外国で、私はスーツケースになった
海外一人旅なんて、準備さえしておけば何とかなる。
二十六歳の佐伯美緒は、本気でそう思っていた。
出発の三か月前から旅行サイトを読み込み、空港からホテルまでの交通手段を調べ、現地で使いそうな言葉をスマートフォンへ登録した。持ち物一覧は四十七項目。服装も一日ごとに袋へ分け、雨の日用の予定まで作ってある。
同行する友人はいない。
初めての一人旅だったが、不安より楽しみのほうが大きかった。
少なくとも、空港の手荷物受取所でベルトコンベアが止まるまでは。
「私のスーツケース、出てきてない……」
周囲の乗客は、それぞれ荷物を持って立ち去っていく。
美緒の紺色のスーツケースだけがない。空港職員へ相談しようにも、練習してきた言葉が緊張で一つも出てこなかった。
そこで翻訳アプリを起動する。
『私のスーツケースが見つかりません』
画面へ表示された現地の言葉を、職員へ見せた。
職員は文章を読み、美緒を見た。それから、困ったように首を傾げる。
「あなたが……スーツケース?」
「え?」
職員が片言の英語で、もう一度確認する。
「あなた、見つからないスーツケース?」
どうやら翻訳アプリは、美緒の訴えを『私は行方不明のスーツケースです』と訳したらしい。
「違います! 私は人間です!」
慌てて日本語で答えると、アプリが再び働いた。
職員の画面には、今度は『私は今のところ人間です』と表示された。
「今のところ……?」
「そこ疑わないで!」
十分後。
身振り手振りと、予約番号と、スーツケースの写真を駆使し、どうにか状況は伝わった。
荷物は別の飛行機へ載せられた可能性があり、見つかればホテルへ届けてくれるらしい。
美緒は手荷物だけを抱え、空港を出た。
まだ大丈夫。
化粧品も着替えもないが、ホテルへ着けば何とかなる。
予定表には、空港から市内行きのバス番号も書いてある。
十五番。
美緒は停留所へ来た十五番のバスへ乗った。
それが逆方向だと気づいたのは、一時間後だった。
窓の外からビルが消え、住宅が消え、ついにはヤギが現れた。
「都市部へ向かう途中に、ヤギは出ないよね……」
車内には美緒を含めて三人しかいない。
運転手へホテルの住所を見せると、彼は目を丸くした。それから、来た道を指さして大きく首を振る。
どうやら完全に反対方向らしい。
バスは海沿いの小さな村で終点を迎えた。
次の市内行きは三時間後。
時刻は午後五時。
スマートフォンの充電は、残り四パーセントだった。
完璧だったはずの旅行計画は、入国から三時間でヤギに負けた。
美緒は停留所の前にある小さなパン屋へ入った。
店内には焼きたてのパンの匂いが漂い、カウンターの向こうには、白髪を布でまとめた女性が立っていた。
「ホテルへ戻りたいんです」
翻訳アプリへ入力し、最後の力を振り絞ってもらう。
女性は画面を読み、声を上げて笑った。
表示された日本語を確認すると、こうなっていた。
『私はホテルになりたいです』
「違う。建物への転職希望じゃないの」
美緒が頭を抱えると、女性はますます笑った。
言葉は通じない。
それでも、美緒が空港、バス、ホテルの写真を順番に見せると、女性はおおよその事情を理解したらしい。
店の奥から椅子を出し、座るように促した。
さらに、温かいスープと丸いパンが運ばれてくる。
美緒が財布を出すと、女性は首を横に振った。
「でも……」
もう一度財布を見せる。
女性は美緒の手から財布を取り上げ、そのまま鞄へ戻した。
かなり強引な親切だった。
「ありがとう」
美緒が頭を下げると、女性も頭を下げた。
美緒がもう一度下げる。
女性も、さらに深く下げる。
なぜか、お辞儀の深さを競う展開になった。
最後は二人ともカウンターへ額をぶつけそうになり、同時に笑った。
スープを飲み終える頃、外がにぎやかになってきた。
通りには色とりどりの布が張られ、子どもたちが紙飾りを運んでいる。広場では楽器を持った人々が集まり、長いテーブルへ料理が並べられていた。
