海の家は、今年も赤字です
海は好きだった。
見るだけなら。
二十五歳の倉田葵は、六年ぶりに帰ってきた故郷の海を前にして、早くも後悔していた。
髪は潮風で絡まり、サンダルの中には砂が入り、日焼け止めを塗った腕には、なぜか細かな砂粒がびっしり張りついている。
「海って、こんなにべたべたしてたっけ……」
目の前には、古びた海の家があった。
青いトタン屋根。
少し傾いた看板。
色の抜けた赤い文字で書かれた店名は、
『海の家 しおさい』
東京でウェブデザイナーとして働く葵の実家だった。
前日の夜、父から珍しくメッセージが届いた。
『明日、帰ってこられるか』
理由を尋ねると、さらに短い返事が来た。
『アルバイトが全滅した』
何事かと思えば、大学生のアルバイト四人が同じ音楽フェスへ行き、そろって夏風邪を引いたらしい。
父は一人で海の家を営業している。
母は町内会の手伝い。
弟は旅行中。
消去法で、葵が呼び戻された。
「お父さん、六年ぶりに帰ってきた娘へ、何か言うことないの?」
厨房で焼きそばを炒めていた父は、葵を一度だけ見た。
「髪、茶色くなったな」
「他にあるでしょ」
「レジ頼む」
「感動の再会、終了?」
午前九時。
開店すると同時に、海水浴客が次々にやってきた。
「焼きそば三つ!」
「カレー二つ!」
「かき氷、いちご!」
「ラーメンまだですか!」
レジは現金のみ。
注文は手書き。
厨房との連絡は大声。
何もかもが古い。
葵は三十分で限界を迎えた。
「お父さん。この店、効率が悪すぎるよ」
「海の家は、こんなもんだ」
「令和だよ? 注文はスマホ、会計はキャッシュレス、呼び出しも電子化しないと」
「電子化すると、焼きそばがうまくなるのか?」
「そういう話じゃない!」
昼前。
葵はノートパソコンを開き、即席の注文ページを作った。
各テーブルへQRコードを置き、スマートフォンから注文できるようにする。
「見て。これなら注文ミスも減るし、履歴も残る。私の仕事、こういうのだから」
父はよく分かっていない顔で頷いた。
最初の客がQRコードを読み込む。
画面は開かなかった。
「すみません、通信状態が……」
次の客も首を傾げる。
「こっちも圏外ですね」
海岸には人が多すぎて、回線が混雑していた。
葵が作った最新システムは、注文を一件も受けることなく停止した。
父が鉄板の前から言う。
「焼きそばは、電波がなくても注文できるぞ」
「今すぐ海底ケーブルを増設してくる」
「その前に、カレー運んで」
最新化を諦めた葵は、次に新メニューを提案した。
透明なソーダへ青いゼリーを浮かべ、レモンとミントを飾る。
その名も、
『きらめく夏空と青い海のマーメイドソーダ』
「名前が長い」
父は一言で切り捨てた。
「今はこういうのが売れるの。写真を撮りたくなる商品が必要なんだよ」
試作品をテーブルへ置き、スマートフォンを構える。
青いソーダ。
白い雲のようなアイス。
貝殻型のゼリー。
完璧だった。
シャッターを切る直前、上空から一羽のカモメが急降下した。
白いアイスだけをくわえ、飛び去っていく。
残されたのは、青い液体と空の皿。
「マーメイド、食べられた……」
父は無言でラーメンへ海苔を載せていた。
午後一時。
店内は満席になった。
葵は焼きそばを運び、カレーをよそい、かき氷を作った。
氷を削っている途中で機械が止まり、力任せにレバーを回す。
「東京では、こんな働き方してないんだけど!」
「都会の仕事は、氷を削らないのか?」
「普通は削らないよ!」
「何を削るんだ?」
「精神!」
厨房の奥で、父が珍しく笑った。
