使う日のために
早瀬咲には、会社で二つの呼び名があった。
一つは「経理部のエース」。
もう一つは「一円の守護神」。
二十六歳にして、彼女の倹約はほとんど芸術の域に達していた。
昼休みになれば、同僚たちがコンビニの袋を提げて戻ってくる中、咲は自宅から持参した弁当箱を静かに開く。中身は昨夜の煮物、冷凍しておいたご飯、それにキャベツの芯を細く刻んだ炒め物だった。
「それ、芯じゃない?」
後輩の美香が尋ねると、咲は箸で一切れ持ち上げた。
「芯は甘いし、歯ごたえもある。捨てる理由がない」
「咲さんに見つかった野菜、全部成仏できそう」
さらに、給湯室では一つのティーバッグを三回使う。
一杯目は紅茶。
二杯目は薄い紅茶。
三杯目になると、ほぼ色のついたお湯だった。
「さすがに三回目は紅茶じゃないよ」
「想像力を足せば紅茶になる」
「倹約に精神論を持ち込まないで」
咲は笑われても気にしなかった。
駅まで二駅分を歩き、破れた靴下は縫い、化粧品は容器を逆さにして最後の一滴まで使った。歯磨き粉のチューブを切り開く姿を見た美香が「そこまでやる?」と震えた時も、咲は真顔で答えた。
「切った後に三日使える」
「チューブのほうが先に諦めてるよ」
それでも、咲は人にまで節約を押しつけることはなかった。
同僚の誕生日にはきちんとプレゼントを用意し、飲み会に参加すれば自分の分は一円単位で払う。誰かが困っていれば、時間も手間も惜しまない。
だから周囲も、彼女を本気でけちだとは思っていなかった。
ただ、何のためにそこまで貯めているのかは、誰も知らなかった。
給料日になると、咲は決まった金額を別の口座へ移した。
通帳の表紙には、小さくこう書いてある。
『使う日のため』
残高は、百四十八万六千三百二十円。
その数字を見るたび、咲は少しだけ笑った。
ある六月の夕方、仕事帰りの咲は、駅とは反対方向にある古い商店街へ向かった。
新しいビルに挟まれた路地の奥に、小さな定食屋がある。
『ひだまり食堂』
色あせた暖簾。少し傾いた看板。入口には、閉店を知らせる紙が貼られていた。
――今月末をもって、閉店いたします。
咲はしばらく、その紙の前から動けなかった。
店の中では、七十を過ぎた店主の節子が、いつも通りカウンターを拭いていた。
「来ると思ってたよ」
「どうして閉めるの」
「給湯器も冷蔵庫も限界。直すお金もないし、私の腰もそろそろ限界」
節子は笑ったが、その声は少しだけ寂しかった。
咲にとって、この店はただの定食屋ではない。
小学生の頃、咲の家には余裕がなかった。母は昼も夜も働き、夕飯が菓子パン一つの日もあった。
そんな咲へ、節子はよくコロッケを渡した。
「形が崩れたから、売り物にならないの」
毎回そう言った。
けれど、咲は知っていた。
どのコロッケも丸くて、きれいだった。
施しではなく、余り物ということにしてくれた。
幼い自尊心まで守ってくれた、優しい嘘だった。
「いくら必要なの」
咲が尋ねると、節子は眉を上げた。
「何が?」
「店を続けるために」
「やめな。あんたが出す話じゃないよ」
「百二十万あれば、最低限の設備は入れ替えられるって、業者さんから聞いた」
「もう調べたのかい」
「三社に相見積もりも取った」
節子は呆れたように笑った。
「相変わらず、抜け目がないねえ」
咲は鞄から通帳と、何枚もの書類を取り出した。
設備費の見積書。保健所への届出。改装後の収支計画。平日は節子、夜と休日は咲が店に立つ勤務表まである。
「お金をあげるつもりはない」
「え?」
「私は倹約家だから、戻ってこないお金は出せない」
節子の目が丸くなる。
「その代わり、私を共同経営者にして。設備代は私が出す。少しずつ、店の利益から返してもらう」
「会社はどうするの」
「辞めない。経理を続けながら、夜と休日に働く。食品衛生責任者の講習も受けた」
「いつの間に」
「去年」
「去年から企んでたのかい」
「三年前から」
節子はしばらく黙っていた。
やがて、顔を覆って笑い始めた。
「怖い子だねえ。コロッケ一個で、店を乗っ取られるとは思わなかったよ」
「利息は取らない」
「そこは取らないんだ」
「節子さんには、昔のコロッケ代を請求してないから」