今夜は村の祭りらしい。
パン屋の女性は美緒の手を引き、広場へ連れていった。
「いや、私はバスを待って……」
時計を見る。
次のバスまで、まだ二時間以上ある。
女性は美緒へ色紙を渡した。正確には色紙ではなく、使い終わった広告や商品の包装紙だった。
近くにいた子どもたちが、期待した目で見つめてくる。
どうやら、紙で何か作ってほしいらしい。
「日本人なら全員、折り紙が得意だと思ってない?」
美緒が作れるのは、鶴と紙風船だけだった。
とりあえず鶴を折ってみる。
子どもたちが歓声を上げた。
一羽。
二羽。
三羽。
すぐに広場のあちこちから人が集まり、美緒の周囲には即席の折り紙教室ができた。
鶴の翼が三枚ある子。
首が二本ある子。
途中からカエルになった子。
正しく完成したものは少なかったが、誰も気にしていない。
色とりどりの奇妙な鳥たちは、紐へつながれ、広場の上へ飾られた。
やがて音楽が始まった。
パン屋の女性が、美緒の手を取って輪の中へ引っ張る。
「踊れない!」
もちろん伝わらない。
周囲の人の動きを真似てみたが、全員が右へ進むところで、美緒だけ左へ進んだ。
正面から来た立派なひげの男性とぶつかる。
男性は村長らしく、周囲の人々が一斉に静かになった。
美緒は反射的に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
村長も頭を下げる。
美緒がさらに深く下げる。
村長も負けじと深く下げる。
また、お辞儀の競争が始まった。
三往復目で、広場中から笑い声が上がった。
その後、美緒は踊りの輪へ戻された。
動きは最後まで覚えられなかったが、間違えるたびに周囲の人が笑ってくれた。
笑われているのではなく、一緒に笑っている。
それだけは、言葉がなくても分かった。
午後九時。
最終バスの運転手は、パン屋の女性の息子だった。
美緒は広場中の人に見送られ、バスへ乗った。
パン屋の女性からは、紙袋いっぱいのパンを持たされた。子どもたちからは、翼が三枚ある鶴をもらった。
ホテルへ着くと、紺色のスーツケースがフロントに置かれていた。
「おかえりなさいませ。空港から届きました」
美緒はスーツケースを見つめた。
中には、日ごとに分けた服。
観光地の資料。
予備の化粧品。
予定どおりに旅をするための道具が、きれいに収まっている。
けれど、その日の美緒は、空港で買ったTシャツを着て、髪は潮風で乱れ、知らない村でもらったパンと、形の崩れた紙の鶴を抱えていた。
予定表には何一つ書かれていない格好だった。
翌朝。
美緒は予約していた美術館をキャンセルした。
十五番のバスへ乗り、今度は方向をしっかり確認して、昨日の村へ向かった。
パン屋の扉を開けると、女性が驚いた顔をする。
美緒はスーツケースから持ってきた日本のお菓子を差し出した。
「昨日のお礼」
女性は意味を理解すると、美緒を強く抱きしめた。
店の壁には、昨夜の写真が貼られていた。
村長と向かい合い、二人で深々と頭を下げている美緒。
その後ろでは、子どもたちが腹を抱えて笑っている。
旅から帰国した後、美緒は友人たちに何度も聞かれた。
「海外一人旅、どうだった?」
そのたび、少し考えてから答えた。
「入国してすぐスーツケースになって、バスを間違えて、ホテルになろうとして、最後は村長とお辞儀で戦った」
誰も信じてくれなかった。
一か月後。
あの村の子どもから、翻訳アプリを使ったメッセージが届いた。
『また来てください。村のみんなで待っています』
その下に、もう一文あった。
『次は、あなたを産んだスーツケースも連れてきてください』
美緒は声を上げて笑った。
翻訳アプリは、あの日から一つも成長していなかった。
けれど、美緒はその間違いを直さずに返信した。
『分かりました。母なるスーツケースと相談します』
完璧な旅ではなかった。
