夏服クリアランスは、理性も値下げする
高橋七海がショッピングモールへ来た目的は、白い半袖ブラウスを一枚買うことだった。
予算は五千円。
滞在時間は一時間。
必要のないものには触れない。
セール品という理由だけで買わない。
出発前、七海はスマートフォンのメモへ四つの規則を書き、自分自身に誓った。
大丈夫。
今日は買い物ではなく、任務だ。
だが、店の入口に掲げられた赤い幕を見た瞬間、四つの規則はまとめて吹き飛んだ。
『夏服クリアランス 最大八十%OFF』
「八十……?」
七海は立ち止まった。
五千円の服が千円になる。
一万円なら二千円。
つまり、買えば買うほど得をする。
算数としては完全に間違っていたが、その時の七海には、むしろ世界の真理に思えた。
店内へ入ると、すでに多くの客が夏服の棚を囲んでいた。
誰も走っていない。
しかし、全員の移動速度が妙に速い。
競歩の国際大会のようだった。
七海も人の流れに加わり、最初に目的の白いブラウスを見つけた。
定価五千九百円。
セール価格、千七百七十円。
「終わった……私の勝ちだ」
任務開始から三分。
予算は三千円以上残っている。
七海はブラウスを抱え、そのままレジへ向かおうとした。
その途中だった。
黄色いワンピースが目に入った。
定価八千円。
七十%OFF。
「いや、いらない」
七海は一度、通り過ぎた。
五歩進む。
止まる。
振り返る。
「でも、黄色い服は持ってないな……」
持っていないのは、必要がなかったからである。
しかし、今の七海には違って見えた。
黄色い服を持っていない人生は、何か大切なものが欠けている気がする。
七海はワンピースを手に取った。
次に、花柄のロングスカートを見つけた。
千二百円。
「これは会社にも着ていける」
その隣には、背中が大きく開いたリゾート用のドレスがあった。
九百九十円。
「これは……海外旅行へ行った時に使える」
海外旅行の予定はない。
パスポートも期限が切れている。
それでも、未来の可能性まで捨てる必要はないと判断した。
十分後。
七海の腕には、九着の服が掛かっていた。
そこでスマートフォンが鳴る。
友人の彩香からだった。
『ブラウス買えた?』
七海は大量の服を腕で隠しながら返信した。
『買えた。今から帰る』
嘘ではない。
帰る時刻を明言していないだけだ。
試着室へ向かう途中、七海は一枚の青いシャツへ手を伸ばした。
同時に、反対側から別の手が伸びる。
顔を上げると、六十代くらいの女性が立っていた。
二人は同じシャツをつかんだまま、しばらく見つめ合った。
「Mサイズですね」
女性が言った。
「はい」
「私もです」
店内の空気が、わずかに張りつめた。
七海はシャツを見る。
涼しげな青。
胸元には小さなレモンの刺繍。
定価六千八百円が、千三百六十円になっている。
欲しい。
だが、ここで引っ張り合えば、ニュースになる。
『夏服セール会場で女性二人がシャツを巡り対立』
会社へ知られたくない。
七海が手を離そうとした時、女性が棚の奥を指さした。
「もう一枚あります」
「え?」
二人で服をかき分けると、同じシャツが出てきた。
「Mサイズです!」
七海が叫ぶ。
「やった!」
女性と固く握手を交わした。
数秒前まで競争相手だった二人は、瞬く間に戦友になった。
それから二人は協力し、棚の中から掘り出し物を捜した。
「こちら、千円です!」
「こっちは八百円!」
「その帽子、似合いそう!」
「あなたこそ、このサンダル!」
知らない女性同士が、互いの買い物を全力で増やしていた。
三十分後。
七海は試着室の鏡の前に立っていた。
黄色いワンピース。
青いレモン柄のシャツ。
白いショートパンツ。
つばの広い麦わら帽子。
サングラス。
どう見ても、これから南の島へ行く人だった。
実際には、電車で三十分かけて一人暮らしの部屋へ帰るだけである。
試着室の外から、戦友の声がした。
「どうですか?」
