秋のピクニック、全員が卵焼きを持ってきた
午前十時十三分、白石紬は、芝生の上に並んだ六つの弁当箱を見て、自分の失敗を悟った。
どの箱にも、卵焼きしか入っていない。
「これは甘いやつです」
経理の大迫が、黄色い卵焼きを指さした。
「私はだし巻き」と営業の美波。
「青のり入りです」と新人の新田。
「チーズを巻きました」と制作部の杉原。
最後に部長の浜口が、二段重を開けた。上段にも下段にも、太く切られた卵焼きが隙間なく詰まっている。
「うちは昨夜、妻と娘まで参加して焼いた。三種類あるぞ」
「どうして全員、卵焼きなんですか?」
紬が尋ねると、五人が同時にスマートフォンを取り出した。
画面には、彼女が作成した秋のピクニック用の共有表が表示されている。
《白石紬 レジャーシート》
《浜口部長 卵焼き》
《大迫さん 卵焼き》
《美波さん 卵焼き》
《杉原さん 卵焼き》
《新田さん 卵焼き》
「私の画面もこうなってるよ」と浜口が言った。
紬は自分のスマートフォンで元の表を開いた。
本来は、おにぎり、唐揚げ、果物、飲み物、紙皿、卵焼きを一人ずつ割り振ったはずだった。だが、昨夜、参加者の並びを部署順に変更した時、名前の列だけを並べ替えてしまったらしい。担当品の列は動かず、さらに入力途中だった「卵焼き」を下までコピーしていた。
表計算ソフトとしては正しい。使った人間が間違っている。
「つまり、おにぎりも飲み物もない?」
美波が確認した。
「ありません」
「唐揚げは?」
「ありません」
「紙皿は?」
「ありません」
「でも、卵焼きは?」
浜口が二段重を持ち上げた。
「百切れ以上あります」
十月の空は高く、雲は薄かった。公園の銀杏は半分ほど黄色くなり、冷たい風が吹くたびに葉が一枚ずつ落ちてくる。
絶好のピクニック日和である。
食事の構成だけを除けば。
紬は二十六歳。文具メーカーの商品企画部で働き、社内行事の準備もよく任される。参加人数、予算、雨天時の代替案まで表にまとめるため、同僚からは「人間の顔をした進行表」と呼ばれていた。
その進行表が、今日は卵焼きだけを運んできた。
「近くのコンビニで買ってきます」
紬が立ち上がると、美波が公園入口を指さした。
そこには、地域のマラソン大会に参加した人々が長い列を作っていた。園内の売店も同じ状態で、飲み物を買うだけでも相当な時間がかかりそうだった。
「配達は?」
杉原がスマートフォンを操作する。
「最短で七十分後」
「ピクニック、終わってるな」と浜口。
紬は並んだ卵焼きを見た。
薄い黄色、濃い黄色、焦げ茶色。四角いものもあれば、巻き方が緩く、今にもほどけそうなものもある。
新田だけが、自分の弁当箱へ蓋を戻そうとしていた。
「新田さん、それも出して」
「これは、少し失敗したので」
蓋の隙間から見えた卵焼きは、表面の半分が黒かった。
「少し?」
「途中で、電話が来まして」
「どのくらい話したの?」
「八分です」
「火は止めよう」
紬は弁当箱を中央へ置いた。
会社へ入って三か月の新田は、普段から声が小さい。今日も先輩たちが立派な卵焼きを並べる中、自分の焦げた一品を隠そうとしている。
紬は一切れ食べた。
焦げた部分は苦い。しかし、中には細かく切ったベーコンが入り、塩味は悪くなかった。
「おいしいよ」
「本当ですか?」
「焦げていない場所は」
「正直ですね」
その時、近くから子どもの声が聞こえた。
「また、おにぎり?」
隣の木陰では、三世代らしい家族が大きな重箱を囲んでいた。重箱の中には、おにぎりが山のように積まれている。
祖母らしい女性が胸を張った。
「外で食べるなら、おにぎりでしょう」
「お母さんも同じこと言って作ったんだよ」