だからこそ、忘れられない旅になった。
二十六歳の佐伯美緒は、本気でそう思っていた。
出発の三か月前から旅行サイトを読み込み、空港からホテルまでの交通手段を調べ、現地で使いそうな言葉をスマートフォンへ登録した。持ち物一覧は四十七項目。服装も一日ごとに袋へ分け、雨の日用の予定まで作ってある。
同行する友人はいない。
初めての一人旅だったが、不安より楽しみのほうが大きかった。
少なくとも、空港の手荷物受取所でベルトコンベアが止まるまでは。
「私のスーツケース、出てきてない……」
周囲の乗客は、それぞれ荷物を持って立ち去っていく。
美緒の紺色のスーツケースだけがない。空港職員へ相談しようにも、練習してきた言葉が緊張で一つも出てこなかった。
そこで翻訳アプリを起動する。
『私のスーツケースが見つかりません』
画面へ表示された現地の言葉を、職員へ見せた。
職員は文章を読み、美緒を見た。それから、困ったように首を傾げる。
「あなたが……スーツケース?」
「え?」
職員が片言の英語で、もう一度確認する。
「あなた、見つからないスーツケース?」
どうやら翻訳アプリは、美緒の訴えを『私は行方不明のスーツケースです』と訳したらしい。
「違います! 私は人間です!」
慌てて日本語で答えると、アプリが再び働いた。
職員の画面には、今度は『私は今のところ人間です』と表示された。
「今のところ……?」
「そこ疑わないで!」
十分後。
身振り手振りと、予約番号と、スーツケースの写真を駆使し、どうにか状況は伝わった。
荷物は別の飛行機へ載せられた可能性があり、見つかればホテルへ届けてくれるらしい。
美緒は手荷物だけを抱え、空港を出た。
まだ大丈夫。
化粧品も着替えもないが、ホテルへ着けば何とかなる。
予定表には、空港から市内行きのバス番号も書いてある。
十五番。
美緒は停留所へ来た十五番のバスへ乗った。
それが逆方向だと気づいたのは、一時間後だった。
窓の外からビルが消え、住宅が消え、ついにはヤギが現れた。
「都市部へ向かう途中に、ヤギは出ないよね……」
車内には美緒を含めて三人しかいない。
運転手へホテルの住所を見せると、彼は目を丸くした。それから、来た道を指さして大きく首を振る。
どうやら完全に反対方向らしい。
バスは海沿いの小さな村で終点を迎えた。
次の市内行きは三時間後。
時刻は午後五時。
スマートフォンの充電は、残り四パーセントだった。
完璧だったはずの旅行計画は、入国から三時間でヤギに負けた。
美緒は停留所の前にある小さなパン屋へ入った。
店内には焼きたてのパンの匂いが漂い、カウンターの向こうには、白髪を布でまとめた女性が立っていた。
「ホテルへ戻りたいんです」
翻訳アプリへ入力し、最後の力を振り絞ってもらう。
女性は画面を読み、声を上げて笑った。
表示された日本語を確認すると、こうなっていた。
『私はホテルになりたいです』
「違う。建物への転職希望じゃないの」
美緒が頭を抱えると、女性はますます笑った。
言葉は通じない。
それでも、美緒が空港、バス、ホテルの写真を順番に見せると、女性はおおよその事情を理解したらしい。
店の奥から椅子を出し、座るように促した。
さらに、温かいスープと丸いパンが運ばれてくる。
美緒が財布を出すと、女性は首を横に振った。
「でも……」
もう一度財布を見せる。
女性は美緒の手から財布を取り上げ、そのまま鞄へ戻した。
かなり強引な親切だった。
「ありがとう」
美緒が頭を下げると、女性も頭を下げた。
美緒がもう一度下げる。
女性も、さらに深く下げる。
なぜか、お辞儀の深さを競う展開になった。
最後は二人ともカウンターへ額をぶつけそうになり、同時に笑った。
スープを飲み終える頃、外がにぎやかになってきた。
通りには色とりどりの布が張られ、子どもたちが紙飾りを運んでいる。広場では楽器を持った人々が集まり、長いテーブルへ料理が並べられていた。
