花火に消された告白
「好きです」を花火が消してくれれば、告白したことにはならない。
篠原澪は、そんな卑怯な計画を立てていた。
二十五歳。
都内の広告会社に勤めて三年目。
仕事では平気でクライアントへ企画を提案できるのに、同期の相川悠斗へ気持ちを伝えることだけは、二年間も先延ばしにしていた。
そこで思いついたのが、花火大会だった。
花火が上がる瞬間に告白する。
聞こえれば、そのまま勝負。
聞こえなければ、何も言わなかった顔をして帰る。
完璧な作戦だった。
少なくとも、浴衣の帯を締めるまでは。
「苦しい……」
澪は自宅の鏡の前で、帯を少し緩めた。
母から借りた紺色の浴衣は気に入っている。白い朝顔の柄も涼しげで、髪も普段より時間をかけて整えた。
問題は、呼吸ができないことだった。
「告白する前に酸欠で倒れたら、会社で一生語り継がれる……」
帯を緩める。
今度は浴衣が少し崩れる。
締める。
苦しい。
緩める。
崩れる。
十五分後、澪は人生について考え始めた。
結局、多少苦しいほうを選び、待ち合わせ場所へ向かった。
駅前には浴衣姿の人々があふれていた。
悠斗は改札の横で待っていた。
白いシャツに黒いパンツ。
祭りへ行くというより、休日出勤から帰ってきたような格好だった。
「浴衣じゃないの?」
澪が言うと、悠斗は自分の服を見下ろした。
「持ってない」
「買えばよかったのに」
「一年に一回のために?」
「そういうところ、本当に経理みたい」
「俺、営業だけど」
「心が経理」
悠斗は少し笑った。
それから、澪の浴衣を見た。
「似合ってる」
あまりにも自然に言われたので、澪は三秒ほど返事ができなかった。
「……ありがとう」
告白する前から心拍数を上げないでほしい。
会場へ向かう道には、屋台が並んでいた。
焼きそば。
たこ焼き。
りんご飴。
かき氷。
澪は本番に備え、できるだけ平静を装った。
「何か食べる?」
悠斗が尋ねる。
「今はいい」
「珍しい」
「私を何だと思ってるの?」
「祭りの食べ物を端から全部買う人」
「そんなことしないよ」
十分後。
澪の手には、たこ焼き、フランクフルト、ベビーカステラがあった。
悠斗が無言で袋を見た。
「これは違うの」
「何が?」
「屋台のおじさんが、最後の一個だって言うから」
「三軒とも?」
「祭りでは、みんな最後の一個を売ってるの」
河川敷に着く頃には、空が藍色へ変わっていた。
二人は草の上にレジャーシートを敷いた。
少し離れた場所では子どもが走り回り、浴衣姿の女性たちが写真を撮っている。
打ち上げ開始まで、あと十分。
澪は頭の中で何度も練習した。
――悠斗、私、ずっと前から好きだった。
長い。
――好きです。
短すぎる。
――付き合ってください。
重い。
――実は、ちょっとだけ好きかも。
逃げ道が多すぎる。
「さっきから怖い顔してるけど、大丈夫?」
悠斗に聞かれ、澪は慌てて笑った。
「大丈夫。集中してるだけ」
「何に?」
「花火を見ることに」
「まだ始まってないよ」
「だから準備してるの」
その時、会場の照明が落ちた。
人々の声が小さくなる。
川の向こうから、一筋の光が昇った。
夜空に、大きな金色の花が開く。
歓声が上がった。
澪は拳を握った。
今だ。
「悠斗!」
「なに?」
二発目が上がっていく。
澪は息を吸った。
「私、悠斗のことが――」
ドンッ!
巨大な音が、言葉の続きを完全に消した。
悠斗が首を傾げる。
「俺のことが何?」
澪は慌てて夜空を指さした。
「花火みたい!」
「俺が?」
「違う! 花火が!」
一回目、失敗。
まだ機会はある。
次は連続花火の合間を狙えばいい。
澪は横目で悠斗を見た。
花火の光が、彼の横顔を赤や青に染めている。
こんな顔を見られるのも、もしかしたら今日が最後かもしれない。
振られたら、今まで通りには戻れない。
そう考えると、喉が急に乾いた。
「澪」
「なに?」
「かき氷、食べる?」
「今?」
「さっきからあっち見てるから」
澪が見ていたのは、かき氷屋ではなく悠斗の横顔だった。
しかし、そんなことは言えない。
「食べる」
二人で一つのいちご味を買った。
澪は赤く染まった舌を見せないようにしながら、二度目の機会を待った。
花火が一度途切れる。
今度こそ。
「悠斗」
「うん」
「私と――」
ヒュルルルル。
まずい。
思ったより次が早い。
「付き合って――」
ドドドドドンッ!
