暖房の鍵は、総務が持っている
十月二十三日の朝、青葉印刷の事務所では、コピー用紙が暖房器具として配られていた。
「刷りたてです。冷める前にどうぞ」
戸田真琴が営業部へ二十枚の見積書を運ぶと、社員たちは書類の内容を見るより先に、両手で紙を挟んだ。
「温かい…」
「指先にちょうどいい」
「契約金額も見てください」
青葉印刷は、駅から十五分ほど歩いた古い雑居ビルの三階にある。南側の窓は隣の建物にふさがれ、秋になると午前中から薄暗い。
今朝の室温は十六・八度。
先週まで二十度を超えていたのに、雨が降るたびに気温が下がり、今朝はコート姿の通勤客まで現れた。歩道の銀杏は、まだ半分ほど緑色なのに、風だけは季節を先へ進めている。
二十六歳の真琴は、総務と経理を兼任していた。肩までの髪を低い位置で結び、白いブラウスの上に薄手の黒いカーディガンを着ている。
そのカーディガンは、今朝から何の役にも立っていなかった。
「戸田さん」
営業部長の飯島が、見積書を腹へ貼りつけたまま声をかけた。
「暖房、入れよう」
「社長の許可が必要です」
「社員の生命が先じゃない?」
「十六・八度で生命の危機を訴えないでください」
「手が冷たくて、取引先へ電話できない」
「口で電話してください」
「今の電話は指を使うんだよ」
飯島はスマートフォンを見せた。確かに指を使う。
真琴は事務所の奥を見た。
壁には業務用エアコンのリモコンが取りつけられている。しかし、その上には透明な箱がかぶせられ、小さな南京錠がかかっていた。
鍵を持っているのは、総務の真琴だけだった。
去年の冬、飯島が設定温度を三十度にした。その五分後、暑がりのデザイナーが窓を全開にした。さらに社長が「電気代がもったいない」とエアコンを切り、営業事務の女性が足元のヒーターを最大にした。
一つの部屋で、真夏と真冬と省エネ運動が同時に始まった。
その反省から、リモコンは施錠された。
午前十時、第一回暖房会議が開かれた。
参加者は社員十三人。議題は《本日、暖房を使用すべきか》。
賛成九人、反対三人、棄権一人。
「多数決なら決まりですね」と飯島が言った。
真琴は議事録へ書き込みながら尋ねた。
「反対の人は?」
デザイナーの瀬尾が手を挙げた。半袖の黒いTシャツを着ている。
「パソコン三台と大型モニターがあるから、俺の席だけ暑い」
「場所を替わってください」
賛成派から声が飛んだ。
「嫌だよ。ここが一番コンセント多いんだから」
二人目の反対は社長だった。
「まだ十月だ。秋は服装で調整するものだよ」
社長はワイシャツの上にダウンベストを着ていた。
「社長が一番調整してますね」と真琴が言った。
「模範を示している」
最後の反対票は、入社一年目の田村だった。
「暖房をつけると眠くなります」
田村は膝へ段ボールを巻いていた。
「それは何?」
「商品の梱包テストを兼ねた防寒具です」
「仕事に見せかけないでください」
会議は結論が出ないまま終了した。
真琴は暫定的に、暖房の使用条件を決めた。
《室温が十六度を下回った場合、暖房を使用する》
「十六・八度だから、あと〇・八度だね」
飯島が温度計を見上げた。
「数字を下げようとしないでください」
「冷蔵庫、開ける?」
「業務妨害で反対票を無効にします」
昼を過ぎても、室温は上がらなかった。
社員たちは、それぞれ勝手な方法で暖を取り始めた。
飯島はコピー機から出てくる紙を必要以上に長く持っていた。田村は段ボールの防寒具へ、気泡緩衝材を追加した。営業事務の森は、温かいマグカップを両手で包み、飲まずに冷めたら給湯室へ戻っていく。
瀬尾だけは半袖のままだったが、午後二時になると、いつの間にか首へタオルを巻いていた。
「寒いんじゃないですか?」
真琴が聞くと、瀬尾はモニターから目を離さなかった。
