夏季終了届
八月三十一日の午後四時四十七分。
市役所の窓口を閉めるまで、あと十三分だった。
生活環境課に勤める二十六歳の秋月千夏は、机の上を片づけながら、今夜の夕飯を考えていた。
冷蔵庫には卵が二個。
冷凍庫には、いつ買ったのか分からない餃子。
帰りにアイスだけ買えば、今年の夏は静かに終わる。
そう思っていた時だった。
「すみません。夏を終わらせたいんですが」
声に顔を上げる。
窓口の前に、若い男が立っていた。
色あせたアロハシャツ。
膝丈の短パン。
日焼けした腕。
首には虫取り網をかけ、片手には半分溶けたかき氷を持っている。
どう見ても、市役所へ来る格好ではなかった。
「夏を終わらせたい?」
「はい。今日までなので」
男は鞄から、一枚の書類を取り出した。
上部には、大きな文字でこう書かれている。
『夏季終了届』
千夏は黙って書類を見た。
受付番号。
申請日。
申請者氏名。
終了を希望する季節。
一応、役所の書類らしい形式にはなっている。
申請者の欄には、
『令和八年度 夏』
と書かれていた。
「本人確認書類は?」
千夏が尋ねると、男は驚いた顔をした。
「いるんですか?」
「申請には必要です」
「私、季節なんですけど」
「季節でも本人確認は必要です」
市役所に四年勤めていると、少しくらい変わった人が来ても動じなくなる。
だが、自分を夏だと言い張る人は初めてだった。
男は鞄を探り、一枚の写真を出した。
青空。
入道雲。
海。
砂浜。
その中央で、男が浮き輪を持って笑っている。
裏には油性ペンで、
『撮影日・七月二十日。最高気温三十七度』
と書かれていた。
「証明写真としては背景が広すぎます」
「夏らしさは伝わりません?」
「伝わりますけど、本人確認には使えません」
男は困ったように頭をかいた。
その瞬間、窓の外で鳴いていた蝉が一斉に静かになった。
男が窓を見る。
すると、蝉たちは再び大合唱を始めた。
千夏は男を見る。
男も千夏を見る。
「今の、あなたがやったの?」
「まあ、夏なので」
信じたくはなかった。
しかし、窓口を閉めるまであと九分である。
真偽を確かめている時間もなかった。
千夏は書類を確認した。
「添付書類が足りません」
「え?」
「海水浴場閉鎖証明書、夏祭り終了確認書、花火残光処理票。それから、今年の夏を惜しむ者の署名」
男の顔から血の気が引いた。
「全部必要ですか?」
「全部必要です」
「去年は何も言われなかったのに」
「去年の担当者が処理を省略したんじゃないですか?」
「だから去年、十月まで暑かったのか……」
千夏は時計を見る。
あと七分。
「今日中に申請できないと、どうなるの?」
「夏が終われません」
「具体的には?」
「九月になっても暑いです」
「毎年そうじゃん」
「私も毎年、書類に不備があるので」
原因が目の前にいた。
千夏は小さくため息をつき、窓口の札を裏返した。
『受付終了』
「行くよ」
「どこへ?」
「添付書類を集めるんでしょう?」
「手伝ってくれるんですか?」
「十月まで暑いのは困るから」
二人は市役所を飛び出した。
最初に向かったのは、町の海水浴場だった。
海の家はすでに閉まり、砂浜には解体途中のパラソルと、空気を抜かれた巨大なイルカの浮き輪が転がっている。
店主のおじさんは、焼きそばの鉄板を磨いていた。
「閉鎖証明書?」
男が説明すると、おじさんは腕を組んだ。
「今年の夏には世話になったけどよ、売り上げは去年より少なかったな」
「台風が二回来たので……」
「かき氷の機械も壊れた」
「暑くしすぎたのは謝ります」
「あと、カモメが客のフランクフルトを取った」
「それは私の管轄じゃないです」
しばらく文句を言った後、おじさんは書類へ判子を押した。
「また来年な」
「はい。来年は少し控えめにします」
「毎年それ言ってるぞ」
次は神社だった。
祭りの提灯は取り外され、境内の隅へ積まれている。
町内会長は倉庫の前で、余ったラムネを数えていた。
「祭り終了確認書なら、押してやるよ」
話は早かった。
ただし、条件があった。
「このラムネ、持っていってくれ」