夜空いっぱいに花火が開いた。
「焼き鳥買って?」
悠斗が尋ねた。
「違う!」
「じゃあ何?」
「……焼きとうもろこし」
「食べ物じゃん」
なぜ自分から、さらに食べ物を増やしてしまったのか。
悠斗は本当に焼きとうもろこしを買ってきた。
澪の周囲には、たこ焼き、フランクフルト、ベビーカステラ、かき氷、焼きとうもろこしが並んだ。
もはや告白の場ではない。
宴会だった。
「今日、よく食べるね」
「緊張すると食べるタイプなの」
「何に緊張してるの?」
「花火に」
「花火を見る準備で集中して、花火に緊張して、屋台を制覇してるの?」
「今日は質問が多いね」
残る機会は、最後の大玉だけだった。
会場アナウンスが流れる。
『次が、本日のフィナーレとなります』
澪は膝の上で拳を握った。
もう逃げない。
聞こえなくてもいい。
言葉にすることが大事だ。
夜空へ最後の光が昇っていく。
澪は悠斗の袖をつかんだ。
「悠斗!」
彼が振り向く。
「ずっと前から好きだった!」
その瞬間。
夜空が白く染まった。
遅れて、身体を揺らすほどの爆音が響く。
観客の歓声と拍手が重なった。
澪の声は、今度もきれいに消えた。
終わった。
花火大会も。
告白も。
澪は俯いた。
「帰ろっか」
できるだけ明るく言い、立ち上がろうとした。
しかし、悠斗が袖をつかんだ。
「待って」
「なに?」
「今の、もう一回言って」
心臓が跳ねた。
「聞こえてたの?」
「最後のほうだけ」
「どこから?」
悠斗は少し考えた。
「ずっと前から、焼き鳥だった?」
「どういう告白!?」
澪は思わず叫んだ。
悠斗が吹き出す。
「冗談」
「最低!」
「最初から聞こえてた」
「え?」
「俺のことが花火みたいってところも」
「あれは違う!」
「付き合って焼きとうもろこしも」
「それも違う!」
悠斗はしばらく笑った後、少しだけ真面目な顔になった。
「返事しようとしたら、そのたびに花火が上がった」
「じゃあ、返事は?」
「俺も――」
ヒュルルルル。
二人は同時に空を見上げた。
予定にはなかった、小さな花火が一発だけ上がった。
ドンッ!
悠斗の声が消えた。
澪は彼を見る。
「聞こえなかった」
「嘘」
「本当」
「顔が笑ってる」
「もう一回言って」
「恥ずかしいから嫌だ」
澪は少し考え、彼の袖をつかんだまま笑った。
「じゃあ、付き合ってくれたら、聞こえたことにする」
悠斗は肩をすくめた。
「仕方ないな」
「何、その上から目線」
「焼き鳥まで買わされたし」
「頼んでない!」
帰り道。
二人の間には、少しだけ新しい距離ができていた。
人混みの中ではぐれないように、悠斗が澪の手を握る。
澪は俯きながら、その手を握り返した。
「来年も来る?」
悠斗が尋ねる。
「来る」
「次は浴衣を買おうかな」
「一年に一回のために?」
「誰かさんが着ろって言うから」
澪は笑った。
来年の花火は、今日と同じようには見えないだろう。
告白を隠してくれる逃げ道ではなく、二人で見る夏の約束になる。
ただし、その前に一つだけ問題が残っていた。
澪は立ち止まり、自分の帯を押さえた。
「悠斗」
「なに?」
「帯がほどけそう」
「え?」
「前を歩いて。絶対に振り返らないで」
「それ、俺に任せて大丈夫?」
「今から別れる?」
交際開始から、まだ三分。
二人の最初の喧嘩は、花火よりずっと小さな音で始まった。
篠原澪は、そんな卑怯な計画を立てていた。
二十五歳。
都内の広告会社に勤めて三年目。
仕事では平気でクライアントへ企画を提案できるのに、同期の相川悠斗へ気持ちを伝えることだけは、二年間も先延ばしにしていた。
そこで思いついたのが、花火大会だった。
花火が上がる瞬間に告白する。
聞こえれば、そのまま勝負。
聞こえなければ、何も言わなかった顔をして帰る。
完璧な作戦だった。