笑いながら言ったつもりだった。
それなのに、最後のほうは声が震えた。
節子は何も言わず、カウンター越しに咲の手を握った。
その手は、昔よりずっと細くなっていた。
一か月後。
『ひだまり食堂』は、少しだけ新しくなって営業を再開した。
初日の夜、会社の同僚たちが大勢で押しかけた。
「咲さんが副店主って、本当だったんだ!」
「だから毎日、キャベツの芯を食べてたの?」
美香が目を丸くすると、咲は新しいエプロンの紐を結びながら首を振った。
「それとこれは別」
「え?」
「節約は趣味。店は夢」
「一番怖い答えが返ってきた」
店内に笑いが広がった。
看板メニューは、昔と同じコロッケ定食だった。
節子が揚げ、咲が皿へ盛る。
値段は六百八十円。
「六百五十円じゃないんだ」
美香が言うと、咲は即答した。
「原材料費が上がってる。無理な値下げは店を潰す」
「夢の話なのに急に経理部へ戻った」
閉店後、最後の客を見送ると、節子が一つだけ残ったコロッケを皿に載せた。
「はい、咲の分」
「売れ残り?」
「形が崩れたから、売り物にならないの」
昔と同じ言葉だった。
皿の上のコロッケは、今日もきれいな丸だった。
咲は箸を入れ、一口食べた。
熱くて、少しだけ塩が強くて、懐かしい味がした。
「原価、いくら?」
涙を隠すように尋ねると、節子は笑った。
「今日は無料」
「無料は収支が合わない」
「たまには贅沢しな」
咲も笑った。
一円も無駄にしない彼女は、その夜、一つのコロッケにだけ、ずいぶん贅沢な涙を落とした。
貯金は大きく減った。
けれど、通帳の表紙に書いた『使う日のため』という言葉は、ようやく役目を終えた。
お金は、使わなければ減らない。
けれど、使わなければ増えないものもある。
店の明かり。
誰かの笑顔。
帰ってこられる場所。
翌朝、咲は新しい文字を通帳へ書き足した。
『次に使う日のため』
そして以前と変わらず、四回目のティーバッグへお湯を注いだ。
美香が隣で悲鳴を上げる。
「それはもう紅茶じゃない!」
咲は湯気の向こうで、満足そうに笑った。
「大丈夫。昨日、贅沢したから」
一つは「経理部のエース」。
もう一つは「一円の守護神」。
二十六歳にして、彼女の倹約はほとんど芸術の域に達していた。
昼休みになれば、同僚たちがコンビニの袋を提げて戻ってくる中、咲は自宅から持参した弁当箱を静かに開く。中身は昨夜の煮物、冷凍しておいたご飯、それにキャベツの芯を細く刻んだ炒め物だった。
「それ、芯じゃない?」
後輩の美香が尋ねると、咲は箸で一切れ持ち上げた。
「芯は甘いし、歯ごたえもある。捨てる理由がない」
「咲さんに見つかった野菜、全部成仏できそう」
さらに、給湯室では一つのティーバッグを三回使う。
一杯目は紅茶。
二杯目は薄い紅茶。
三杯目になると、ほぼ色のついたお湯だった。
「さすがに三回目は紅茶じゃないよ」
「想像力を足せば紅茶になる」
「倹約に精神論を持ち込まないで」
咲は笑われても気にしなかった。
駅まで二駅分を歩き、破れた靴下は縫い、化粧品は容器を逆さにして最後の一滴まで使った。歯磨き粉のチューブを切り開く姿を見た美香が「そこまでやる?」と震えた時も、咲は真顔で答えた。
「切った後に三日使える」
「チューブのほうが先に諦めてるよ」
それでも、咲は人にまで節約を押しつけることはなかった。
同僚の誕生日にはきちんとプレゼントを用意し、飲み会に参加すれば自分の分は一円単位で払う。誰かが困っていれば、時間も手間も惜しまない。
だから周囲も、彼女を本気でけちだとは思っていなかった。
ただ、何のためにそこまで貯めているのかは、誰も知らなかった。
給料日になると、咲は決まった金額を別の口座へ移した。
通帳の表紙には、小さくこう書いてある。
『使う日のため』
残高は、百四十八万六千三百二十円。
その数字を見るたび、咲は少しだけ笑った。
ある六月の夕方、仕事帰りの咲は、駅とは反対方向にある古い商店街へ向かった。
新しいビルに挟まれた路地の奥に、小さな定食屋がある。
『ひだまり食堂』
色あせた暖簾。少し傾いた看板。入口には、閉店を知らせる紙が貼られていた。
――今月末をもって、閉店いたします。
