九回裏、姉は黙れない
「絶対に名前を叫ぶなよ」
県大会決勝の朝、弟の悠真はそれだけ言って家を出た。
「応援に来るな、じゃないんだ?」
私が聞くと、玄関でスパイクケースを持ったまま振り返る。
「来てもいいけど、普通に応援して」
「普通って?」
「学校名を言うとか、頑張れとか」
「悠ちゃん頑張れー、は?」
「それをやめろって言ってる」
二十四歳の姉が、高校三年生の弟を人前で悠ちゃんと呼ぶのは、かなり恥ずかしいらしい。
私は了承した。
少なくとも、その時は守るつもりだった。
球場へ着いたのは、試合開始の一時間前だった。
真夏のスタンドは、座っただけで太ももが焼けそうに熱い。母から渡された応援用のメガホンには、油性ペンで大きく『悠真、甲子園へ連れていけ』と書かれていた。
「お母さん、これも名前が入ってるけど」
「書いちゃったものは仕方ないでしょ」
「本人に見つかったら怒られるよ」
「九回まで隠しておけばいいのよ」
最初から出すつもりだった。
悠真は、県立青葉高校のエースだった。
入学した頃は控え投手で、二年生の秋から背番号一をつけた。速い球を投げるわけでも、背が高いわけでもない。
ただ、崩れそうで崩れない。
雨の日も、寒い日も、家の前でタオルを握って投球フォームを確認していた。
近所の人からは、何度も「洗濯物を投げる練習?」と聞かれていた。
本人は真剣だった。
私はその横を、コンビニのアイスを食べながら通り過ぎていた。
試合が始まった。
相手は、何度も甲子園へ出場している強豪校。
青葉高校の応援席だけでなく、球場全体が相手の勝利を予想しているように見えた。
一回表。
悠真が先頭打者へ、いきなり四球を出した。
「ちょっと!」
私が立ち上がると、母に腕を引かれた。
「まだ始まったばかり」
「でも、いきなり歩かせたよ」
「そういう作戦かもしれないでしょ」
「絶対違うと思う」
次の打者が送りバントを決める。
一死二塁。
三番打者の鋭い打球を、二塁手が横っ飛びで止めた。悠真が一塁のカバーへ走り、ぎりぎりでアウトを取る。
応援席から大きな拍手が起きた。
悠真は何事もなかったように、帽子のつばへ触れた。
私はようやく息を吐いた。
「お母さん」
「なに?」
「野球って、こんなに心臓に悪かった?」
「昔からよ。あんたが外野でお菓子を食べてただけ」
小学生の頃から、弟の試合には何度も連れていかれた。
正直、退屈だった。
ボールが飛んでこない時間のほうが長いし、同じような白い服を着た人が大勢いて、どれが弟なのか分からない。
でも今日は、マウンドに立つ背番号一から目を離せなかった。
三回まで、両チーム無得点。
四回表。
相手の四番打者に、左中間を破る二塁打を打たれた。
続く打者の犠牲フライで、一点を先制される。
球場の向こう側から、地響きのような歓声が上がった。
悠真はマウンドで下を向いた。
私はメガホンを握る。
名前を叫びそうになり、慌てて飲み込んだ。
「青葉、頑張れー!」
学校名にしては、ずいぶん個人的な声になった。
悠真が一瞬だけ、こちらを見た気がした。
六回裏。
青葉高校が二死二塁の好機を作った。
打席には、八番の一年生。
応援団の太鼓が響く。
吹奏楽部の演奏が繰り返され、スタンド全体が同じリズムで揺れていた。
打球は、ふらふらと右翼の前へ落ちた。
二塁走者が三塁を回る。
送球が本塁へ返ってくる。
走者が滑り込んだ。
「セーフ!」
審判の両手が横へ広がった瞬間、私は母と抱き合っていた。
会場で会った友達にも、それほど強く抱きついたことはない。
「同点! 同点だよ!」
「見てたから分かる!」
七回。
八回。
得点は動かなかった。
気温は少し下がったはずなのに、制服姿の応援団も、吹奏楽部も、観客も、全員の顔が汗で光っていた。
九回表。
悠真が再びマウンドへ上がる。
球数は百二十球を超えている。
先頭打者を内野ゴロ。
次の打者には、粘られた末に四球。
一死一塁。
三番打者が右前へ運び、一塁走者が三塁まで進んだ。
一死一、三塁。
スタンドから声が消えた。
次は、四回に二塁打を打った四番打者だった。
監督がマウンドへ向かう。
内野手も集まる。
悠真は何度も頷いていた。
ここで投手を交代するのだと思った。
