台風の日の紅葉狩り

 午前八時、旅館の玄関から、月見団子の看板が飛んでいった。
 「追わないで!」
 駆け出しかけた榛名こよみの襟を、女将が後ろからつかんだ。
 看板は石畳を滑り、くるりと一回転して、向かいの土産物店のシャッターへ張りついた。白い団子の絵だけが、こちらを恨めしそうに見ている。
 「まだ風、弱いですよ」
 「弱い風に負けた看板を、強い風の中で助ける気?」
 「見捨てるのも寝覚めが悪くて」
 「団子は夢に出ないから大丈夫」
 山あいの温泉旅館「楓月庵」では、その日、十五夜と紅葉の始まりを祝う催しを開く予定だった。
 夕方から庭園をライトアップし、宿泊客には縁側で月見団子を振る舞う。庭の楓はまだ半分ほどしか色づいていなかったが、早い木は葉の先を赤く染めていた。
 問題は、台風が来ることだった。
 予報では、昼過ぎから風雨が強まり、夜には最接近する。
 前日まで二十五度あった気温も、朝には十八度まで落ちていた。こよみは薄いブラウスの上から深緑色のカーディガンを羽織り、肩までのくせ毛を後ろで一つにまとめていた。
 二十三歳。楓月庵で働き始めて半年になる。
 本日の担当は《お月見催事補助》だったが、午前九時には催事そのものが中止になった。
 「庭園は立ち入り禁止。露天風呂も午後から閉鎖。お客様には館内で過ごしていただきます」
 女将が従業員を集めて告げた。
 予約は満室だった。
 紅葉写真を撮りに来た夫婦、大学の天文部、還暦祝いの家族、俳句同好会の八人組。月と庭を目当てに訪れた客ばかりである。
 女将は、こよみの肩に手を置いた。
 「退屈させない催し、何か考えて」
 「今からですか?」
 「今だからよ」
 「台風より無理難題が先に上陸しましたね」
 「うまいこと言った顔をしても、仕事は減らないよ」
 午前十時半、こよみは宴会場の畳に座り、色紙を楓の形に切っていた。
 館内で紅葉狩りをすればいい。
 自分でも乱暴な結論だと思ったが、ほかに案がなかった。
 赤、黄、橙の紙で葉を百枚作り、裏側に旅館や土地に関する問題を書く。それを館内各所へ隠し、見つけた数を競ってもらう。
 優勝賞品は、売店に余っている栗ようかんだった。
 「余っているんじゃなくて、販売中です」
 売店係の藤井が訂正した。
 「宣伝にもなるから」
 「ただで配ったら、売れなくなるんじゃない?」
 「味を知れば明日買います」
 「明日まで台風で帰れなかったら?」
 「二本買います」
 こよみが言い切ると、藤井は渋々、栗ようかんを一本だけ提供した。
 午後一時、館内紅葉狩りが始まった。
 こよみはロビーに集まった宿泊客へ、手作りの紙を掲げた。
 《楓月庵・秋の館内紅葉狩り》
 「本物の紅葉は、強風のため見に行けません。代わりに、この旅館の中へ百枚の紅葉を隠しました」
 小学三年生の男の子が手を挙げた。
 「偽物?」
 「言い方としては正しいですが、今日は『室内用の紅葉』と呼んでください」
 「偽物じゃん」
 「賞品は栗ようかんです」
 「本物?」
 「本物です」
 男の子は急に立ち上がった。
 参加者は三十二人。
 俳句同好会は八人で一組、天文部は学生六人で一組、還暦祝いの家族は祖父を中心にまとまり、写真好きの夫婦は別行動を選んだ。
 こよみが開始を告げると、宿泊客は廊下へ散っていった。
 最初の十分は順調だった。
 傘立ての裏。
 大時計の横。
 卓球台のラケットケース。
 使われていない公衆電話の受話器の下。
 葉を見つけるたび、子どもの声や大人の笑い声が館内に響いた。
 葉の裏には問題が書かれている。
 《楓月庵が開業したのは何年前?》
 《この地域で秋に多く採れるきのこは?》
 《玄関に飾られている動物の木彫りは、熊か狸か?》
 俳句同好会の八人は、問題へ答えるより先に、その場で一句詠み始めた。
 「栗ようかん、欲しくないんですか?」
 こよみが尋ねると、代表の男性が首を振った。
 「勝負より、季節を詠む方が大事です」
 その十分後、同じ男性が植木鉢の裏を必死で探していた。
 午後二時、風が強くなった。
 正面玄関の自動ドアは電源を切り、窓の雨戸も閉めた。外では庭木が大きく揺れ、雨粒が屋根を激しく叩き始めた。
 従業員は客を窓から離れた場所へ案内し、館内放送で外出を控えるよう呼びかけた。
 こよみも、二階の窓辺に隠した紙の葉を回収しようとした。
 ところが、廊下へ一歩出たところで、橙色の楓が足元を横切った。
 続いて赤が二枚、黄色が三枚。
 「何で?」