忙しさのピークが過ぎた頃。
店の入口に、小さな女の子が一人で立っていた。
水着の上に黄色いタオルを羽織り、唇をかみしめている。
「どうしたの?」
葵が声をかけると、女の子は目に涙を浮かべた。
「お母さんがいなくなった」
迷子だった。
葵は女の子を店内へ連れていき、麦茶を渡した。
「大丈夫。お姉ちゃんが一緒に探すから」
「本当?」
「本当。こう見えて、インターネットを使うのは得意なの」
父が横から言う。
「さっき使えなかったけどな」
「今、信用を作ってるところだから黙ってて」
葵は女の子の母親の特徴を聞き、管理事務所へ連絡した。
呼び出しの放送を待つ間、余っていた青いソーダを出す。
アイスはない。
カモメに奪われたからだ。
「海の色だ」
女の子は笑った。
「そう。きらめく夏空と青い海の……」
「青いジュース?」
「うん。青いジュース」
長い名前は、五秒で諦めた。
十分後、母親が店へ駆け込んできた。
女の子を抱きしめ、何度も頭を下げる。
帰り際、女の子は振り返った。
「お姉ちゃん、また来るね!」
小さな手を振りながら、母親と海岸へ戻っていく。
葵は少しだけ笑った。
「また来るって」
父が鉄板を拭きながら言う。
「昔のお前も、同じことを言ってた」
「私が?」
「迷子を見つけるたび、麦茶を出してた。店を継ぐとも言ってたな」
「それ、何歳の時?」
「五歳」
「五歳児の進路希望を本気にしないで」
夕方。
客が減り、海の家は静かになった。
赤く染まった空の下で、海面が細かく光っている。
葵は入口の椅子へ座り、冷えたラムネを飲んだ。
久しぶりに見る故郷の海だった。
東京へ出た頃は、この町には何もないと思っていた。
駅前に大きな店はない。
夜になれば真っ暗になる。
毎年、同じ海に同じ人が来る。
そんな場所が退屈で仕方なかった。
けれど、今日一日で何度も見た。
焼きそばを食べて笑う家族。
毎年同じ席へ座る老夫婦。
海から戻り、店へ駆け込んでくる子どもたち。
ここは、ただ食べ物を売る場所ではなかった。
夏の途中で、誰かが少しだけ休む場所だった。
「この店、儲かってるの?」
葵が尋ねると、父は即答した。
「赤字だ」
「即答しないでよ」
「今年も赤字だな」
「どうして続けてるの?」
父は少し考え、海を見た。
「毎年来る人がいるからだろ」
それだけ言い、空になったコップを片づけ始めた。
葵はスマートフォンを取り出した。
古びた看板。
夕日に染まった店。
鉄板の前に立つ父の背中。
飾らず、そのまま写真を撮る。
そして、店のSNSアカウントを作った。
文章は短くした。
『海の家しおさい。今年も赤字で営業中』
翌朝。
開店前から、店の前には長い列ができていた。
昨夜の投稿が、なぜか拡散されていた。
『正直すぎる』
『応援したい』
『赤字を救いに行く』
そんなコメントが大量に届いている。
父が列を見つめた。
「葵」
「なに?」
「これは、お前の言ってた電子化か?」
「少し違う」
「客が百人くらいいるぞ」
「うん」
「アルバイトは?」
「全滅中」
二人は、無言で狭い厨房を見た。
海はどこまでも広い。
空も広い。
けれど、この店の鉄板だけは、どう見ても焼きそば六人前が限界だった。
父がエプロンを締める。
葵も髪を結び直した。
「来年も手伝うか?」
父が何でもないことのように尋ねる。
葵は店の外に続く行列を見た。
「来年は、アルバイトが全滅する前に呼んで」
それから、少しだけ笑って付け加えた。
「あと、マーメイドソーダも正式メニューにするから」
屋根の上で、カモメが一声鳴いた。