けれど、監督は悠真の肩を一度叩き、そのままベンチへ戻った。
「まだ投げるの?」
母は返事をしなかった。
膝の上で握っていた紙のうちわが、完全に折れていた。
初球。
外れて、ボール。
二球目。
空振り。
三球目は低く外れた。
ツーボール、ワンストライク。
スクイズを警戒しているのか、三塁走者が何度も飛び出す。捕手が立ち上がるたび、こちらの心臓まで引っ張られる。
四球目。
ファウル。
ツーボール、ツーストライク。
悠真がロージンバッグへ手を伸ばす。
右手の指先を白くし、息を吐いた。
その姿が、小学生の頃と重なった。
初めて公式戦で投げた日、悠真は緊張で泣いた。
「お腹が痛い」と言って、試合前にトイレへ三回行った。
それでもマウンドへ立ち、震えながら投げた。
あの頃より体は大きくなった。
声も低くなった。
家では返事もしなくなった。
でも、マウンドへ向かう時だけは、今も少しだけ不安そうな背中をしている。
五球目。
打者が振る。
金属音が響いた。
打球は一塁側の観客席へ飛び込んだ。
ファウル。
応援席から、安堵とも悲鳴ともつかない声が漏れる。
六球目もファウル。
七球目も、三塁側へ切れた。
打者は粘る。
悠真も降りない。
一球ごとに、球場全体が息を止め、吐き、また止める。
八球目。
低めへ落ちた球を、打者が見送った。
「ボール!」
フルカウント。
次が外れれば四球。
二死ではない。
満塁になれば、押し出しもある。
私は手を合わせた。
何を祈ればいいのか分からない。
打たれませんように。
入りますように。
弟の腕が壊れませんように。
お願いだから、早く終わって。
でも、高校最後の夏を終わらせないで。
矛盾した願いばかりが、胸の中でぶつかった。
悠真が振りかぶる。
その時、私は約束を忘れた。
「悠ちゃん、腕振って!」
球場中へ響くほど大きな声ではなかった。
それでも、私には自分の声だけが、はっきり聞こえた。
白球が、悠真の指先から離れる。
打者が踏み込む。
バットが空を切った。
遅れて、捕手のミットが鳴る。
「ストライク! バッターアウト!」
二死。
三塁走者は動けなかった。
次の打者を二塁ゴロに打ち取り、九回表が終わる。
悠真がベンチへ戻る途中、一度だけこちらを見上げた。
絶対に聞こえていた。
顔が怒っていた。
九回裏。
青葉高校の先頭打者が四球で出塁した。
送りバントで一死二塁。
次の打者が放った打球は、遊撃手の正面だった。
二死二塁。
打席には、六番打者。
初球を見送る。
二球目を空振り。
三球目はボール。
四球目。
打球が高く上がった。
一瞬、全員が外野フライだと思った。
ところが、風に押し戻された白球は、左翼手と遊撃手の間へ落ちた。
二塁走者が三塁を回る。
左翼手がボールを拾う。
本塁へ投げる。
走者が滑り込む。
砂煙。
捕手のタッチ。
審判の両腕が、横へ大きく広がった。
「セーフ!」
球場が爆発した。
誰かのメガホンが飛び、誰かの帽子も飛んだ。
母が泣きながら私の肩をたたく。
吹奏楽部の音も、応援団の声も、何も聞き分けられなかった。
ただ、仲間と抱き合う悠真の姿だけは見えた。
青葉高校、甲子園出場。
閉会式が終わり、選手たちが球場の外へ出てきた。
悠真は首へタオルをかけ、疲れ切った顔をしていた。
私を見つけると、真っすぐこちらへ来る。
「叫ぶなって言ったよな」
「学校名で応援してたよ」
「九回だけ、思い切り悠ちゃんって言っただろ」
「聞こえたの?」
「あの場面で、腕振ってって指示まで出す姉ちゃんは一人しかいない」
「役に立ったでしょ?」
「ベンチからも同じこと言われてた」
母が横から言う。
「でも、三振取れたじゃない」
「結果論だから」
そう言いながら、悠真は少し笑っていた。
私は鞄から、名前入りのメガホンを取り出した。
『悠真、甲子園へ連れていけ』
弟の顔が引きつる。
「そんなの持ってたの?」
「九回まで隠してた」
「甲子園には持ってくるなよ」
「もう裏側に書いてあるよ」
メガホンを裏返す。
母が大きな字で書いていた。
『悠真、全国制覇へ連れていけ』
「お母さん!」
悠真の声が、球場の外まで響いた。
試合中よりも、よく通る声だった。
高校最後の夏は、まだ終わらない。
