残暑は、秋服を許さない

 八月三十一日。
 天気予報の最高気温は、三十六度だった。
「今日で夏も終わりですね」
 朝の情報番組でアナウンサーが笑っている。
 二十六歳の南雲ひよりは、冷房の効いた部屋でアイスコーヒーを飲みながら、窓の外を見た。
 蝉が鳴いていた。
 道路には陽炎が揺れていた。
 向かいのマンションのベランダでは、干されたTシャツが熱風にあおられている。
「夏、終わる気ないでしょ」
 テレビへ突っ込んだ直後、会社からメッセージが届いた。
『本日の秋物撮影、予定どおり実施します』
 ひよりは嫌な予感を覚えた。
 彼女が勤めるのは、若い女性向けの衣料品を扱う会社だった。
 本来の仕事はオンラインショップの商品ページを作ることだが、今日は近郊の公園で秋物商品の撮影を手伝うことになっている。
 撮影テーマは、
『木漏れ日の中で始まる、小さな秋』
 木漏れ日はある。
 秋だけがない。
 午前十時。
 公園へ到着すると、撮影スタッフたちは木陰へ集まり、すでに全員が疲れた顔をしていた。
 カメラマンは首へ保冷剤を巻き、メイク担当は携帯扇風機を二台持っている。
 テーブルには秋らしい小道具として、栗、落ち葉、マグカップ、古い洋書が並べられていた。
 落ち葉は造花店で買った偽物だった。
 本物の木々は、青々としている。
「南雲さん、モデルさんが来られなくなった」
 撮影責任者の課長が言った。
「体調不良ですか?」
「暑さで」
「秋物撮影として、あまりにも正しい判断ですね」
「そこで相談なんだけど」
 課長の視線が、ひよりの顔から足元までゆっくり動く。
 嫌な予感が確信へ変わった。
「南雲さん、モデルさんと身長がほぼ同じなんだよね」
「私は撮影補助です」
「社員モデルという新しい挑戦を」
「言い換えても、代役ですよね?」
 十五分後。
 ひよりは試着用テントの中で、分厚いニットカーディガンを着ていた。
 長袖のブラウス。
 膝下まであるロングスカート。
 革のショートブーツ。
 仕上げに、首へチェック柄のストールを巻かれる。
 鏡に映る自分は、十月の観光地にいそうだった。
 体感温度だけは、真夏の鍋料理店だった。
「ストール、必要ですか?」
「秋らしさが増すから」
「代わりに生命力が減ってます」
 テントから出ると、強い日差しが全身へ降り注いだ。
 カメラマンが手をたたく。
「いいですね。少し遠くを見る感じで」
 ひよりは遠くを見た。
 公園の売店にある、かき氷の旗が見えた。
「もう少し優しく笑って」
「かき氷を買ってくれたら、自然に笑えます」
「撮影が終わったらね」
「その頃には、私が溶けてます」
 撮影が始まった。
 ひよりは木の下に置かれたベンチへ座り、熱い飲み物が入っているようにマグカップを両手で包んだ。
 中身は氷水だった。
「秋のカフェで、温かい飲み物を楽しんでいる感じで」
 カメラマンが指示する。
 ひよりはマグカップへ口をつけた。
 冷たい。
 心からおいしい。
「今の表情、最高です!」
「氷水を飲んだ顔です」
 次は、落ち葉を手に持って歩く場面だった。
 スタッフが偽物の落ち葉を地面へまく。
 ところが、強い風が吹いた。
 落ち葉は一斉に舞い上がり、隣でラジオ体操をしていた老人たちのほうへ飛んでいく。
 一人の老人の頭へ、真っ赤なカエデがきれいに載った。
「もう紅葉の季節か」
 老人が言う。
「違います! こちらの秋が逃げました!」
 スタッフたちが公園中を走り、落ち葉を回収する。
 ひよりも追いかけようとしたが、ブーツの中が蒸れて走れない。
 さらに、ストールが木の枝へ引っかかった。
「南雲さん、止まって!」
「止まってます! 秋に捕まってるんです!」
 どうにか外してもらった頃には、額の汗で前髪が張りついていた。
 メイク担当が駆け寄り、汗を拭く。
「ファンデーションが危ない」
「本人はもっと危ないです」
 昼になり、気温は三十七度へ上がった。
 最後に撮るのは、木々の間を爽やかに歩く場面だった。
 スタッフが大型送風機を用意する。
「風で髪とスカートを揺らします」
「自然の風で十分じゃないですか?」
「向きが安定しないから」
 送風機が動き始めた。
 最初は弱い風だった。
 カーディガンの裾が、柔らかく揺れる。
「いいですね。そのまま笑って!」
 ところが、スタッフが出力を一段上げた。
 強風がひよりを直撃する。
 髪がすべて後ろへ流れ、ストールが顔へ巻きついた。
 偽物の落ち葉が再び空へ舞い上がる。
 マグカップが倒れ、洋書のページが猛烈な速さでめくれていった。
「強い強い!」
 ひよりの声も風に流される。
 送風機の向こうで、課長が親指を立てた。
「秋風っぽい!」
「台風です!」
 その時だった。
 近くで遊んでいた子どもの水鉄砲から、一本の水が飛んできた。
 水は見事に、ひよりの頬へ命中した。
 全員が固まる。
 水鉄砲を持った少年も固まった。
 母親が青ざめて駆け寄ろうとする。
 だが、ひよりは頬を伝う水を手で拭い、空を見上げた。
「……冷たい」
 思わず笑ってしまった。
 それまで作ろうとしていた上品な微笑みではない。
 暑さも、汗も、飛び回る落ち葉も、全部どうでもよくなった顔だった。
 カメラのシャッター音が響く。
「今の、すごくいい!」
 カメラマンが叫んだ。
 少年は不安そうに、ひよりを見ている。
 ひよりは地面へ落ちていた水鉄砲を拾い、少年へ返した。
「次は、課長を狙って」
「南雲さん!?」
 スタッフたちが笑った。
 結局、その日の撮影で採用されたのは、予定していた写真ではなかった。
 造花の落ち葉に囲まれ、頬へ水滴をつけ、ストールを半分ほど顔へ巻きつけたまま、ひよりが大笑いしている一枚だった。
 商品ページには、短い言葉が添えられた。
『秋はまだ遠い。でも、秋服は待ってくれない』
 正直すぎる広告は、予想以上に反響を呼んだ。
『分かる。秋服を買ったのに暑くて着られない』
『モデルさんの顔が本当に暑そうで信頼できる』
『このカーディガン、涼しくなったら欲しい』
 投稿は拡散され、秋物商品の売り上げも伸びた。
 翌日。
 ひよりが出社すると、課長が満面の笑みで迎えた。
「南雲さん、昨日の写真が大好評だよ」
「もう二度とモデルはやりません」
「そう言わずに。次の企画もお願いしたいんだ」
 机の上へ、撮影資料が置かれる。
 表紙には、雪景色の中で白いダウンコートを着る女性の写真があった。
『冬を先取り。心まで包む、あったかコーデ』
 撮影予定日。
 九月七日。
 予想最高気温。
 三十五度。
 ひよりは静かに資料を閉じた。
「課長」
「なに?」
「冬は、もう少し待たせてもいいと思います」
 窓の外では、夏を終える気のない蝉が、今日も元気に鳴いていた。

目次

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