秋は、まだ半袖の隣にいる

 九月の終わり、朝の天気予報で気象予報士が言った。
「今日は秋らしい空気に包まれるでしょう」
 その言葉を聞いた瞬間、二十六歳の春日井楓は、クローゼットの奥から薄茶色のカーディガンを取り出した。
 ようやく秋が来た。
 長かった。
 あまりにも長かった。
 今年の夏は、九月になっても居座り続けた。朝から蝉が鳴き、駅まで歩くだけで汗をかき、コンビニの冷房へ入るたびに命を救われていた。
 だが、今日からは違う。
 最高気温、二十五度。
 湿度も低い。
 楓はカーディガンに袖を通し、チェック柄のロングスカートをはいた。さらに、夏の間ずっと箱の中で出番を待っていた革のショートブーツも取り出す。
 鏡の前に立つ。
「秋の人だ」
 満足だった。
 あとは温かい飲み物を持てば完璧である。
 駅前のカフェに入り、楓は胸を張って注文した。
「ホットラテで」
 店員が一瞬だけ、後ろのメニューを確認した。
「本当にホットでよろしいですか?」
「はい。秋なので」
 店員は窓の外を見た。
 朝日がまぶしく輝き、通勤中の人々はほとんど半袖だった。
「かしこまりました」
 少しだけ心配そうな顔をされたが、楓は気にしなかった。
 カップから立ち上る湯気。
 革のブーツが鳴らす足音。
 風に揺れるロングスカート。
 すべてが秋だった。
 駅までの最初の三分間は。
 五分後。
 楓の額には汗が浮かんでいた。
 カーディガンの内側へ熱がこもる。
 ホットラテを持つ右手まで熱い。
 ブーツの中も蒸れ始めた。
「二十五度って、こんなに暑かったっけ……」
 日陰へ入れば涼しい。
 しかし、日なたへ出た途端、夏が全力で殴りかかってくる。
 駅のホームへ着く頃には、楓はカーディガンを脱ぎ、腕へ掛けていた。
 ホットラテは半分以上残っている。
 もう飲みたくない。
 隣では、半袖姿の小学生が冷たいジュースを飲んでいた。
 少年が楓のカップを見る。
 楓も少年のジュースを見る。
 二人の視線が交差した。
 完全に負けていた。
 会社へ着くと、同僚の真由が楓の足元を見た。
「もうブーツ?」
「今日から秋だから」
「天気予報では、昼間は少し暑くなるって言ってたよ」
「そこは聞いてない」
「都合のいい部分だけ秋を採用したんだね」
 楓は自分の席へ座り、カーディガンを椅子の背もたれへ掛けた。
 しかし、午前十時を過ぎると、社内の冷房が効き始めた。
 少し寒い。
 楓は再びカーディガンを着た。
「ほら、秋」
 真由が言う。
「それは冷房」
「秋は人間が作れる」
「ずいぶん人工的な季節だな」
 昼休み。
 二人は近くの公園へ弁当を食べに行った。
 空は高く、雲は夏よりずっと薄い。木陰へ入ると、朝よりも涼しい風が吹いていた。
 楓はベンチへ座り、コンビニで買った弁当を広げる。
 真由が袋から冷たいそばを取り出した。
 一方、楓が買ってきたのは、きのこ炊き込みご飯弁当だった。
「徹底してるね」
「食欲から秋を呼ぶ作戦」
「朝は服装から呼んで負けてたけど」
「昼は勝てる」
 蓋を開ける。
 きのこの香りが広がった。
 その瞬間、近くの木から蝉が鳴いた。
 ミーン、ミーン、ミーン。
 楓は箸を止めた。
「空気を読んでほしい」
「蝉にも事情があるんだよ」
「もう九月末だよ」
「最後まで働く立派な蝉じゃん」
 蝉は、今年最後の仕事を仕上げるように力強く鳴いている。
 その一方で、草むらからは小さな虫の声も聞こえていた。
 夏と秋が、同じ公園で別々の音を出している。