 非常口近くの小窓が、わずかに開いていた。
 風が隙間から吹き込み、廊下に隠した紙の葉を次々に巻き上げている。
 こよみは慌てて小窓を閉めた。
 しかし、すでに遅かった。
 百枚の室内用紅葉は、旅館中へ飛び散っていた。
 一枚は配膳用の台車へ。
 一枚は俳句同好会の男性の頭へ。
 一枚は浴衣姿の客の背中へ入り、本人が「虫だ!」と廊下を走りかけた。
 「走らないでください! 楓です!」
 「本物か?」
 「紙です!」
 「やっぱり偽物じゃないか!」
 一階では、炊事場まで葉が入り込んだ。
 料理長が炊飯器の蓋を開けると、赤い楓が一枚、炊きたての新米の上に乗っていた。
 「風流にするなら、せめて食べられる葉にしろ」
 「すみません!」
 「これは問題、何て書いてある?」
 料理長が葉を裏返す。
 《料理長が今日の夕食で最も自信を持っている品は?》
 「全部だ」
 料理長は葉をこよみへ返さず、自分の白衣の胸ポケットへ入れた。
 競技は続行された。
 隠した場所ではなく、どこへ飛んだか分からなくなったため、難易度は大幅に上がった。こよみ自身にも正解の場所が分からない。
 天文部の学生は、吹き抜けの照明器具に引っかかった葉を発見した。
 写真好きの夫婦は、非常灯の上に乗った一枚を望遠レンズで見つけた。
 還暦祝いの祖父は座布団に座ったまま、浴衣の袖から三枚出てきた。
 「おじいちゃん、取ったでしょ」と孫が疑った。
 「知らん。紅葉の方から寄ってきた」
 午後三時過ぎ、館内の照明が一度だけ消えた。
 すぐに非常灯がついたものの、子どもたちが息をのんだ。
 こよみはロビーへ皆を集めた。従業員が懐中電灯と電池式のランタンを並べ、女将が設備の確認状況を説明する。
 停電は数分で復旧した。
 ただ、雨風はまだ強い。
 客たちはそのままロビーに残った。ソファや座布団を持ち寄り、厨房から温かいほうじ茶と、予定どおり月見団子が運ばれてきた。
 外の月は見えない。
 庭の紅葉も見えない。
 代わりに、ロビーの柱や照明や宿泊客の髪には、紙の楓があちこちに残っていた。
 「数えますか?」
 こよみが尋ねると、全員がそれぞれ集めた葉を机へ出した。
 天文部、十六枚。
 還暦祝いの家族、十八枚。
 写真好きの夫婦、十九枚。
 俳句同好会、二十三枚。
 「勝負より、季節を詠む方が大事だったんじゃないですか?」
 こよみが言うと、代表の男性は眼鏡を直した。
 「拾わなければ、季節は詠めん」
 俳句同好会が優勝した。
 しかし、栗ようかんを八人で分けるには細すぎたため、結局、女将が売店から五本追加した。参加者全員へ一切れずつ配られた。
 こよみも端の小さな一切れをもらった。
 栗の粒が入ったようかんは甘く、冷えていた手に、ほうじ茶の湯飲みが温かかった。
 翌朝、台風は東へ抜けた。
 雨戸を開けると、澄んだ青空が広がっていた。前日よりもさらに空気は冷たく、山の上には白い雲が細く流れている。
 安全が確認されてから、宿泊客たちは庭へ出た。
 石畳も池の周りも、落ちた葉で埋まっていた。
 赤、黄、橙。
 昨日まで枝についていた本物の楓が、一晩で庭いっぱいに広がっている。
 写真好きの夫婦が、夢中でシャッターを切った。
 天文部の学生は空を見上げ、今夜なら星がきれいだろうと話した。
 俳句同好会の八人は、また庭の隅で一句ずつ考えている。
 小学生の男の子が、こよみのカーディガンの肩を指さした。
 「まだ偽物、ついてるよ」
 見ると、橙色の紙の葉が一枚、毛糸に引っかかっていた。
 裏には問題が書かれている。
 《楓月庵の秋の名物は?》
 こよみは少し考え、紙の余白へ答えを書き加えた。
 《台風の翌朝だけ、庭より先に館内が紅葉すること》
 それを読んだ男の子が笑った。
 「来年もやる?」
 「台風なしなら」
 「風がないと飛ばないよ」
 「来年は自分たちで探してください」
 こよみは紙の楓を胸ポケットへしまった。
 玄関の外では、昨日飛ばされた月見団子の看板が、土産物店の主人に回収されていた。
 白い団子の絵には泥がついていたが、割れてはいない。
 女将が看板を受け取り、こよみを見た。
 「ほら、団子も自力で耐えたよ」
 「夢には出ませんでしたね」
 「代わりに今夜、片づけておいて」
 秋の空は晴れていた。
 けれど、こよみの仕事だけは、台風一過とはいかなかった。

目次

梨は、だいたい重い

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