「人生を楽しんでいる人に見えます」
「買いですね!」
人生を楽しむためなら仕方ない。
七海はすべて買うことにした。
レジへ到着した時、買い物かごには十五着の服が入っていた。
店員が一枚ずつ商品を読み取る。
千二百円。
九百九十円。
七百円。
千四百円。
安い数字が続く。
七海は安心していた。
一つ一つが安いのだから、合計も安いはずである。
「お会計、一万八千七百六十円です」
「え?」
予算は五千円だった。
七海はレジの画面を見る。
店員を見る。
もう一度、画面を見る。
「何かの間違いでは?」
「十五点ありますので」
十五という数字には、人を黙らせる力があった。
店員がレシートを見せる。
「定価ですと、合計七万四千三百円でした」
七海は目を見開いた。
一万八千円使ったのではない。
五万五千円以上、救ったのだ。
「カードでお願いします」
迷いは消えた。
帰宅後。
七海はベッドの上へ戦利品を並べ、彩香へ写真を送った。
『見て。定価なら七万円以上だった』
すぐに返事が来た。
『でも、一万八千円使ったんだよね?』
七海は五分間、彩香を非表示にした。
気持ちを落ち着かせ、服をクローゼットへ収納する。
入らない。
ハンガーを詰める。
扉が閉まらない。
体重をかけて押し込む。
一度は閉まった。
その夜、午前二時。
大きな音で目が覚めた。
クローゼットの扉が開き、夏服が雪崩のように床へ落ちていた。
麦わら帽子が、七海の顔の上に着地する。
暗闇の中、七海は帽子をかぶったまま天井を見つめた。
店の在庫はクリアされた。
代わりに、自分の部屋が在庫を抱えた。
月曜日。
七海は会社の重要なプレゼンへ、目的だった白いブラウスを着ていくつもりだった。
ところが、朝になって気づいた。
白いブラウスがない。
店内で大量の服を抱えた時、どこかの棚へ置いてしまったらしい。
「一番必要なものだけ買ってない……」
プレゼン開始まで一時間。
七海は床に散らばった服の中から、最も会社へ着ていけそうなものを探した。
選ばれたのは、青いレモン柄のシャツだった。
派手ではある。
しかし、背中が開いたリゾートドレスよりは社会人に見える。
会社へ着くと、同僚たちの視線が集まった。
「七海、今日ずいぶん夏だね」
「事情があるの」
「そのレモン、会社へ何個持ってきたの?」
「数えないで」
プレゼン相手は、大手飲料メーカーだった。
会議室へ入った担当者は、七海のシャツを見るなり目を輝かせた。
「それ、レモンですか?」
「はい」
「実は今回、若い女性向けのレモン炭酸飲料を企画しているんです」
七海は一瞬だけ黙った。
それから、何事もなかったように胸を張った。
「もちろん、存じております」
上司が驚いた顔で七海を見る。
「今日の服装も、商品の世界観に合わせました」
担当者たちは感心したように頷いた。
プレゼンは成功した。
帰りのエレベーターで、上司が尋ねる。
「高橋、あのシャツ、今日のために買ったのか?」
「そうです」
七海は即答した。
「綿密な計画の一部です」
自宅の床に転がる十四着については、説明しなかった。
その夜。
彩香へ報告すると、すぐに返信が来た。
『じゃあセールで買った服、仕事の役に立ったんだ』
『そう。全部、必要経費だった』
『会社へ申請してみたら?』
『それは怖い』
七海がスマートフォンを置こうとした時、買い物アプリから通知が届いた。
『夏服クリアランス最終日。さらに値下げ、最大九十%OFF』
七海の指が止まった。
最大九十%。
昨日より安い。
つまり昨日買わなかった商品を、今日はもっと得に買える。
クローゼットの前では、服の山が静かにこちらを見ていた。
七海は通知を消した。
アプリも閉じた。
スマートフォンを裏返す。
三十秒後。
もう一度、画面を開いた。
「見るだけだから」
翌朝。
玄関には、夏服の入った大きな紙袋が二つ増えていた。
クリアランスセールとは、店の在庫を整理する催しである。