箱には四十八本入っていた。
「なぜこんなに余ったんですか?」
千夏が尋ねると、会長は胸を張った。
「去年足りなかったから、今年は三倍仕入れた」
「需要予測が大胆すぎません?」
二人はラムネを一箱抱え、神社を後にした。
最後は河川敷だった。
花火大会の会場には、打ち上げ筒を撤去する業者が残っているだけだった。
責任者の女性は、書類を見るなり首を横へ振った。
「残光が一つ、まだ処理できてません」
「残光?」
千夏が聞くと、女性は川の向こうを指さした。
夕暮れの空に、小さな金色の光が浮かんでいた。
先日の花火大会で打ち上げられた最後の一発。
誰かの記憶に強く残りすぎて、まだ消えていないらしい。
「どうすれば消えるんですか?」
「きちんと見送れば」
三人で、金色の光を見上げた。
音はしない。
それでも千夏には、あの日の花火の音が聞こえた気がした。
仕事帰り。
駅のホームから、ビルの隙間に見えた花火。
ほんの数秒だった。
写真も撮らなかった。
誰かと一緒に見たわけでもない。
それでも、少しだけ立ち止まった。
「私、今年も花火を見てたんだ」
千夏が呟くと、金色の光はゆっくり小さくなり、夕焼けの中へ溶けていった。
責任者が、花火残光処理票へ判子を押した。
残るのは、一つ。
『今年の夏を惜しむ者の署名』
男と千夏は、町を歩き回った。
しかし、誰も署名してくれなかった。
「暑すぎた」
「電気代が高かった」
「蚊に刺された」
「台風で旅行が中止になった」
「早く秋になってほしい」
当然だった。
男は少しずつ元気をなくしていった。
アロハシャツの色が薄れ、日焼けした肌も、夕暮れの影に溶け始めている。
市役所へ戻った時には、午後六時を過ぎていた。
閉庁後の建物は静かだった。
守衛へ事情を話し、生活環境課へ戻る。
千夏は集めた書類を机へ並べた。
海水浴場閉鎖証明書。
夏祭り終了確認書。
花火残光処理票。
最後の署名欄だけが、空白だった。
「やっぱり、今年は終われないか」
男は窓の外を見た。
昼間の暑さは消え、涼しい風がカーテンを揺らしている。
千夏はペンを取った。
「私が書く」
「でも、夏が終わってほしいんでしょう?」
「終わってほしいよ。暑かったし」
今年の夏、千夏は旅行へ行かなかった。
海にも入らなかった。
祭りにも参加しなかった。
仕事へ行き、帰りにコンビニへ寄り、冷房の効いた部屋で眠った。
何もしていないと思っていた。
けれど、そうではなかった。
大雨の日、知らない女性へ傘を貸した。
残業帰りに見た、小さな花火。
昼休みに食べた、少し溶けたアイス。
甲子園を目指す高校球児を、食堂のテレビで応援した。
閉店間際の夏服セールで、必要のない黄色いワンピースを買った。
着る予定は、まだない。
「終わってほしいけど、なかったことにはしたくない」
千夏は署名欄へ、自分の名前を書いた。
秋月千夏。
男は、その文字をしばらく見つめていた。
「ありがとうございます」
「来年は、もう少し涼しくして」
「努力します」
「台風も少なめに」
「担当へ伝えます」
「蝉は朝六時から鳴かないで」
「それは蝉と直接交渉してください」
千夏は申請書へ受付印を押した。
日付は、八月三十一日。
大きな音が部屋へ響く。
男の身体が、夕日のような淡い光に包まれた。
「それでは、また来年」
「うん。また来年」
男はラムネを一本だけ机へ残し、夜風の中へ消えていった。
翌朝。
九月一日。
千夏が玄関を開けると、昨日までとは違う風が吹いていた。
少しだけ冷たい。
空も高い。
どこかで虫が鳴いている。
「本当に秋が来た」
千夏は薄いカーディガンを羽織り、駅へ向かった。
会社へ着くと、窓口の前に一人の女性が立っていた。
半袖のポロシャツ。
汗を拭くタオル。
手には一枚の申請書。
「すみません。残暑を延長したいんですが」
千夏は書類を受け取った。
延長希望期間。
九月一日から九月三十日。
希望最高気温。
三十五度。
千夏は無言で申請書を返した。
「却下します」
「まだ内容を確認してませんよね?」
「却下です」
夏はきちんと帰った。
