雨の日だけの避難所
朝から、雨だった。
天気予報では「非常に激しい雨に注意してください」と何度も繰り返していた。
二十六歳の藤原美咲は、窓の外を見ながらため息をついた。
「今日、有給取った意味あるのかな」
久しぶりの休日。
本当なら、新しくできたカフェへ行って、買ったまま読んでいない本を持って、公園でゆっくり過ごす予定だった。
しかし現実は違う。
空は真っ黒。
道路には水たまりというには大きすぎる水の流れ。
外へ出た瞬間、靴は終わる。
髪も終わる。
せっかく朝に整えたメイクも、おそらく五分で終わる。
「今日は家で映画でも見るか」
そう決めた瞬間。
スマートフォンが鳴った。
母からだった。
『おばあちゃんの家、大丈夫かな』
祖母は美咲の実家から少し離れた古い一軒家に住んでいる。
築五十年以上。
庭には大きな木。
昔ながらの瓦屋根。
晴れの日なら風情のある家だが、大雨の日には少し心配になる。
『電話してみる』
美咲が送ると、すぐに祖母へ電話をかけた。
数回の呼び出し音。
「はいはい、美咲かい」
いつも通りの声だった。
「大丈夫?」
「何が?」
「雨」
「ああ、雨ねえ」
祖母は窓の外を見ているようだった。
「すごいけど、家はまだ平気だよ」
「まだって言った?」
「気のせい」
美咲はすぐに準備した。
長靴。
レインコート。
タオル。
水。
非常用ライト。
そしてなぜか、祖母が好きなプリン。
「雨の日にプリンは必要?」
自分でも思った。
でも、祖母は喜ぶ。
それだけで必要だった。
外へ出る。
傘を差した瞬間、意味がないと悟った。
横から吹く雨。
道路を流れる水。
車が通るたび、水しぶきが飛ぶ。
「台風じゃないのに……」
目的地へ向かう途中、何度も引き返そうと思った。
しかし、祖母の声が頭に浮かぶ。
『まだ平気だよ』
その「まだ」が気になった。
ようやく祖母の家へ着く。
玄関を開ける。
「おばあちゃん!」
「大声出さなくても聞こえるよ」
祖母は居間で普通にテレビを見ていた。
机の上には、お茶。
お菓子。
そして新聞。
いつも通りだった。
「心配して損した」
美咲が言うと、祖母は笑った。
「来てくれたじゃない」
「……」
その一言で何も言えなくなった。
外では雨音がさらに強くなる。
屋根を叩く音。
窓を叩く音。
まるで家全体が大きな楽器になったようだった。
「昔も、こんな雨の日があったねえ」
祖母が突然言った。
「美咲が小さい頃」
「覚えてない」
「停電したんだよ」
祖母は懐かしそうに笑う。
「怖いって泣いてた」
「私が?」
「うん」
「全然覚えてない」
「そりゃそうだよ。四歳だったから」
祖母は棚から古い写真を取り出した。
そこには、小さな女の子が祖母に抱きついている写真。
「これ……私?」
「そう」
「髪短い」
「男の子みたいだった」
「ひどい」
二人で笑う。
外の雨は激しい。
でも、不思議と家の中は温かかった。
夕方。
停電した。
部屋が暗くなる。
「ほら」
祖母が得意げに言う。
「昔と同じ」
「全然嬉しくない」
美咲はライトを取り出した。
祖母は笑った。
「準備してきたんだね」
「そりゃ心配だから」
「昔は私が準備してたのにね」
その言葉に、美咲は少しだけ黙った。
子どもの頃。
雨の日に怖がる自分を抱きしめてくれた。
停電した夜、ろうそくの明かりで一緒にトランプをしてくれた。
雨音が怖くなくなるまで、ずっとそばにいてくれた。
今は逆だった。
自分が祖母のそばにいる。
「大きくなったねえ」
祖母が呟く。
「何が?」
「昔は泣いてた子が、今は心配して来てくれる」
美咲は照れくさくなって、プリンを差し出した。
「はい」
「何これ」
「お土産」
「雨の中、プリン買ってきたの?」
「好きでしょ」
祖母は笑った。
「変なところ、昔のままだね」
「どういう意味?」
「優しいけど、少し抜けてる」
否定できなかった。
夜。
雨はまだ降っている。
しかし、少しずつ弱くなってきた。
二人で温かいお茶を飲みながら、昔の話をした。
祖母の若い頃。
母が子どもだった頃。
美咲が失敗した数々の話。
「それ、本人に言わないで」
「もう本人だよ」
気づけば、日付が変わっていた。
翌朝。
雨は止んでいた。
庭には水滴が残り、葉っぱが朝日に光っている。
「綺麗」
美咲が呟く。
祖母が隣へ来る。
「雨も悪くないね」
昨日までなら、絶対にそう思わなかった。
予定は全部消えた。
カフェにも行けなかった。
本も読めなかった。
でも。
雨のおかげで、何年ぶりかに祖母とゆっくり話せた。
帰り際。
祖母が小さな袋を渡してきた。
「何?」
「お弁当」
「作ったの?」
「昨日の残り」
家へ帰って開ける。
中には、おにぎり。
卵焼き。
そして小さなメモ。
『雨の日に来てくれてありがとう』
美咲は少しだけ笑った。
大雨は、何かを奪うことがある。
予定。
時間。
自由。
でも時々。
忘れていた大切なものを、連れてきてくれることもある。
次に雨が降った日。
美咲は天気予報を見て、少しだけ笑った。
「大雨か」
そして、スマートフォンを手に取る。
『今日は大丈夫?』