客の理性まで整理するとは、どこにも書いていない。
予算は五千円。
滞在時間は一時間。
必要のないものには触れない。
セール品という理由だけで買わない。
出発前、七海はスマートフォンのメモへ四つの規則を書き、自分自身に誓った。
大丈夫。
今日は買い物ではなく、任務だ。
だが、店の入口に掲げられた赤い幕を見た瞬間、四つの規則はまとめて吹き飛んだ。
『夏服クリアランス 最大八十%OFF』
「八十……?」
七海は立ち止まった。
五千円の服が千円になる。
一万円なら二千円。
つまり、買えば買うほど得をする。
算数としては完全に間違っていたが、その時の七海には、むしろ世界の真理に思えた。
店内へ入ると、すでに多くの客が夏服の棚を囲んでいた。
誰も走っていない。
しかし、全員の移動速度が妙に速い。
競歩の国際大会のようだった。
七海も人の流れに加わり、最初に目的の白いブラウスを見つけた。
定価五千九百円。
セール価格、千七百七十円。
「終わった……私の勝ちだ」
任務開始から三分。
予算は三千円以上残っている。
七海はブラウスを抱え、そのままレジへ向かおうとした。
その途中だった。
黄色いワンピースが目に入った。
定価八千円。
七十%OFF。
「いや、いらない」
七海は一度、通り過ぎた。
五歩進む。
止まる。
振り返る。
「でも、黄色い服は持ってないな……」
持っていないのは、必要がなかったからである。
しかし、今の七海には違って見えた。
黄色い服を持っていない人生は、何か大切なものが欠けている気がする。
七海はワンピースを手に取った。
次に、花柄のロングスカートを見つけた。
千二百円。
「これは会社にも着ていける」
その隣には、背中が大きく開いたリゾート用のドレスがあった。
九百九十円。
「これは……海外旅行へ行った時に使える」
海外旅行の予定はない。
パスポートも期限が切れている。
それでも、未来の可能性まで捨てる必要はないと判断した。
十分後。
七海の腕には、九着の服が掛かっていた。
そこでスマートフォンが鳴る。
友人の彩香からだった。
『ブラウス買えた?』
七海は大量の服を腕で隠しながら返信した。
『買えた。今から帰る』
嘘ではない。
帰る時刻を明言していないだけだ。
試着室へ向かう途中、七海は一枚の青いシャツへ手を伸ばした。
同時に、反対側から別の手が伸びる。
顔を上げると、六十代くらいの女性が立っていた。
二人は同じシャツをつかんだまま、しばらく見つめ合った。
「Mサイズですね」
女性が言った。
「はい」
「私もです」
店内の空気が、わずかに張りつめた。
七海はシャツを見る。
涼しげな青。
胸元には小さなレモンの刺繍。
定価六千八百円が、千三百六十円になっている。
欲しい。
だが、ここで引っ張り合えば、ニュースになる。
『夏服セール会場で女性二人がシャツを巡り対立』
会社へ知られたくない。
七海が手を離そうとした時、女性が棚の奥を指さした。
「もう一枚あります」
「え?」
二人で服をかき分けると、同じシャツが出てきた。
「Mサイズです!」
七海が叫ぶ。
「やった!」
女性と固く握手を交わした。
数秒前まで競争相手だった二人は、瞬く間に戦友になった。
それから二人は協力し、棚の中から掘り出し物を捜した。
「こちら、千円です!」
「こっちは八百円!」
「その帽子、似合いそう!」
「あなたこそ、このサンダル!」
知らない女性同士が、互いの買い物を全力で増やしていた。
三十分後。
七海は試着室の鏡の前に立っていた。
黄色いワンピース。
青いレモン柄のシャツ。
白いショートパンツ。
つばの広い麦わら帽子。
サングラス。
どう見ても、これから南の島へ行く人だった。
実際には、電車で三十分かけて一人暮らしの部屋へ帰るだけである。
試着室の外から、戦友の声がした。
「どうですか?」
「人生を楽しんでいる人に見えます」
「買いですね!」