まるで次のアイスを予約するように。
見るだけなら。
二十五歳の倉田葵は、六年ぶりに帰ってきた故郷の海を前にして、早くも後悔していた。
髪は潮風で絡まり、サンダルの中には砂が入り、日焼け止めを塗った腕には、なぜか細かな砂粒がびっしり張りついている。
「海って、こんなにべたべたしてたっけ……」
目の前には、古びた海の家があった。
青いトタン屋根。
少し傾いた看板。
色の抜けた赤い文字で書かれた店名は、
『海の家 しおさい』
東京でウェブデザイナーとして働く葵の実家だった。
前日の夜、父から珍しくメッセージが届いた。
『明日、帰ってこられるか』
理由を尋ねると、さらに短い返事が来た。
『アルバイトが全滅した』
何事かと思えば、大学生のアルバイト四人が同じ音楽フェスへ行き、そろって夏風邪を引いたらしい。
父は一人で海の家を営業している。
母は町内会の手伝い。
弟は旅行中。
消去法で、葵が呼び戻された。
「お父さん、六年ぶりに帰ってきた娘へ、何か言うことないの?」
厨房で焼きそばを炒めていた父は、葵を一度だけ見た。
「髪、茶色くなったな」
「他にあるでしょ」
「レジ頼む」
「感動の再会、終了?」
午前九時。
開店すると同時に、海水浴客が次々にやってきた。
「焼きそば三つ!」
「カレー二つ!」
「かき氷、いちご!」
「ラーメンまだですか!」
レジは現金のみ。
注文は手書き。
厨房との連絡は大声。
何もかもが古い。
葵は三十分で限界を迎えた。
「お父さん。この店、効率が悪すぎるよ」
「海の家は、こんなもんだ」
「令和だよ? 注文はスマホ、会計はキャッシュレス、呼び出しも電子化しないと」
「電子化すると、焼きそばがうまくなるのか?」
「そういう話じゃない!」
昼前。
葵はノートパソコンを開き、即席の注文ページを作った。
各テーブルへQRコードを置き、スマートフォンから注文できるようにする。
「見て。これなら注文ミスも減るし、履歴も残る。私の仕事、こういうのだから」
父はよく分かっていない顔で頷いた。
最初の客がQRコードを読み込む。
画面は開かなかった。
「すみません、通信状態が……」
次の客も首を傾げる。
「こっちも圏外ですね」
海岸には人が多すぎて、回線が混雑していた。
葵が作った最新システムは、注文を一件も受けることなく停止した。
父が鉄板の前から言う。
「焼きそばは、電波がなくても注文できるぞ」
「今すぐ海底ケーブルを増設してくる」
「その前に、カレー運んで」
最新化を諦めた葵は、次に新メニューを提案した。
透明なソーダへ青いゼリーを浮かべ、レモンとミントを飾る。
その名も、
『きらめく夏空と青い海のマーメイドソーダ』
「名前が長い」
父は一言で切り捨てた。
「今はこういうのが売れるの。写真を撮りたくなる商品が必要なんだよ」
試作品をテーブルへ置き、スマートフォンを構える。
青いソーダ。
白い雲のようなアイス。
貝殻型のゼリー。
完璧だった。
シャッターを切る直前、上空から一羽のカモメが急降下した。
白いアイスだけをくわえ、飛び去っていく。
残されたのは、青い液体と空の皿。
「マーメイド、食べられた……」
父は無言でラーメンへ海苔を載せていた。
午後一時。
店内は満席になった。
葵は焼きそばを運び、カレーをよそい、かき氷を作った。
氷を削っている途中で機械が止まり、力任せにレバーを回す。
「東京では、こんな働き方してないんだけど!」
「都会の仕事は、氷を削らないのか?」
「普通は削らないよ!」
「何を削るんだ?」
「精神!」
厨房の奥で、父が珍しく笑った。
忙しさのピークが過ぎた頃。