送信先は、祖母だった。
天気予報では「非常に激しい雨に注意してください」と何度も繰り返していた。
二十六歳の藤原美咲は、窓の外を見ながらため息をついた。
「今日、有給取った意味あるのかな」
久しぶりの休日。
本当なら、新しくできたカフェへ行って、買ったまま読んでいない本を持って、公園でゆっくり過ごす予定だった。
しかし現実は違う。
空は真っ黒。
道路には水たまりというには大きすぎる水の流れ。
外へ出た瞬間、靴は終わる。
髪も終わる。
せっかく朝に整えたメイクも、おそらく五分で終わる。
「今日は家で映画でも見るか」
そう決めた瞬間。
スマートフォンが鳴った。
母からだった。
『おばあちゃんの家、大丈夫かな』
祖母は美咲の実家から少し離れた古い一軒家に住んでいる。
築五十年以上。
庭には大きな木。
昔ながらの瓦屋根。
晴れの日なら風情のある家だが、大雨の日には少し心配になる。
『電話してみる』
美咲が送ると、すぐに祖母へ電話をかけた。
数回の呼び出し音。
「はいはい、美咲かい」
いつも通りの声だった。
「大丈夫?」
「何が?」
「雨」
「ああ、雨ねえ」
祖母は窓の外を見ているようだった。
「すごいけど、家はまだ平気だよ」
「まだって言った?」
「気のせい」
美咲はすぐに準備した。
長靴。
レインコート。
タオル。
水。
非常用ライト。
そしてなぜか、祖母が好きなプリン。
「雨の日にプリンは必要?」
自分でも思った。
でも、祖母は喜ぶ。
それだけで必要だった。
外へ出る。
傘を差した瞬間、意味がないと悟った。
横から吹く雨。
道路を流れる水。
車が通るたび、水しぶきが飛ぶ。
「台風じゃないのに……」
目的地へ向かう途中、何度も引き返そうと思った。
しかし、祖母の声が頭に浮かぶ。
『まだ平気だよ』
その「まだ」が気になった。
ようやく祖母の家へ着く。
玄関を開ける。
「おばあちゃん!」
「大声出さなくても聞こえるよ」
祖母は居間で普通にテレビを見ていた。
机の上には、お茶。
お菓子。
そして新聞。
いつも通りだった。
「心配して損した」
美咲が言うと、祖母は笑った。
「来てくれたじゃない」
「……」
その一言で何も言えなくなった。
外では雨音がさらに強くなる。
屋根を叩く音。
窓を叩く音。
まるで家全体が大きな楽器になったようだった。
「昔も、こんな雨の日があったねえ」
祖母が突然言った。
「美咲が小さい頃」
「覚えてない」
「停電したんだよ」
祖母は懐かしそうに笑う。
「怖いって泣いてた」
「私が?」
「うん」
「全然覚えてない」
「そりゃそうだよ。四歳だったから」
祖母は棚から古い写真を取り出した。
そこには、小さな女の子が祖母に抱きついている写真。
「これ……私?」
「そう」
「髪短い」
「男の子みたいだった」
「ひどい」
二人で笑う。
外の雨は激しい。
でも、不思議と家の中は温かかった。
夕方。
停電した。
部屋が暗くなる。
「ほら」
祖母が得意げに言う。
「昔と同じ」
「全然嬉しくない」
美咲はライトを取り出した。
祖母は笑った。
「準備してきたんだね」
「そりゃ心配だから」
「昔は私が準備してたのにね」
その言葉に、美咲は少しだけ黙った。
子どもの頃。
雨の日に怖がる自分を抱きしめてくれた。
停電した夜、ろうそくの明かりで一緒にトランプをしてくれた。
雨音が怖くなくなるまで、ずっとそばにいてくれた。
今は逆だった。
自分が祖母のそばにいる。
「大きくなったねえ」
祖母が呟く。
「何が?」
「昔は泣いてた子が、今は心配して来てくれる」
美咲は照れくさくなって、プリンを差し出した。
「はい」
「何これ」
「お土産」
「雨の中、プリン買ってきたの?」
「好きでしょ」
祖母は笑った。
「変なところ、昔のままだね」
「どういう意味?」
「優しいけど、少し抜けてる」
否定できなかった。
夜。
雨はまだ降っている。
しかし、少しずつ弱くなってきた。
二人で温かいお茶を飲みながら、昔の話をした。
祖母の若い頃。
母が子どもだった頃。
美咲が失敗した数々の話。
「それ、本人に言わないで」
「もう本人だよ」
気づけば、日付が変わっていた。
翌朝。
雨は止んでいた。
庭には水滴が残り、葉っぱが朝日に光っている。
「綺麗」
美咲が呟く。
祖母が隣へ来る。
「雨も悪くないね」
昨日までなら、絶対にそう思わなかった。
予定は全部消えた。
カフェにも行けなかった。
本も読めなかった。
でも。
雨のおかげで、何年ぶりかに祖母とゆっくり話せた。
帰り際。
祖母が小さな袋を渡してきた。
「何?」
「お弁当」
「作ったの?」
「昨日の残り」
家へ帰って開ける。
中には、おにぎり。
卵焼き。
そして小さなメモ。
『雨の日に来てくれてありがとう』
美咲は少しだけ笑った。
大雨は、何かを奪うことがある。
予定。
時間。
自由。
でも時々。
忘れていた大切なものを、連れてきてくれることもある。
次に雨が降った日。
美咲は天気予報を見て、少しだけ笑った。
「大雨か」
そして、スマートフォンを手に取る。
『今日は大丈夫?』
送信先は、祖母だった。