別の女性が、もう一つの重箱を開ける。そこにもおにぎりが詰まっていた。
紬は立ち上がった。
「交渉してきます」
「何を?」
「食料の偏りを是正します」
「急に経済政策みたいになったな」
浜口の言葉を背中で聞きながら、紬は卵焼きを一箱抱え、隣の家族へ向かった。
五分後、塩むすび六個と、だし巻き卵八切れの交換が成立した。
家族の子どもたちは甘い卵焼きを喜び、祖母は「自分では砂糖を入れないから珍しい」と二切れ続けて食べた。
それを見ていた別のグループが声をかけてきた。
「卵焼き、まだあります?」
若い夫婦は、梨を一袋持っていた。実家から箱で届き、二人では食べきれないという。
梨二個と、青のり入り卵焼き六切れ。
散歩中の老夫婦からは、紙コップと温かいほうじ茶を分けてもらった。代わりに、チーズ入りを四切れ。
芝生の端で絵を描いていた大学生たちは、スープジャーに入れたミネストローネを持っていたが、スプーンを忘れていた。紬たちは紙コップを二つ渡し、トマト味のスープを一杯もらった。
「いっそ看板を出しますか?」
美波が笑いながら言った。
杉原が文具メーカーらしく、鞄から厚紙と太いペンを取り出した。
《卵焼き交換所》
芝生に看板を立てると、思った以上に人が集まった。
焼き芋半分。
柿二個。
唐揚げ三個。
小さなクロワッサン五個。
なぜか松ぼっくり七個。
「これは食べられません」と紬が言うと、松ぼっくりを持ってきた女の子は真剣な顔で答えた。
「でも、きれいだよ」
「では、飾りとして一切れ分です」
女の子は卵焼きを受け取り、嬉しそうに母親のもとへ走っていった。
気づけば、レジャーシートの上には、最初の予定表よりも多くの料理が並んでいた。
塩むすび、唐揚げ、梨、柿、焼き芋、ミネストローネ。そして中央には、まだ大量の卵焼き。
風が吹くたび、銀杏の葉が料理の間へ落ちた。浜口が葉を拾い、松ぼっくりの隣へ並べる。
「悪くないな」
「失敗を飾りつけないでください」
紬は言ったが、自分でも少し笑っていた。
昼を過ぎる頃、新田の焦げた卵焼きだけが残った。
本人は、そっと箱を閉じようとする。
そこへ、先ほどのおにぎり一家の祖母が戻ってきた。
「黒いの、まだある?」
新田は目を丸くした。
「これですか?」
「さっき一切れもらったけど、焦げたところが香ばしくてね。うちの夫が気に入ったの」
少し離れたベンチで、祖父らしい男性が手を振っている。
新田は、残った卵焼きを全部差し出しかけた。
「全部は多いよ」と紬が止める。
祖母は柿を一個置き、黒い卵焼きを三切れ持っていった。
新田は空いた場所をしばらく見つめたあと、初めて大きな声で笑った。
午後二時、食べ物はほとんどなくなった。
代わりに、シートの上には交換でもらった松ぼっくり、銀杏の葉、子どもが置いていったどんぐりが並んでいる。
紬は共有表を開き、間違った列を修正しようとした。
浜口が横から画面をのぞく。
「来年の担当も、今決めるか」
「次は紙でも配ります。並べ替えても崩れないように」
「卵焼きは誰にする?」
五人が新田を見た。
「僕ですか?」
「今度は火を止めてから電話に出てね」と美波。
新田は少し考えてから言った。
「来年も、全員でいいんじゃないですか?」
紬は修正しかけた表を止めた。
「また卵焼きだけになるよ」
「交換すれば、ほかのものも集まります」
杉原が厚紙の看板を裏返し、来年の日付を書き始めた。
浜口は残っていた最後の一切れを持ち上げる。
「では、次回も卵焼き持参で」
紬はため息をつきながら、共有表の一番下へ新しい予定を追加した。
《来年の秋のピクニック》
持ち物の欄には、ひとまずこう入力した。
《卵焼き。焦げても可》