「肩凝り対策」
「そのタオル、電子レンジで温めましたよね」
「肩凝り対策」
窓の外では細い雨が降り始めた。
午後三時には、室温が十六・二度まで下がった。
あと〇・二度。
社員たちは仕事をしながら、何度も温度計を見る。数字が変わるたびに小さなどよめきが起きた。
三時二十分。
取引先の食品会社から、担当者が来社した。
新商品のスープパッケージについて打ち合わせる予定だった。
真琴は全員へ、段ボールや膝掛けを見えない場所へ片づけるよう指示した。田村は脚へ巻いていた梱包材を外し、机の下へ押し込む。飯島は腹に貼っていた見積書を回収した。
応接スペースへ案内された取引先の女性は、コートを脱がなかった。
「こちら、少し寒いですね」
社長が笑顔で答えた。
「環境への配慮として、空調を控えております」
その直後、社長がくしゃみをした。
「説得力がないですよ」と真琴が小声で言った。
打ち合わせが始まった。
女性が新商品の説明をする。
「寒くなる季節に合わせた、きのこのクリームスープです」
社員たちの視線が、試作品の写真へ集まった。
湯気の立つ白いスープ。焼いたパン。温かそうな木のテーブル。
飯島が、必要以上に深く頷く。
「非常に魅力的です」
「まだ味の説明はしていませんが」
「温度が魅力的です」
真琴は立ち上がった。
「暖房を入れます」
社長が止めるより先に、彼女は南京錠を開けた。リモコンを暖房二十三度に設定し、運転ボタンを押す。
天井のエアコンが低い音を立てた。
全員が期待して吹き出し口を見上げる。
冷たい風が出た。
「冷房じゃない?」
飯島が両腕を抱えた。
「暖房です。表示は」
真琴はリモコンを確認した。画面には確かに太陽の印が出ている。
冷たい風は容赦なく取引先の女性の前髪を揺らした。
「申し訳ありません!」
真琴はすぐに運転を止め、ビルの管理会社へ電話をかけた。
確認の結果、夏の点検後、室外機の暖房用設定が戻されていないことが分かった。作業員が到着するまで四十分かかるという。
打ち合わせは続けられた。
取引先の女性は、持参した段ボール箱を開けた。
「試食用もあります。お湯をいただけますか?」
箱の中には、カップ入りのクリームスープが十二個入っていた。
給湯室の電気ポットが、創業以来初めてと言っていいほど歓迎された。
社員たちは一人一個ずつカップを持ち、応接スペースへ集まった。きのことバターの匂いが部屋に広がる。
「味の感想もお願いします」
女性が言うと、飯島がスプーンを握ったまま答えた。
「今の弊社なら、通常時の三割増しで高評価が出ます」
「参考になるのか、ならないのか分かりませんね」
スープを飲み終えた頃、作業員が到着した。
午後五時十二分。
エアコンから、ようやく温かい風が出た。
誰かが拍手した。
仕事中にもかかわらず、社員たちは吹き出し口の下へ集まった。飯島は両手を広げ、田村は段ボールの防寒具を脱ぎ、瀬尾は何事もなかったようにタオルを外した。
「近い人だけ温まらないでください」
真琴が注意しても、誰も動かない。
取引先の女性はコートを脱ぎながら、その様子をスマートフォンで撮った。
「新商品の社内資料に使っていいですか?」
「何として?」
「需要が生まれる瞬間」
翌朝。
雨は上がり、青空が広がっていた。
朝の気温は昨日より七度高く、日差しの入らない事務所でも、室温は二十二度を超えている。
社長はダウンベストを脱ぎ、うちわで顔をあおいでいた。
「戸田さん、ちょっと暑くない?」
真琴は経費精算の書類から顔を上げた。
「秋は服装で調整するものだそうです」
社長は何も言わず、ワイシャツの袖をまくった。
真琴はリモコンを透明な箱へ戻し、南京錠をかけた。
今度は鍵を、自分のカーディガンのポケットへ入れた。
