
栞は駅前で声を上げて笑った。
定時は都市伝説ではなかった。
前の会社で、絶滅しかけていただけだった。
早川栞は、それを入社二年目で学んだ。
二十六歳。ウェブ制作会社『スマイルリンク』のディレクター。会社の理念は「笑顔で未来をつなぐ」だったが、午後九時を過ぎた社内で笑っている人間はほとんどいなかった。
ある火曜日の午後十一時四十分。
栞がパソコンへ向かっていると、部長が腕時計を見ながら言った。
「今日は早く上がれそうだな」
栞も時計を見る。
終電まで、あと十二分。
「そうですね」
反射的に答えてから、少しだけ疑問に思った。
これは本当に「早い」のだろうか。
しかし、周囲の社員は誰も驚いていない。キーボードを叩きながら、「今日は日付が変わる前に帰れそう」と喜んでいる。
この会社では、午前零時より前は早い時間だった。
翌週。
制作部へ一人の女性が入社した。
三枝日菜、二十五歳。
前職では広報を担当していたらしく、受け答えも仕事も丁寧だった。
初日の午後六時。
日菜はパソコンを閉じ、鞄を持って立ち上がった。
「お先に失礼します」
社内から音が消えた。
十人以上が一斉にキーボードから手を離し、日菜を見た。
部長が困惑した顔で尋ねる。
「三枝さん、どこへ行くの?」
「家です」
「いや、それは分かるんだけど。まだみんな仕事してるよ」
「今日いただいた作業は終わりました」
「でも、入社初日だし、職場の雰囲気を知る意味でも……」
日菜は社内を見渡した。
誰も彼女と目を合わせなかった。
「雰囲気は分かりました」
そう言い残し、本当に帰ってしまった。
自動ドアが閉まった後も、社員たちはしばらく入口を見つめていた。
栞は、生まれて初めて野生の定時退社を見た気がした。
翌朝。
日菜は始業十五分前に出社した。
昨日の仕事に抜けはなく、連絡事項も整理され、担当した資料は部長が直すところもないほど完成していた。
昼休みになると、彼女はまた立ち上がった。
「早川さん、お昼に行きませんか?」
栞はパソコンから目を離さずに答えた。
「私は大丈夫。メールがたまってるから」
「休憩しないんですか?」
「食べながらやるよ」
「休憩中に届いたメールは、休憩後も存在してますよ」
当たり前の話だった。
だが、栞には新鮮だった。
日菜に連れられ、会社の近くにある定食屋へ入る。温かい生姜焼きと味噌汁を食べた。
栞は、自分が平日の昼に会社の外へ出たのが三か月ぶりだと気づいた。
「三枝さんって、前の会社でも毎日定時で帰ってたの?」
「仕事が終わっていれば」
「周りが残っていても?」
「周りの仕事は、周りの仕事なので」
「強いね」
「普通だと思います」
その「普通」が、栞には強さに見えた。
数日後。
午後五時半になったところで、部長が制作部全員を集めた。
「緊急案件だ。新商品のキャンペーンページを、明日の朝までに完成させる」
社員たちの顔から光が消えた。
デザイン。
文章。
画像加工。
動作確認。
通常なら一週間以上かかる仕事だった。
部長は拳を握る。
「今夜が山場だ。みんなで力を合わせれば乗り越えられる」
誰も反論しなかった。
栞も、夕飯を買うためのコンビニを頭の中で選んでいた。
しかし、日菜だけが手を挙げた。
「納期は来週の木曜日ではありませんか?」
「先方の期待を超えるために、こちらから明朝までと提案した」
「先方が急いでいるわけではないんですね?」
部長の眉が動く。
「仕事というのは、言われたことだけをやればいいわけじゃない」
「明朝までに仕上げると、品質確認の時間が取れません」
「若いうちは、多少無理をしてでも経験を積むべきだ」
日菜はしばらく部長を見た後、何も言わず席へ戻った。
その三十分後、クライアントとのオンライン会議が始まった。
部長は得意げに宣言した。
「御社への熱意を示すため、キャンペーンページは明朝までに初稿をご用意します」
画面の向こうで、担当者が目を丸くした。
「明朝ですか? 来週木曜日でお願いしていたと思いますが」
「いえ、弊社としては、より迅速に……」
日菜が静かに口を開いた。