店の入口に、小さな女の子が一人で立っていた。
水着の上に黄色いタオルを羽織り、唇をかみしめている。
「どうしたの?」
葵が声をかけると、女の子は目に涙を浮かべた。
「お母さんがいなくなった」
迷子だった。
葵は女の子を店内へ連れていき、麦茶を渡した。
「大丈夫。お姉ちゃんが一緒に探すから」
「本当?」
「本当。こう見えて、インターネットを使うのは得意なの」
父が横から言う。
「さっき使えなかったけどな」
「今、信用を作ってるところだから黙ってて」
葵は女の子の母親の特徴を聞き、管理事務所へ連絡した。
呼び出しの放送を待つ間、余っていた青いソーダを出す。
アイスはない。
カモメに奪われたからだ。
「海の色だ」
女の子は笑った。
「そう。きらめく夏空と青い海の……」
「青いジュース?」
「うん。青いジュース」
長い名前は、五秒で諦めた。
十分後、母親が店へ駆け込んできた。
女の子を抱きしめ、何度も頭を下げる。
帰り際、女の子は振り返った。
「お姉ちゃん、また来るね!」
小さな手を振りながら、母親と海岸へ戻っていく。
葵は少しだけ笑った。
「また来るって」
父が鉄板を拭きながら言う。
「昔のお前も、同じことを言ってた」
「私が?」
「迷子を見つけるたび、麦茶を出してた。店を継ぐとも言ってたな」
「それ、何歳の時?」
「五歳」
「五歳児の進路希望を本気にしないで」
夕方。
客が減り、海の家は静かになった。
赤く染まった空の下で、海面が細かく光っている。
葵は入口の椅子へ座り、冷えたラムネを飲んだ。
久しぶりに見る故郷の海だった。
東京へ出た頃は、この町には何もないと思っていた。
駅前に大きな店はない。
夜になれば真っ暗になる。
毎年、同じ海に同じ人が来る。
そんな場所が退屈で仕方なかった。
けれど、今日一日で何度も見た。
焼きそばを食べて笑う家族。
毎年同じ席へ座る老夫婦。
海から戻り、店へ駆け込んでくる子どもたち。
ここは、ただ食べ物を売る場所ではなかった。
夏の途中で、誰かが少しだけ休む場所だった。
「この店、儲かってるの?」
葵が尋ねると、父は即答した。
「赤字だ」
「即答しないでよ」
「今年も赤字だな」
「どうして続けてるの?」
父は少し考え、海を見た。
「毎年来る人がいるからだろ」
それだけ言い、空になったコップを片づけ始めた。
葵はスマートフォンを取り出した。
古びた看板。
夕日に染まった店。
鉄板の前に立つ父の背中。
飾らず、そのまま写真を撮る。
そして、店のSNSアカウントを作った。
文章は短くした。
『海の家しおさい。今年も赤字で営業中』
翌朝。
開店前から、店の前には長い列ができていた。
昨夜の投稿が、なぜか拡散されていた。
『正直すぎる』
『応援したい』
『赤字を救いに行く』
そんなコメントが大量に届いている。
父が列を見つめた。
「葵」
「なに?」
「これは、お前の言ってた電子化か?」
「少し違う」
「客が百人くらいいるぞ」
「うん」
「アルバイトは?」
「全滅中」
二人は、無言で狭い厨房を見た。
海はどこまでも広い。
空も広い。
けれど、この店の鉄板だけは、どう見ても焼きそば六人前が限界だった。
父がエプロンを締める。
葵も髪を結び直した。
「来年も手伝うか?」
父が何でもないことのように尋ねる。
葵は店の外に続く行列を見た。
「来年は、アルバイトが全滅する前に呼んで」
それから、少しだけ笑って付け加えた。
「あと、マーメイドソーダも正式メニューにするから」
屋根の上で、カモメが一声鳴いた。
まるで次のアイスを予約するように。