咲はしばらく、その紙の前から動けなかった。
店の中では、七十を過ぎた店主の節子が、いつも通りカウンターを拭いていた。
「来ると思ってたよ」
「どうして閉めるの」
「給湯器も冷蔵庫も限界。直すお金もないし、私の腰もそろそろ限界」
節子は笑ったが、その声は少しだけ寂しかった。
咲にとって、この店はただの定食屋ではない。
小学生の頃、咲の家には余裕がなかった。母は昼も夜も働き、夕飯が菓子パン一つの日もあった。
そんな咲へ、節子はよくコロッケを渡した。
「形が崩れたから、売り物にならないの」
毎回そう言った。
けれど、咲は知っていた。
どのコロッケも丸くて、きれいだった。
施しではなく、余り物ということにしてくれた。
幼い自尊心まで守ってくれた、優しい嘘だった。
「いくら必要なの」
咲が尋ねると、節子は眉を上げた。
「何が?」
「店を続けるために」
「やめな。あんたが出す話じゃないよ」
「百二十万あれば、最低限の設備は入れ替えられるって、業者さんから聞いた」
「もう調べたのかい」
「三社に相見積もりも取った」
節子は呆れたように笑った。
「相変わらず、抜け目がないねえ」
咲は鞄から通帳と、何枚もの書類を取り出した。
設備費の見積書。保健所への届出。改装後の収支計画。平日は節子、夜と休日は咲が店に立つ勤務表まである。
「お金をあげるつもりはない」
「え?」
「私は倹約家だから、戻ってこないお金は出せない」
節子の目が丸くなる。
「その代わり、私を共同経営者にして。設備代は私が出す。少しずつ、店の利益から返してもらう」
「会社はどうするの」
「辞めない。経理を続けながら、夜と休日に働く。食品衛生責任者の講習も受けた」
「いつの間に」
「去年」
「去年から企んでたのかい」
「三年前から」
節子はしばらく黙っていた。
やがて、顔を覆って笑い始めた。
「怖い子だねえ。コロッケ一個で、店を乗っ取られるとは思わなかったよ」
「利息は取らない」
「そこは取らないんだ」
「節子さんには、昔のコロッケ代を請求してないから」
笑いながら言ったつもりだった。
それなのに、最後のほうは声が震えた。
節子は何も言わず、カウンター越しに咲の手を握った。
その手は、昔よりずっと細くなっていた。
一か月後。
『ひだまり食堂』は、少しだけ新しくなって営業を再開した。
初日の夜、会社の同僚たちが大勢で押しかけた。
「咲さんが副店主って、本当だったんだ!」
「だから毎日、キャベツの芯を食べてたの?」
美香が目を丸くすると、咲は新しいエプロンの紐を結びながら首を振った。
「それとこれは別」
「え?」
「節約は趣味。店は夢」
「一番怖い答えが返ってきた」
店内に笑いが広がった。
看板メニューは、昔と同じコロッケ定食だった。
節子が揚げ、咲が皿へ盛る。
値段は六百八十円。
「六百五十円じゃないんだ」
美香が言うと、咲は即答した。
「原材料費が上がってる。無理な値下げは店を潰す」
「夢の話なのに急に経理部へ戻った」
閉店後、最後の客を見送ると、節子が一つだけ残ったコロッケを皿に載せた。
「はい、咲の分」
「売れ残り?」
「形が崩れたから、売り物にならないの」
昔と同じ言葉だった。
皿の上のコロッケは、今日もきれいな丸だった。
咲は箸を入れ、一口食べた。
熱くて、少しだけ塩が強くて、懐かしい味がした。
「原価、いくら?」
涙を隠すように尋ねると、節子は笑った。
「今日は無料」
「無料は収支が合わない」
「たまには贅沢しな」
咲も笑った。
一円も無駄にしない彼女は、その夜、一つのコロッケにだけ、ずいぶん贅沢な涙を落とした。
貯金は大きく減った。
けれど、通帳の表紙に書いた『使う日のため』という言葉は、ようやく役目を終えた。
お金は、使わなければ減らない。
けれど、使わなければ増えないものもある。
店の明かり。
誰かの笑顔。
帰ってこられる場所。
翌朝、咲は新しい文字を通帳へ書き足した。
『次に使う日のため』
そして以前と変わらず、四回目のティーバッグへお湯を注いだ。
美香が隣で悲鳴を上げる。
「それはもう紅茶じゃない!」
咲は湯気の向こうで、満足そうに笑った。
「大丈夫。昨日、贅沢したから」