だが、残暑は夏よりも、ずっと図太かった。
市役所の窓口を閉めるまで、あと十三分だった。
生活環境課に勤める二十六歳の秋月千夏は、机の上を片づけながら、今夜の夕飯を考えていた。
冷蔵庫には卵が二個。
冷凍庫には、いつ買ったのか分からない餃子。
帰りにアイスだけ買えば、今年の夏は静かに終わる。
そう思っていた時だった。
「すみません。夏を終わらせたいんですが」
声に顔を上げる。
窓口の前に、若い男が立っていた。
色あせたアロハシャツ。
膝丈の短パン。
日焼けした腕。
首には虫取り網をかけ、片手には半分溶けたかき氷を持っている。
どう見ても、市役所へ来る格好ではなかった。
「夏を終わらせたい?」
「はい。今日までなので」
男は鞄から、一枚の書類を取り出した。
上部には、大きな文字でこう書かれている。
『夏季終了届』
千夏は黙って書類を見た。
受付番号。
申請日。
申請者氏名。
終了を希望する季節。
一応、役所の書類らしい形式にはなっている。
申請者の欄には、
『令和八年度 夏』
と書かれていた。
「本人確認書類は?」
千夏が尋ねると、男は驚いた顔をした。
「いるんですか?」
「申請には必要です」
「私、季節なんですけど」
「季節でも本人確認は必要です」
市役所に四年勤めていると、少しくらい変わった人が来ても動じなくなる。
だが、自分を夏だと言い張る人は初めてだった。
男は鞄を探り、一枚の写真を出した。
青空。
入道雲。
海。
砂浜。
その中央で、男が浮き輪を持って笑っている。
裏には油性ペンで、
『撮影日・七月二十日。最高気温三十七度』
と書かれていた。
「証明写真としては背景が広すぎます」
「夏らしさは伝わりません?」
「伝わりますけど、本人確認には使えません」
男は困ったように頭をかいた。
その瞬間、窓の外で鳴いていた蝉が一斉に静かになった。
男が窓を見る。
すると、蝉たちは再び大合唱を始めた。
千夏は男を見る。
男も千夏を見る。
「今の、あなたがやったの?」
「まあ、夏なので」
信じたくはなかった。
しかし、窓口を閉めるまであと九分である。
真偽を確かめている時間もなかった。
千夏は書類を確認した。
「添付書類が足りません」
「え?」
「海水浴場閉鎖証明書、夏祭り終了確認書、花火残光処理票。それから、今年の夏を惜しむ者の署名」
男の顔から血の気が引いた。
「全部必要ですか?」
「全部必要です」
「去年は何も言われなかったのに」
「去年の担当者が処理を省略したんじゃないですか?」
「だから去年、十月まで暑かったのか……」
千夏は時計を見る。
あと七分。
「今日中に申請できないと、どうなるの?」
「夏が終われません」
「具体的には?」
「九月になっても暑いです」
「毎年そうじゃん」
「私も毎年、書類に不備があるので」
原因が目の前にいた。
千夏は小さくため息をつき、窓口の札を裏返した。
『受付終了』
「行くよ」
「どこへ?」
「添付書類を集めるんでしょう?」
「手伝ってくれるんですか?」
「十月まで暑いのは困るから」
二人は市役所を飛び出した。
最初に向かったのは、町の海水浴場だった。
海の家はすでに閉まり、砂浜には解体途中のパラソルと、空気を抜かれた巨大なイルカの浮き輪が転がっている。
店主のおじさんは、焼きそばの鉄板を磨いていた。
「閉鎖証明書?」
男が説明すると、おじさんは腕を組んだ。
「今年の夏には世話になったけどよ、売り上げは去年より少なかったな」
「台風が二回来たので……」
「かき氷の機械も壊れた」
「暑くしすぎたのは謝ります」
「あと、カモメが客のフランクフルトを取った」
「それは私の管轄じゃないです」
しばらく文句を言った後、おじさんは書類へ判子を押した。
「また来年な」
「はい。来年は少し控えめにします」
「毎年それ言ってるぞ」
次は神社だった。
祭りの提灯は取り外され、境内の隅へ積まれている。
町内会長は倉庫の前で、余ったラムネを数えていた。
「祭り終了確認書なら、押してやるよ」
話は早かった。
ただし、条件があった。
「このラムネ、持っていってくれ」
箱には四十八本入っていた。