少なくとも、浴衣の帯を締めるまでは。
「苦しい……」
澪は自宅の鏡の前で、帯を少し緩めた。
母から借りた紺色の浴衣は気に入っている。白い朝顔の柄も涼しげで、髪も普段より時間をかけて整えた。
問題は、呼吸ができないことだった。
「告白する前に酸欠で倒れたら、会社で一生語り継がれる……」
帯を緩める。
今度は浴衣が少し崩れる。
締める。
苦しい。
緩める。
崩れる。
十五分後、澪は人生について考え始めた。
結局、多少苦しいほうを選び、待ち合わせ場所へ向かった。
駅前には浴衣姿の人々があふれていた。
悠斗は改札の横で待っていた。
白いシャツに黒いパンツ。
祭りへ行くというより、休日出勤から帰ってきたような格好だった。
「浴衣じゃないの?」
澪が言うと、悠斗は自分の服を見下ろした。
「持ってない」
「買えばよかったのに」
「一年に一回のために?」
「そういうところ、本当に経理みたい」
「俺、営業だけど」
「心が経理」
悠斗は少し笑った。
それから、澪の浴衣を見た。
「似合ってる」
あまりにも自然に言われたので、澪は三秒ほど返事ができなかった。
「……ありがとう」
告白する前から心拍数を上げないでほしい。
会場へ向かう道には、屋台が並んでいた。
焼きそば。
たこ焼き。
りんご飴。
かき氷。
澪は本番に備え、できるだけ平静を装った。
「何か食べる?」
悠斗が尋ねる。
「今はいい」
「珍しい」
「私を何だと思ってるの?」
「祭りの食べ物を端から全部買う人」
「そんなことしないよ」
十分後。
澪の手には、たこ焼き、フランクフルト、ベビーカステラがあった。
悠斗が無言で袋を見た。
「これは違うの」
「何が?」
「屋台のおじさんが、最後の一個だって言うから」
「三軒とも?」
「祭りでは、みんな最後の一個を売ってるの」
河川敷に着く頃には、空が藍色へ変わっていた。
二人は草の上にレジャーシートを敷いた。
少し離れた場所では子どもが走り回り、浴衣姿の女性たちが写真を撮っている。
打ち上げ開始まで、あと十分。
澪は頭の中で何度も練習した。
――悠斗、私、ずっと前から好きだった。
長い。
――好きです。
短すぎる。
――付き合ってください。
重い。
――実は、ちょっとだけ好きかも。
逃げ道が多すぎる。
「さっきから怖い顔してるけど、大丈夫?」
悠斗に聞かれ、澪は慌てて笑った。
「大丈夫。集中してるだけ」
「何に?」
「花火を見ることに」
「まだ始まってないよ」
「だから準備してるの」
その時、会場の照明が落ちた。
人々の声が小さくなる。
川の向こうから、一筋の光が昇った。
夜空に、大きな金色の花が開く。
歓声が上がった。
澪は拳を握った。
今だ。
「悠斗!」
「なに?」
二発目が上がっていく。
澪は息を吸った。
「私、悠斗のことが――」
ドンッ!
巨大な音が、言葉の続きを完全に消した。
悠斗が首を傾げる。
「俺のことが何?」
澪は慌てて夜空を指さした。
「花火みたい!」
「俺が?」
「違う! 花火が!」
一回目、失敗。
まだ機会はある。
次は連続花火の合間を狙えばいい。
澪は横目で悠斗を見た。
花火の光が、彼の横顔を赤や青に染めている。
こんな顔を見られるのも、もしかしたら今日が最後かもしれない。
振られたら、今まで通りには戻れない。
そう考えると、喉が急に乾いた。
「澪」
「なに?」
「かき氷、食べる?」
「今?」
「さっきからあっち見てるから」
澪が見ていたのは、かき氷屋ではなく悠斗の横顔だった。
しかし、そんなことは言えない。
「食べる」
二人で一つのいちご味を買った。
澪は赤く染まった舌を見せないようにしながら、二度目の機会を待った。
花火が一度途切れる。
今度こそ。
「悠斗」
「うん」
「私と――」
ヒュルルルル。
まずい。
思ったより次が早い。
「付き合って――」
ドドドドドンッ!