風が画面の上へ銀杏の葉を一枚落とした。
今度は、誰もそれを失敗だとは言わなかった。
どの箱にも、卵焼きしか入っていない。
「これは甘いやつです」
経理の大迫が、黄色い卵焼きを指さした。
「私はだし巻き」と営業の美波。
「青のり入りです」と新人の新田。
「チーズを巻きました」と制作部の杉原。
最後に部長の浜口が、二段重を開けた。上段にも下段にも、太く切られた卵焼きが隙間なく詰まっている。
「うちは昨夜、妻と娘まで参加して焼いた。三種類あるぞ」
「どうして全員、卵焼きなんですか?」
紬が尋ねると、五人が同時にスマートフォンを取り出した。
画面には、彼女が作成した秋のピクニック用の共有表が表示されている。
《白石紬 レジャーシート》
《浜口部長 卵焼き》
《大迫さん 卵焼き》
《美波さん 卵焼き》
《杉原さん 卵焼き》
《新田さん 卵焼き》
「私の画面もこうなってるよ」と浜口が言った。
紬は自分のスマートフォンで元の表を開いた。
本来は、おにぎり、唐揚げ、果物、飲み物、紙皿、卵焼きを一人ずつ割り振ったはずだった。だが、昨夜、参加者の並びを部署順に変更した時、名前の列だけを並べ替えてしまったらしい。担当品の列は動かず、さらに入力途中だった「卵焼き」を下までコピーしていた。
表計算ソフトとしては正しい。使った人間が間違っている。
「つまり、おにぎりも飲み物もない?」
美波が確認した。
「ありません」
「唐揚げは?」
「ありません」
「紙皿は?」
「ありません」
「でも、卵焼きは?」
浜口が二段重を持ち上げた。
「百切れ以上あります」
十月の空は高く、雲は薄かった。公園の銀杏は半分ほど黄色くなり、冷たい風が吹くたびに葉が一枚ずつ落ちてくる。
絶好のピクニック日和である。
食事の構成だけを除けば。
紬は二十六歳。文具メーカーの商品企画部で働き、社内行事の準備もよく任される。参加人数、予算、雨天時の代替案まで表にまとめるため、同僚からは「人間の顔をした進行表」と呼ばれていた。
その進行表が、今日は卵焼きだけを運んできた。
「近くのコンビニで買ってきます」
紬が立ち上がると、美波が公園入口を指さした。
そこには、地域のマラソン大会に参加した人々が長い列を作っていた。園内の売店も同じ状態で、飲み物を買うだけでも相当な時間がかかりそうだった。
「配達は?」
杉原がスマートフォンを操作する。
「最短で七十分後」
「ピクニック、終わってるな」と浜口。
紬は並んだ卵焼きを見た。
薄い黄色、濃い黄色、焦げ茶色。四角いものもあれば、巻き方が緩く、今にもほどけそうなものもある。
新田だけが、自分の弁当箱へ蓋を戻そうとしていた。
「新田さん、それも出して」
「これは、少し失敗したので」
蓋の隙間から見えた卵焼きは、表面の半分が黒かった。
「少し?」
「途中で、電話が来まして」
「どのくらい話したの?」
「八分です」
「火は止めよう」
紬は弁当箱を中央へ置いた。
会社へ入って三か月の新田は、普段から声が小さい。今日も先輩たちが立派な卵焼きを並べる中、自分の焦げた一品を隠そうとしている。
紬は一切れ食べた。
焦げた部分は苦い。しかし、中には細かく切ったベーコンが入り、塩味は悪くなかった。
「おいしいよ」
「本当ですか?」
「焦げていない場所は」
「正直ですね」
その時、近くから子どもの声が聞こえた。
「また、おにぎり?」
隣の木陰では、三世代らしい家族が大きな重箱を囲んでいた。重箱の中には、おにぎりが山のように積まれている。
祖母らしい女性が胸を張った。
「外で食べるなら、おにぎりでしょう」
「お母さんも同じこと言って作ったんだよ」
別の女性が、もう一つの重箱を開ける。そこにもおにぎりが詰まっていた。