「なぜこんなに余ったんですか?」
千夏が尋ねると、会長は胸を張った。
「去年足りなかったから、今年は三倍仕入れた」
「需要予測が大胆すぎません?」
二人はラムネを一箱抱え、神社を後にした。
最後は河川敷だった。
花火大会の会場には、打ち上げ筒を撤去する業者が残っているだけだった。
責任者の女性は、書類を見るなり首を横へ振った。
「残光が一つ、まだ処理できてません」
「残光?」
千夏が聞くと、女性は川の向こうを指さした。
夕暮れの空に、小さな金色の光が浮かんでいた。
先日の花火大会で打ち上げられた最後の一発。
誰かの記憶に強く残りすぎて、まだ消えていないらしい。
「どうすれば消えるんですか?」
「きちんと見送れば」
三人で、金色の光を見上げた。
音はしない。
それでも千夏には、あの日の花火の音が聞こえた気がした。
仕事帰り。
駅のホームから、ビルの隙間に見えた花火。
ほんの数秒だった。
写真も撮らなかった。
誰かと一緒に見たわけでもない。
それでも、少しだけ立ち止まった。
「私、今年も花火を見てたんだ」
千夏が呟くと、金色の光はゆっくり小さくなり、夕焼けの中へ溶けていった。
責任者が、花火残光処理票へ判子を押した。
残るのは、一つ。
『今年の夏を惜しむ者の署名』
男と千夏は、町を歩き回った。
しかし、誰も署名してくれなかった。
「暑すぎた」
「電気代が高かった」
「蚊に刺された」
「台風で旅行が中止になった」
「早く秋になってほしい」
当然だった。
男は少しずつ元気をなくしていった。
アロハシャツの色が薄れ、日焼けした肌も、夕暮れの影に溶け始めている。
市役所へ戻った時には、午後六時を過ぎていた。
閉庁後の建物は静かだった。
守衛へ事情を話し、生活環境課へ戻る。
千夏は集めた書類を机へ並べた。
海水浴場閉鎖証明書。
夏祭り終了確認書。
花火残光処理票。
最後の署名欄だけが、空白だった。
「やっぱり、今年は終われないか」
男は窓の外を見た。
昼間の暑さは消え、涼しい風がカーテンを揺らしている。
千夏はペンを取った。
「私が書く」
「でも、夏が終わってほしいんでしょう?」
「終わってほしいよ。暑かったし」
今年の夏、千夏は旅行へ行かなかった。
海にも入らなかった。
祭りにも参加しなかった。
仕事へ行き、帰りにコンビニへ寄り、冷房の効いた部屋で眠った。
何もしていないと思っていた。
けれど、そうではなかった。
大雨の日、知らない女性へ傘を貸した。
残業帰りに見た、小さな花火。
昼休みに食べた、少し溶けたアイス。
甲子園を目指す高校球児を、食堂のテレビで応援した。
閉店間際の夏服セールで、必要のない黄色いワンピースを買った。
着る予定は、まだない。
「終わってほしいけど、なかったことにはしたくない」
千夏は署名欄へ、自分の名前を書いた。
秋月千夏。
男は、その文字をしばらく見つめていた。
「ありがとうございます」
「来年は、もう少し涼しくして」
「努力します」
「台風も少なめに」
「担当へ伝えます」
「蝉は朝六時から鳴かないで」
「それは蝉と直接交渉してください」
千夏は申請書へ受付印を押した。
日付は、八月三十一日。
大きな音が部屋へ響く。
男の身体が、夕日のような淡い光に包まれた。
「それでは、また来年」
「うん。また来年」
男はラムネを一本だけ机へ残し、夜風の中へ消えていった。
翌朝。
九月一日。
千夏が玄関を開けると、昨日までとは違う風が吹いていた。
少しだけ冷たい。
空も高い。
どこかで虫が鳴いている。
「本当に秋が来た」
千夏は薄いカーディガンを羽織り、駅へ向かった。
会社へ着くと、窓口の前に一人の女性が立っていた。
半袖のポロシャツ。
汗を拭くタオル。
手には一枚の申請書。
「すみません。残暑を延長したいんですが」
千夏は書類を受け取った。
延長希望期間。
九月一日から九月三十日。
希望最高気温。
三十五度。
千夏は無言で申請書を返した。
「却下します」
「まだ内容を確認してませんよね?」
「却下です」
夏はきちんと帰った。
だが、残暑は夏よりも、ずっと図太かった。