「品質を保つため、予定どおり来週木曜日にご確認いただく形でよろしいでしょうか」
「もちろんです。急いで作っていただく必要はありません」
担当者は、むしろ心配そうな顔をしていた。
「皆さん、今夜作業される予定だったんですか?」
部長が答える前に、日菜が微笑んだ。
「念のため確認できて助かりました」
会議が終わる。
制作部は静まり返っていた。
誰も部長を見ない。
栞は口元を押さえた。
笑ってはいけないと思った。
しかし、四年間で何度も経験した「緊急対応」のうち、いくつが本当の緊急だったのだろう。
そう考えた瞬間、笑いが漏れた。
一人が笑うと、隣の社員も吹き出した。
やがて制作部全体が、声を殺して震え始めた。
部長だけが笑っていなかった。
その日、午後六時十分。
日菜は帰り支度を始めた。
栞は自分のパソコンを見た。
今日の仕事は終わっている。
明日までの作業もない。
それでも、席を立つのが怖かった。
日菜が尋ねる。
「早川さん、帰らないんですか?」
「みんな残ってるから」
「どうしてですか?」
「どうしてって……みんな残ってるから」
答えになっていなかった。
日菜は少し考えた。
「火事でもないのに?」
「火事みたいな会社ではあるけど」
日菜が笑った。
栞もつられて笑う。
その日、栞は午後六時十五分に退社した。
外は、まだ明るかった。
駅前の店が開いている。
スーパーの総菜には半額シールが貼られていない。
公園では子どもたちが遊んでいる。
平日の町には、こんなに人がいたのかと思った。
帰宅したのは午後七時前。
テレビドラマを最初から見た。
湯船へお湯を張った。
布団の上で横になり、眠る前に本を読んだ。
何か大切な予定を忘れているようで、何度も会社のチャットを確認した。
もちろん、部長からメッセージが来ていた。
『もう少し責任感を持って行動してください』
栞は画面を見つめた。
そして初めて、返信しなかった。
それから一か月後。
栞は退職届を部長へ提出した。
「どういうことだ?」
「書いてあるとおりです」
「急すぎる。引き継ぎはどうするんだ」
「一か月かけて資料を作ります」
「うちは家族みたいな会社だろ」
栞は少し考えた。
「家族は、深夜一時に『至急』のスタンプを十二回も送りません」
「君の成長を考えて厳しくしていたんだ」
「四年間で一番伸びたのは、勤務時間でした」
部長の顔が赤くなる。
「どこの会社へ行っても同じだぞ」
「同じじゃない会社を探します」
声は少し震えていた。
それでも、言い終えた時には、不思議と胸が軽くなっていた。
退職後、栞は三日間ほとんど眠った。
四日目に美容院へ行き、五日目に友人と昼から食事をした。六日目には、洗濯物を太陽の下へ干した。
転職活動を始めると、面接で必ず退職理由を聞かれた。
「定時が都市伝説になったからです」
正直に答えると、何人かの面接官は困った顔をした。
しかし、一社だけ声を上げて笑った。
その会社から、採用の連絡が来た。
新しい職場での初日。
午後六時になると、社員たちは次々にパソコンを閉じた。
栞だけが席に残っていた。
上司が声をかける。
「早川さん、今日の仕事は終わった?」
「はい」
「じゃあ、帰ろう」
「本当に帰っていいんですか?」
「何か残ってる?」
「いえ。でも、みなさんがまだ……」
上司は周囲を見た。
「みんな帰る準備をしてるよ」
栞も見渡した。
本当だった。
誰も罪悪感を抱いていない。
誰も上司の顔色をうかがっていない。
ただ、仕事を終えて帰ろうとしている。
栞は鞄を持ち、立ち上がった。
外へ出ると、夕焼けがビルの窓へ映っていた。
スマートフォンが鳴る。
日菜からだった。
彼女も試用期間で前の会社を辞め、別の会社へ転職している。
送られてきたのは、一枚の画像だった。
『スマイルリンク 働き方改革宣言』
会社の新しいポスターらしい。
その下には、部長から全社員へ送られたメッセージも写っていた。
『明日から定時退社を推奨します。各自、意識を改革してください』
送信時刻。
午前二時十三分。
栞は駅前で声を上げて笑った。
定時は都市伝説ではなかった。
前の会社で、絶滅しかけていただけだった。