夜空いっぱいに花火が開いた。
「焼き鳥買って?」
悠斗が尋ねた。
「違う!」
「じゃあ何?」
「……焼きとうもろこし」
「食べ物じゃん」
なぜ自分から、さらに食べ物を増やしてしまったのか。
悠斗は本当に焼きとうもろこしを買ってきた。
澪の周囲には、たこ焼き、フランクフルト、ベビーカステラ、かき氷、焼きとうもろこしが並んだ。
もはや告白の場ではない。
宴会だった。
「今日、よく食べるね」
「緊張すると食べるタイプなの」
「何に緊張してるの?」
「花火に」
「花火を見る準備で集中して、花火に緊張して、屋台を制覇してるの?」
「今日は質問が多いね」
残る機会は、最後の大玉だけだった。
会場アナウンスが流れる。
『次が、本日のフィナーレとなります』
澪は膝の上で拳を握った。
もう逃げない。
聞こえなくてもいい。
言葉にすることが大事だ。
夜空へ最後の光が昇っていく。
澪は悠斗の袖をつかんだ。
「悠斗!」
彼が振り向く。
「ずっと前から好きだった!」
その瞬間。
夜空が白く染まった。
遅れて、身体を揺らすほどの爆音が響く。
観客の歓声と拍手が重なった。
澪の声は、今度もきれいに消えた。
終わった。
花火大会も。
告白も。
澪は俯いた。
「帰ろっか」
できるだけ明るく言い、立ち上がろうとした。
しかし、悠斗が袖をつかんだ。
「待って」
「なに?」
「今の、もう一回言って」
心臓が跳ねた。
「聞こえてたの?」
「最後のほうだけ」
「どこから?」
悠斗は少し考えた。
「ずっと前から、焼き鳥だった?」
「どういう告白!?」
澪は思わず叫んだ。
悠斗が吹き出す。
「冗談」
「最低!」
「最初から聞こえてた」
「え?」
「俺のことが花火みたいってところも」
「あれは違う!」
「付き合って焼きとうもろこしも」
「それも違う!」
悠斗はしばらく笑った後、少しだけ真面目な顔になった。
「返事しようとしたら、そのたびに花火が上がった」
「じゃあ、返事は?」
「俺も――」
ヒュルルルル。
二人は同時に空を見上げた。
予定にはなかった、小さな花火が一発だけ上がった。
ドンッ!
悠斗の声が消えた。
澪は彼を見る。
「聞こえなかった」
「嘘」
「本当」
「顔が笑ってる」
「もう一回言って」
「恥ずかしいから嫌だ」
澪は少し考え、彼の袖をつかんだまま笑った。
「じゃあ、付き合ってくれたら、聞こえたことにする」
悠斗は肩をすくめた。
「仕方ないな」
「何、その上から目線」
「焼き鳥まで買わされたし」
「頼んでない!」
帰り道。
二人の間には、少しだけ新しい距離ができていた。
人混みの中ではぐれないように、悠斗が澪の手を握る。
澪は俯きながら、その手を握り返した。
「来年も来る?」
悠斗が尋ねる。
「来る」
「次は浴衣を買おうかな」
「一年に一回のために?」
「誰かさんが着ろって言うから」
澪は笑った。
来年の花火は、今日と同じようには見えないだろう。
告白を隠してくれる逃げ道ではなく、二人で見る夏の約束になる。
ただし、その前に一つだけ問題が残っていた。
澪は立ち止まり、自分の帯を押さえた。
「悠斗」
「なに?」
「帯がほどけそう」
「え?」
「前を歩いて。絶対に振り返らないで」
「それ、俺に任せて大丈夫?」
「今から別れる?」
交際開始から、まだ三分。
二人の最初の喧嘩は、花火よりずっと小さな音で始まった。