「季節の引き継ぎ中だね」
 真由が言った。
「引き継ぎが遅い」
「夏担当が資料をまとめてないんじゃない?」
「絶対そう。毎年、残業してるもん」
 二人で笑った。
 午後になると、気温は二十八度まで上がった。
 楓はカーディガンを鞄へしまい、ブーツを脱ぎたい気持ちと戦いながら仕事を続けた。
 定時になり、会社を出る。
 外へ出た瞬間、朝とは違う風が頬を撫でた。
 冷たいわけではない。
 それでも、夏の風とは少し違った。
 肌へまとわりつかず、そのまま通り過ぎていく。
 空はすでに薄暗い。
 つい少し前まで、同じ時間でもまだ明るかったはずだった。
「日が短くなったな」
 楓は独り言を漏らした。
 駅へ向かう途中、どこからか甘い香りがした。
 足を止める。
 道路脇の家に、小さな橙色の花が咲いている。
 金木犀だった。
「秋だ」
 今度は、誰へ言うでもなく呟いた。
 天気予報でもない。
 秋服でもない。
 新商品でもない。
 カレンダーを見なくても分かる、季節の匂いだった。
 その先のコンビニには、おでんの旗が立っていた。
 入口には、栗、さつまいも、かぼちゃ味のお菓子が並んでいる。
 楓は少し迷い、焼き芋を一本買った。
 店を出ると、紙袋越しに温かさが伝わってくる。
 朝のホットラテはあれほどつらかったのに、夕方の焼き芋はちょうどよかった。
 近くの小さな広場へ寄り、ベンチへ座る。
 焼き芋を半分に割ると、中から湯気が立ち上った。
 一口食べる。
 甘い。
 空には細い月が浮かび、草むらでは虫が鳴いている。
 少し離れた道路を、半袖姿の学生たちが歩いていた。
 楓もカーディガンは着ていない。
 足元だけは、まだ意地でブーツだった。
 夏は完全には終わっていない。
 秋も、まだ町全体へ届いてはいない。
 それでも、夕方の風や、日暮れの早さや、金木犀の香りの中に、次の季節は確かに混ざり始めていた。
「秋って、いきなり来るわけじゃないんだな」
 季節は、玄関のチャイムを鳴らして現れるものではない。
 昨日まで聞こえなかった虫の声。
 冷たい飲み物を選ばなかった夜。
 もう一枚、布団を出そうか迷う時間。
 そんな小さな変化を、一つずつ町へ置いていく。
 気づいた人から、秋になるのだ。
 翌朝。
 楓は目を覚まし、窓を開けた。
 涼しい。
 昨日より、はっきり秋らしい空気だった。
 天気予報を確認する。
 気象予報士が笑顔で言った。
「今日は再び気温が上がり、最高気温は三十二度となるでしょう」
 楓は無言で、用意していたカーディガンをクローゼットへ戻した。
 ショートブーツも箱へ戻す。
 代わりに半袖のシャツとサンダルを取り出した。
「秋、帰った?」
 窓の外では、季節外れの蝉が一匹だけ鳴いている。
 しかし、ベランダの隅には、風に運ばれてきた黄色い葉が一枚落ちていた。
 楓はそれを拾い、小さく笑った。
 秋は帰ったわけではない。
 まだ夏の隣で、出番を待っているだけだ。
 たぶん明日も。
 あるいは来週も。
 季節は予定どおりには進まない。
 それでも少しずつ、夏の町から熱を受け取り、秋の色へ塗り替えていく。
 楓はサンダルを履き、玄関を出た。
 鞄の中には、念のため薄いカーディガンを入れてある。
 秋の訪れとは、きっとこういうものだ。
 まだ必要ないかもしれない一枚を、そっと持ち歩き始めることなのだ。

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