人生を楽しむためなら仕方ない。
七海はすべて買うことにした。
レジへ到着した時、買い物かごには十五着の服が入っていた。
店員が一枚ずつ商品を読み取る。
千二百円。
九百九十円。
七百円。
千四百円。
安い数字が続く。
七海は安心していた。
一つ一つが安いのだから、合計も安いはずである。
「お会計、一万八千七百六十円です」
「え?」
予算は五千円だった。
七海はレジの画面を見る。
店員を見る。
もう一度、画面を見る。
「何かの間違いでは?」
「十五点ありますので」
十五という数字には、人を黙らせる力があった。
店員がレシートを見せる。
「定価ですと、合計七万四千三百円でした」
七海は目を見開いた。
一万八千円使ったのではない。
五万五千円以上、救ったのだ。
「カードでお願いします」
迷いは消えた。
帰宅後。
七海はベッドの上へ戦利品を並べ、彩香へ写真を送った。
『見て。定価なら七万円以上だった』
すぐに返事が来た。
『でも、一万八千円使ったんだよね?』
七海は五分間、彩香を非表示にした。
気持ちを落ち着かせ、服をクローゼットへ収納する。
入らない。
ハンガーを詰める。
扉が閉まらない。
体重をかけて押し込む。
一度は閉まった。
その夜、午前二時。
大きな音で目が覚めた。
クローゼットの扉が開き、夏服が雪崩のように床へ落ちていた。
麦わら帽子が、七海の顔の上に着地する。
暗闇の中、七海は帽子をかぶったまま天井を見つめた。
店の在庫はクリアされた。
代わりに、自分の部屋が在庫を抱えた。
月曜日。
七海は会社の重要なプレゼンへ、目的だった白いブラウスを着ていくつもりだった。
ところが、朝になって気づいた。
白いブラウスがない。
店内で大量の服を抱えた時、どこかの棚へ置いてしまったらしい。
「一番必要なものだけ買ってない……」
プレゼン開始まで一時間。
七海は床に散らばった服の中から、最も会社へ着ていけそうなものを探した。
選ばれたのは、青いレモン柄のシャツだった。
派手ではある。
しかし、背中が開いたリゾートドレスよりは社会人に見える。
会社へ着くと、同僚たちの視線が集まった。
「七海、今日ずいぶん夏だね」
「事情があるの」
「そのレモン、会社へ何個持ってきたの?」
「数えないで」
プレゼン相手は、大手飲料メーカーだった。
会議室へ入った担当者は、七海のシャツを見るなり目を輝かせた。
「それ、レモンですか?」
「はい」
「実は今回、若い女性向けのレモン炭酸飲料を企画しているんです」
七海は一瞬だけ黙った。
それから、何事もなかったように胸を張った。
「もちろん、存じております」
上司が驚いた顔で七海を見る。
「今日の服装も、商品の世界観に合わせました」
担当者たちは感心したように頷いた。
プレゼンは成功した。
帰りのエレベーターで、上司が尋ねる。
「高橋、あのシャツ、今日のために買ったのか?」
「そうです」
七海は即答した。
「綿密な計画の一部です」
自宅の床に転がる十四着については、説明しなかった。
その夜。
彩香へ報告すると、すぐに返信が来た。
『じゃあセールで買った服、仕事の役に立ったんだ』
『そう。全部、必要経費だった』
『会社へ申請してみたら?』
『それは怖い』
七海がスマートフォンを置こうとした時、買い物アプリから通知が届いた。
『夏服クリアランス最終日。さらに値下げ、最大九十%OFF』
七海の指が止まった。
最大九十%。
昨日より安い。
つまり昨日買わなかった商品を、今日はもっと得に買える。
クローゼットの前では、服の山が静かにこちらを見ていた。
七海は通知を消した。
アプリも閉じた。
スマートフォンを裏返す。
三十秒後。
もう一度、画面を開いた。
「見るだけだから」
翌朝。
玄関には、夏服の入った大きな紙袋が二つ増えていた。
クリアランスセールとは、店の在庫を整理する催しである。
客の理性まで整理するとは、どこにも書いていない。