そして私の応援も、たぶん普通には終わらない。
県大会決勝の朝、弟の悠真はそれだけ言って家を出た。
「応援に来るな、じゃないんだ?」
私が聞くと、玄関でスパイクケースを持ったまま振り返る。
「来てもいいけど、普通に応援して」
「普通って?」
「学校名を言うとか、頑張れとか」
「悠ちゃん頑張れー、は?」
「それをやめろって言ってる」
二十四歳の姉が、高校三年生の弟を人前で悠ちゃんと呼ぶのは、かなり恥ずかしいらしい。
私は了承した。
少なくとも、その時は守るつもりだった。
球場へ着いたのは、試合開始の一時間前だった。
真夏のスタンドは、座っただけで太ももが焼けそうに熱い。母から渡された応援用のメガホンには、油性ペンで大きく『悠真、甲子園へ連れていけ』と書かれていた。
「お母さん、これも名前が入ってるけど」
「書いちゃったものは仕方ないでしょ」
「本人に見つかったら怒られるよ」
「九回まで隠しておけばいいのよ」
最初から出すつもりだった。
悠真は、県立青葉高校のエースだった。
入学した頃は控え投手で、二年生の秋から背番号一をつけた。速い球を投げるわけでも、背が高いわけでもない。
ただ、崩れそうで崩れない。
雨の日も、寒い日も、家の前でタオルを握って投球フォームを確認していた。
近所の人からは、何度も「洗濯物を投げる練習?」と聞かれていた。
本人は真剣だった。
私はその横を、コンビニのアイスを食べながら通り過ぎていた。
試合が始まった。
相手は、何度も甲子園へ出場している強豪校。
青葉高校の応援席だけでなく、球場全体が相手の勝利を予想しているように見えた。
一回表。
悠真が先頭打者へ、いきなり四球を出した。
「ちょっと!」
私が立ち上がると、母に腕を引かれた。
「まだ始まったばかり」
「でも、いきなり歩かせたよ」
「そういう作戦かもしれないでしょ」
「絶対違うと思う」
次の打者が送りバントを決める。
一死二塁。
三番打者の鋭い打球を、二塁手が横っ飛びで止めた。悠真が一塁のカバーへ走り、ぎりぎりでアウトを取る。
応援席から大きな拍手が起きた。
悠真は何事もなかったように、帽子のつばへ触れた。
私はようやく息を吐いた。
「お母さん」
「なに?」
「野球って、こんなに心臓に悪かった?」
「昔からよ。あんたが外野でお菓子を食べてただけ」
小学生の頃から、弟の試合には何度も連れていかれた。
正直、退屈だった。
ボールが飛んでこない時間のほうが長いし、同じような白い服を着た人が大勢いて、どれが弟なのか分からない。
でも今日は、マウンドに立つ背番号一から目を離せなかった。
三回まで、両チーム無得点。
四回表。
相手の四番打者に、左中間を破る二塁打を打たれた。
続く打者の犠牲フライで、一点を先制される。
球場の向こう側から、地響きのような歓声が上がった。
悠真はマウンドで下を向いた。
私はメガホンを握る。
名前を叫びそうになり、慌てて飲み込んだ。
「青葉、頑張れー!」
学校名にしては、ずいぶん個人的な声になった。
悠真が一瞬だけ、こちらを見た気がした。
六回裏。
青葉高校が二死二塁の好機を作った。
打席には、八番の一年生。
応援団の太鼓が響く。
吹奏楽部の演奏が繰り返され、スタンド全体が同じリズムで揺れていた。
打球は、ふらふらと右翼の前へ落ちた。
二塁走者が三塁を回る。
送球が本塁へ返ってくる。
走者が滑り込んだ。
「セーフ!」
審判の両手が横へ広がった瞬間、私は母と抱き合っていた。
会場で会った友達にも、それほど強く抱きついたことはない。
「同点! 同点だよ!」
「見てたから分かる!」
七回。
八回。
得点は動かなかった。
気温は少し下がったはずなのに、制服姿の応援団も、吹奏楽部も、観客も、全員の顔が汗で光っていた。
九回表。
悠真が再びマウンドへ上がる。
球数は百二十球を超えている。
先頭打者を内野ゴロ。
次の打者には、粘られた末に四球。
一死一塁。
三番打者が右前へ運び、一塁走者が三塁まで進んだ。
一死一、三塁。
スタンドから声が消えた。
次は、四回に二塁打を打った四番打者だった。
監督がマウンドへ向かう。
内野手も集まる。
悠真は何度も頷いていた。
ここで投手を交代するのだと思った。
けれど、監督は悠真の肩を一度叩き、そのままベンチへ戻った。