今夜は村の祭りらしい。
パン屋の女性は美緒の手を引き、広場へ連れていった。
「いや、私はバスを待って……」
時計を見る。
次のバスまで、まだ二時間以上ある。
女性は美緒へ色紙を渡した。正確には色紙ではなく、使い終わった広告や商品の包装紙だった。
近くにいた子どもたちが、期待した目で見つめてくる。
どうやら、紙で何か作ってほしいらしい。
「日本人なら全員、折り紙が得意だと思ってない?」
美緒が作れるのは、鶴と紙風船だけだった。
とりあえず鶴を折ってみる。
子どもたちが歓声を上げた。
一羽。
二羽。
三羽。
すぐに広場のあちこちから人が集まり、美緒の周囲には即席の折り紙教室ができた。
鶴の翼が三枚ある子。
首が二本ある子。
途中からカエルになった子。
正しく完成したものは少なかったが、誰も気にしていない。
色とりどりの奇妙な鳥たちは、紐へつながれ、広場の上へ飾られた。
やがて音楽が始まった。
パン屋の女性が、美緒の手を取って輪の中へ引っ張る。
「踊れない!」
もちろん伝わらない。
周囲の人の動きを真似てみたが、全員が右へ進むところで、美緒だけ左へ進んだ。
正面から来た立派なひげの男性とぶつかる。
男性は村長らしく、周囲の人々が一斉に静かになった。
美緒は反射的に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
村長も頭を下げる。
美緒がさらに深く下げる。
村長も負けじと深く下げる。
また、お辞儀の競争が始まった。
三往復目で、広場中から笑い声が上がった。
その後、美緒は踊りの輪へ戻された。
動きは最後まで覚えられなかったが、間違えるたびに周囲の人が笑ってくれた。
笑われているのではなく、一緒に笑っている。
それだけは、言葉がなくても分かった。
午後九時。
最終バスの運転手は、パン屋の女性の息子だった。
美緒は広場中の人に見送られ、バスへ乗った。
パン屋の女性からは、紙袋いっぱいのパンを持たされた。子どもたちからは、翼が三枚ある鶴をもらった。
ホテルへ着くと、紺色のスーツケースがフロントに置かれていた。
「おかえりなさいませ。空港から届きました」
美緒はスーツケースを見つめた。
中には、日ごとに分けた服。
観光地の資料。
予備の化粧品。
予定どおりに旅をするための道具が、きれいに収まっている。
けれど、その日の美緒は、空港で買ったTシャツを着て、髪は潮風で乱れ、知らない村でもらったパンと、形の崩れた紙の鶴を抱えていた。
予定表には何一つ書かれていない格好だった。
翌朝。
美緒は予約していた美術館をキャンセルした。
十五番のバスへ乗り、今度は方向をしっかり確認して、昨日の村へ向かった。
パン屋の扉を開けると、女性が驚いた顔をする。
美緒はスーツケースから持ってきた日本のお菓子を差し出した。
「昨日のお礼」
女性は意味を理解すると、美緒を強く抱きしめた。
店の壁には、昨夜の写真が貼られていた。
村長と向かい合い、二人で深々と頭を下げている美緒。
その後ろでは、子どもたちが腹を抱えて笑っている。
旅から帰国した後、美緒は友人たちに何度も聞かれた。
「海外一人旅、どうだった?」
そのたび、少し考えてから答えた。
「入国してすぐスーツケースになって、バスを間違えて、ホテルになろうとして、最後は村長とお辞儀で戦った」
誰も信じてくれなかった。
一か月後。
あの村の子どもから、翻訳アプリを使ったメッセージが届いた。
『また来てください。村のみんなで待っています』
その下に、もう一文あった。
『次は、あなたを産んだスーツケースも連れてきてください』
美緒は声を上げて笑った。
翻訳アプリは、あの日から一つも成長していなかった。
けれど、美緒はその間違いを直さずに返信した。
『分かりました。母なるスーツケースと相談します』
完璧な旅ではなかった。
だからこそ、忘れられない旅になった。