少なくとも、春までは誰にも渡さないつもりだった。
「刷りたてです。冷める前にどうぞ」
戸田真琴が営業部へ二十枚の見積書を運ぶと、社員たちは書類の内容を見るより先に、両手で紙を挟んだ。
「温かい…」
「指先にちょうどいい」
「契約金額も見てください」
青葉印刷は、駅から十五分ほど歩いた古い雑居ビルの三階にある。南側の窓は隣の建物にふさがれ、秋になると午前中から薄暗い。
今朝の室温は十六・八度。
先週まで二十度を超えていたのに、雨が降るたびに気温が下がり、今朝はコート姿の通勤客まで現れた。歩道の銀杏は、まだ半分ほど緑色なのに、風だけは季節を先へ進めている。
二十六歳の真琴は、総務と経理を兼任していた。肩までの髪を低い位置で結び、白いブラウスの上に薄手の黒いカーディガンを着ている。
そのカーディガンは、今朝から何の役にも立っていなかった。
「戸田さん」
営業部長の飯島が、見積書を腹へ貼りつけたまま声をかけた。
「暖房、入れよう」
「社長の許可が必要です」
「社員の生命が先じゃない?」
「十六・八度で生命の危機を訴えないでください」
「手が冷たくて、取引先へ電話できない」
「口で電話してください」
「今の電話は指を使うんだよ」
飯島はスマートフォンを見せた。確かに指を使う。
真琴は事務所の奥を見た。
壁には業務用エアコンのリモコンが取りつけられている。しかし、その上には透明な箱がかぶせられ、小さな南京錠がかかっていた。
鍵を持っているのは、総務の真琴だけだった。
去年の冬、飯島が設定温度を三十度にした。その五分後、暑がりのデザイナーが窓を全開にした。さらに社長が「電気代がもったいない」とエアコンを切り、営業事務の女性が足元のヒーターを最大にした。
一つの部屋で、真夏と真冬と省エネ運動が同時に始まった。
その反省から、リモコンは施錠された。
午前十時、第一回暖房会議が開かれた。
参加者は社員十三人。議題は《本日、暖房を使用すべきか》。
賛成九人、反対三人、棄権一人。
「多数決なら決まりですね」と飯島が言った。
真琴は議事録へ書き込みながら尋ねた。
「反対の人は?」
デザイナーの瀬尾が手を挙げた。半袖の黒いTシャツを着ている。
「パソコン三台と大型モニターがあるから、俺の席だけ暑い」
「場所を替わってください」
賛成派から声が飛んだ。
「嫌だよ。ここが一番コンセント多いんだから」
二人目の反対は社長だった。
「まだ十月だ。秋は服装で調整するものだよ」
社長はワイシャツの上にダウンベストを着ていた。
「社長が一番調整してますね」と真琴が言った。
「模範を示している」
最後の反対票は、入社一年目の田村だった。
「暖房をつけると眠くなります」
田村は膝へ段ボールを巻いていた。
「それは何?」
「商品の梱包テストを兼ねた防寒具です」
「仕事に見せかけないでください」
会議は結論が出ないまま終了した。
真琴は暫定的に、暖房の使用条件を決めた。
《室温が十六度を下回った場合、暖房を使用する》
「十六・八度だから、あと〇・八度だね」
飯島が温度計を見上げた。
「数字を下げようとしないでください」
「冷蔵庫、開ける?」
「業務妨害で反対票を無効にします」
昼を過ぎても、室温は上がらなかった。
社員たちは、それぞれ勝手な方法で暖を取り始めた。
飯島はコピー機から出てくる紙を必要以上に長く持っていた。田村は段ボールの防寒具へ、気泡緩衝材を追加した。営業事務の森は、温かいマグカップを両手で包み、飲まずに冷めたら給湯室へ戻っていく。
瀬尾だけは半袖のままだったが、午後二時になると、いつの間にか首へタオルを巻いていた。
「寒いんじゃないですか?」
真琴が聞くと、瀬尾はモニターから目を離さなかった。
「肩凝り対策」