「まだ投げるの?」
母は返事をしなかった。
膝の上で握っていた紙のうちわが、完全に折れていた。
初球。
外れて、ボール。
二球目。
空振り。
三球目は低く外れた。
ツーボール、ワンストライク。
スクイズを警戒しているのか、三塁走者が何度も飛び出す。捕手が立ち上がるたび、こちらの心臓まで引っ張られる。
四球目。
ファウル。
ツーボール、ツーストライク。
悠真がロージンバッグへ手を伸ばす。
右手の指先を白くし、息を吐いた。
その姿が、小学生の頃と重なった。
初めて公式戦で投げた日、悠真は緊張で泣いた。
「お腹が痛い」と言って、試合前にトイレへ三回行った。
それでもマウンドへ立ち、震えながら投げた。
あの頃より体は大きくなった。
声も低くなった。
家では返事もしなくなった。
でも、マウンドへ向かう時だけは、今も少しだけ不安そうな背中をしている。
五球目。
打者が振る。
金属音が響いた。
打球は一塁側の観客席へ飛び込んだ。
ファウル。
応援席から、安堵とも悲鳴ともつかない声が漏れる。
六球目もファウル。
七球目も、三塁側へ切れた。
打者は粘る。
悠真も降りない。
一球ごとに、球場全体が息を止め、吐き、また止める。
八球目。
低めへ落ちた球を、打者が見送った。
「ボール!」
フルカウント。
次が外れれば四球。
二死ではない。
満塁になれば、押し出しもある。
私は手を合わせた。
何を祈ればいいのか分からない。
打たれませんように。
入りますように。
弟の腕が壊れませんように。
お願いだから、早く終わって。
でも、高校最後の夏を終わらせないで。
矛盾した願いばかりが、胸の中でぶつかった。
悠真が振りかぶる。
その時、私は約束を忘れた。
「悠ちゃん、腕振って!」
球場中へ響くほど大きな声ではなかった。
それでも、私には自分の声だけが、はっきり聞こえた。
白球が、悠真の指先から離れる。
打者が踏み込む。
バットが空を切った。
遅れて、捕手のミットが鳴る。
「ストライク! バッターアウト!」
二死。
三塁走者は動けなかった。
次の打者を二塁ゴロに打ち取り、九回表が終わる。
悠真がベンチへ戻る途中、一度だけこちらを見上げた。
絶対に聞こえていた。
顔が怒っていた。
九回裏。
青葉高校の先頭打者が四球で出塁した。
送りバントで一死二塁。
次の打者が放った打球は、遊撃手の正面だった。
二死二塁。
打席には、六番打者。
初球を見送る。
二球目を空振り。
三球目はボール。
四球目。
打球が高く上がった。
一瞬、全員が外野フライだと思った。
ところが、風に押し戻された白球は、左翼手と遊撃手の間へ落ちた。
二塁走者が三塁を回る。
左翼手がボールを拾う。
本塁へ投げる。
走者が滑り込む。
砂煙。
捕手のタッチ。
審判の両腕が、横へ大きく広がった。
「セーフ!」
球場が爆発した。
誰かのメガホンが飛び、誰かの帽子も飛んだ。
母が泣きながら私の肩をたたく。
吹奏楽部の音も、応援団の声も、何も聞き分けられなかった。
ただ、仲間と抱き合う悠真の姿だけは見えた。
青葉高校、甲子園出場。
閉会式が終わり、選手たちが球場の外へ出てきた。
悠真は首へタオルをかけ、疲れ切った顔をしていた。
私を見つけると、真っすぐこちらへ来る。
「叫ぶなって言ったよな」
「学校名で応援してたよ」
「九回だけ、思い切り悠ちゃんって言っただろ」
「聞こえたの?」
「あの場面で、腕振ってって指示まで出す姉ちゃんは一人しかいない」
「役に立ったでしょ?」
「ベンチからも同じこと言われてた」
母が横から言う。
「でも、三振取れたじゃない」
「結果論だから」
そう言いながら、悠真は少し笑っていた。
私は鞄から、名前入りのメガホンを取り出した。
『悠真、甲子園へ連れていけ』
弟の顔が引きつる。
「そんなの持ってたの?」
「九回まで隠してた」
「甲子園には持ってくるなよ」
「もう裏側に書いてあるよ」
メガホンを裏返す。
母が大きな字で書いていた。
『悠真、全国制覇へ連れていけ』
「お母さん!」
悠真の声が、球場の外まで響いた。
試合中よりも、よく通る声だった。
高校最後の夏は、まだ終わらない。
そして私の応援も、たぶん普通には終わらない。