紬は立ち上がった。
「交渉してきます」
「何を?」
「食料の偏りを是正します」
「急に経済政策みたいになったな」
浜口の言葉を背中で聞きながら、紬は卵焼きを一箱抱え、隣の家族へ向かった。
五分後、塩むすび六個と、だし巻き卵八切れの交換が成立した。
家族の子どもたちは甘い卵焼きを喜び、祖母は「自分では砂糖を入れないから珍しい」と二切れ続けて食べた。
それを見ていた別のグループが声をかけてきた。
「卵焼き、まだあります?」
若い夫婦は、梨を一袋持っていた。実家から箱で届き、二人では食べきれないという。
梨二個と、青のり入り卵焼き六切れ。
散歩中の老夫婦からは、紙コップと温かいほうじ茶を分けてもらった。代わりに、チーズ入りを四切れ。
芝生の端で絵を描いていた大学生たちは、スープジャーに入れたミネストローネを持っていたが、スプーンを忘れていた。紬たちは紙コップを二つ渡し、トマト味のスープを一杯もらった。
「いっそ看板を出しますか?」
美波が笑いながら言った。
杉原が文具メーカーらしく、鞄から厚紙と太いペンを取り出した。
《卵焼き交換所》
芝生に看板を立てると、思った以上に人が集まった。
焼き芋半分。
柿二個。
唐揚げ三個。
小さなクロワッサン五個。
なぜか松ぼっくり七個。
「これは食べられません」と紬が言うと、松ぼっくりを持ってきた女の子は真剣な顔で答えた。
「でも、きれいだよ」
「では、飾りとして一切れ分です」
女の子は卵焼きを受け取り、嬉しそうに母親のもとへ走っていった。
気づけば、レジャーシートの上には、最初の予定表よりも多くの料理が並んでいた。
塩むすび、唐揚げ、梨、柿、焼き芋、ミネストローネ。そして中央には、まだ大量の卵焼き。
風が吹くたび、銀杏の葉が料理の間へ落ちた。浜口が葉を拾い、松ぼっくりの隣へ並べる。
「悪くないな」
「失敗を飾りつけないでください」
紬は言ったが、自分でも少し笑っていた。
昼を過ぎる頃、新田の焦げた卵焼きだけが残った。
本人は、そっと箱を閉じようとする。
そこへ、先ほどのおにぎり一家の祖母が戻ってきた。
「黒いの、まだある?」
新田は目を丸くした。
「これですか?」
「さっき一切れもらったけど、焦げたところが香ばしくてね。うちの夫が気に入ったの」
少し離れたベンチで、祖父らしい男性が手を振っている。
新田は、残った卵焼きを全部差し出しかけた。
「全部は多いよ」と紬が止める。
祖母は柿を一個置き、黒い卵焼きを三切れ持っていった。
新田は空いた場所をしばらく見つめたあと、初めて大きな声で笑った。
午後二時、食べ物はほとんどなくなった。
代わりに、シートの上には交換でもらった松ぼっくり、銀杏の葉、子どもが置いていったどんぐりが並んでいる。
紬は共有表を開き、間違った列を修正しようとした。
浜口が横から画面をのぞく。
「来年の担当も、今決めるか」
「次は紙でも配ります。並べ替えても崩れないように」
「卵焼きは誰にする?」
五人が新田を見た。
「僕ですか?」
「今度は火を止めてから電話に出てね」と美波。
新田は少し考えてから言った。
「来年も、全員でいいんじゃないですか?」
紬は修正しかけた表を止めた。
「また卵焼きだけになるよ」
「交換すれば、ほかのものも集まります」
杉原が厚紙の看板を裏返し、来年の日付を書き始めた。
浜口は残っていた最後の一切れを持ち上げる。
「では、次回も卵焼き持参で」
紬はため息をつきながら、共有表の一番下へ新しい予定を追加した。
《来年の秋のピクニック》
持ち物の欄には、ひとまずこう入力した。
《卵焼き。焦げても可》
風が画面の上へ銀杏の葉を一枚落とした。
今度は、誰もそれを失敗だとは言わなかった。