「そのタオル、電子レンジで温めましたよね」
「肩凝り対策」
窓の外では細い雨が降り始めた。
午後三時には、室温が十六・二度まで下がった。
あと〇・二度。
社員たちは仕事をしながら、何度も温度計を見る。数字が変わるたびに小さなどよめきが起きた。
三時二十分。
取引先の食品会社から、担当者が来社した。
新商品のスープパッケージについて打ち合わせる予定だった。
真琴は全員へ、段ボールや膝掛けを見えない場所へ片づけるよう指示した。田村は脚へ巻いていた梱包材を外し、机の下へ押し込む。飯島は腹に貼っていた見積書を回収した。
応接スペースへ案内された取引先の女性は、コートを脱がなかった。
「こちら、少し寒いですね」
社長が笑顔で答えた。
「環境への配慮として、空調を控えております」
その直後、社長がくしゃみをした。
「説得力がないですよ」と真琴が小声で言った。
打ち合わせが始まった。
女性が新商品の説明をする。
「寒くなる季節に合わせた、きのこのクリームスープです」
社員たちの視線が、試作品の写真へ集まった。
湯気の立つ白いスープ。焼いたパン。温かそうな木のテーブル。
飯島が、必要以上に深く頷く。
「非常に魅力的です」
「まだ味の説明はしていませんが」
「温度が魅力的です」
真琴は立ち上がった。
「暖房を入れます」
社長が止めるより先に、彼女は南京錠を開けた。リモコンを暖房二十三度に設定し、運転ボタンを押す。
天井のエアコンが低い音を立てた。
全員が期待して吹き出し口を見上げる。
冷たい風が出た。
「冷房じゃない?」
飯島が両腕を抱えた。
「暖房です。表示は」
真琴はリモコンを確認した。画面には確かに太陽の印が出ている。
冷たい風は容赦なく取引先の女性の前髪を揺らした。
「申し訳ありません!」
真琴はすぐに運転を止め、ビルの管理会社へ電話をかけた。
確認の結果、夏の点検後、室外機の暖房用設定が戻されていないことが分かった。作業員が到着するまで四十分かかるという。
打ち合わせは続けられた。
取引先の女性は、持参した段ボール箱を開けた。
「試食用もあります。お湯をいただけますか?」
箱の中には、カップ入りのクリームスープが十二個入っていた。
給湯室の電気ポットが、創業以来初めてと言っていいほど歓迎された。
社員たちは一人一個ずつカップを持ち、応接スペースへ集まった。きのことバターの匂いが部屋に広がる。
「味の感想もお願いします」
女性が言うと、飯島がスプーンを握ったまま答えた。
「今の弊社なら、通常時の三割増しで高評価が出ます」
「参考になるのか、ならないのか分かりませんね」
スープを飲み終えた頃、作業員が到着した。
午後五時十二分。
エアコンから、ようやく温かい風が出た。
誰かが拍手した。
仕事中にもかかわらず、社員たちは吹き出し口の下へ集まった。飯島は両手を広げ、田村は段ボールの防寒具を脱ぎ、瀬尾は何事もなかったようにタオルを外した。
「近い人だけ温まらないでください」
真琴が注意しても、誰も動かない。
取引先の女性はコートを脱ぎながら、その様子をスマートフォンで撮った。
「新商品の社内資料に使っていいですか?」
「何として?」
「需要が生まれる瞬間」
翌朝。
雨は上がり、青空が広がっていた。
朝の気温は昨日より七度高く、日差しの入らない事務所でも、室温は二十二度を超えている。
社長はダウンベストを脱ぎ、うちわで顔をあおいでいた。
「戸田さん、ちょっと暑くない?」
真琴は経費精算の書類から顔を上げた。
「秋は服装で調整するものだそうです」
社長は何も言わず、ワイシャツの袖をまくった。
真琴はリモコンを透明な箱へ戻し、南京錠をかけた。
今度は鍵を、自分のカーディガンのポケットへ入れた。
少なくとも、春までは誰にも渡さないつもりだった。