気温十六度の夏じまい

 九月の最後の月曜日、早坂澪は屋上に百二十枚のうちわを運び込んだ。
 青い紙に白い波が印刷された、見るからに夏らしいうちわである。駅前の古い百貨店「ひかり屋」が八月の縁日用に作りすぎ、倉庫で場所を取っていた。
「金曜の屋上映画会で配ります」
 澪が宣言すると、施設管理の坂井は空を見上げた。
「今週、気温下がるよ」
「まだ九月です」
「九月は秋だよ」
「カレンダーの分類で仕事はしません」
 澪は二十五歳。顎までの黒髪を耳にかけ、紺色の作業用オーバーオールを着ていた。百貨店の催事担当になって二年目で、余った物を別の催しで使い切ることに妙な情熱を持っている。
 屋上映画会は、夏の終わりを惜しむ企画だった。夕方六時から、芝生広場にスクリーンを立て、昔の冒険映画を上映する。来場者には冷たいレモネードとうちわを配る予定である。
 月曜日の最高気温は二十六度。屋上の床にはまだ昼の熱が残り、倉庫から戻るだけで澪の額には汗が浮かんだ。
「ほら、夏です」
「昼はね」
 坂井は半袖の制服の上に、薄い上着を羽織っていた。
 火曜日、最高気温は二十三度になった。
 出勤途中、澪はいつもの癖でコンビニのアイスコーヒーを買った。しかし、駅のホームで電車を待つ間、カップを持つ指先が冷えた。飲み終える頃には、なぜ自分が五百ミリリットルも買ったのか分からなくなっていた。
 百貨店に着くと、婦人服売り場のマネキンが一斉にニットを着ていた。昨日まで薄手のブラウスだったはずだ。
「裏切りが早い」
 澪が呟くと、売り場主任が通りかかった。
「売り場は気温で動くの。意地では動かないよ」
「意地じゃありません。季節感の演出です」
「じゃあ、その鳥肌も演出?」
 澪は腕を組んで隠した。
 水曜日、朝の気温は二十度を切った。
 屋上へ続く鉄扉の取っ手は、握るとひやりとした。風の匂いも変わっていた。排気口から上がってくる飲食店の匂いに、焼き魚と炊き込みご飯が混じっている。遠くの空は高く、雲は薄く引き延ばされていた。
 試写のために椅子へ座った澪は、三分で立ち上がった。
「風が邪魔です」
「昨日も吹いてたよ」と坂井が言った。
「昨日より性格が悪いです」
「風のせいにし始めたら、もう負けだね」
 澪は倉庫へ戻り、在庫表を確認した。レモネード用の紙コップ百五十個。氷を入れる保冷箱が四つ。うちわ百二十枚。
 一方、防寒用品はゼロだった。
 木曜日、予想最高気温は十八度。金曜日の上映時刻には十六度まで下がるという。
 予約はすでに百人を超えていた。澪はパソコンの画面を見つめたまま、隣の席の坂井に尋ねた。
「十六度って、体感では何度ですか?」
「十六度だよ」
「風がなければ?」
「十六度」
「気合いがあれば?」
「個人差があります」
 正午、澪は緊急会議を開いた。参加者は澪、坂井、屋上カフェの店長、清掃主任、近所のコインランドリーを営む宮原の四人と一人だった。
 澪はホワイトボードに大きく書いた。
《夏じまい映画会を、凍えずに終える方法》
「まず、レモネードを温めます」
 カフェ店長が眉をひそめた。
「炭酸入りだよ」
「では氷を減らします」
「冷たいことは変わらないね」
「うちわを燃やして暖を取るのは?」と清掃主任が言った。
「百貨店の屋上で焚き火はできません」
「百二十枚もあるのに」
「数の問題じゃないです」
 宮原が腕を組んだ。
「うちの乾燥機で膝掛けを温めて、上映前に運ぼうか」
 全員が彼を見た。
「膝掛け、あるんですか?」
「商店街の秋祭り用が六十枚。去年、柄が地味だって使われなかったやつ」
「地味で結構です。温かければ、無地でも市松でも謎の動物でも」
 宮原はスマートフォンを取り出した。
「謎の動物が多いよ」
 金曜日、朝から空は灰色だった。
 昼を過ぎても気温は上がらず、屋上の芝生は風が通るたびに同じ方向へ倒れた。澪はとうとうオーバーオールの下に薄手のタートルネックを着た。それでも認めたくなくて、袖を肘までまくっていた。
 午後五時半、来場者が集まり始めた。
 カーディガン姿の女性、パーカーを着た学生、薄い毛布を抱えた家族。半袖で来た男性は、エレベーターの扉が開いた瞬間に引き返し、十分後、紳士服売り場の紙袋を持って戻ってきた。
 受付でうちわを渡された子どもが、不思議そうに澪を見た。
「これ、何に使うの?」
「風を送る道具です」
「もう風あるよ」
 澪は返事に詰まり、うちわを子どもの背中へ差し込んだ。
「背もたれとの隙間風を防げます」
「使い方、変わってるじゃん」
 六時前、宮原の軽トラックが到着した。荷台には乾燥機から出したばかりの膝掛けが、大きな袋に詰められている。袋を開けると、洗いたての布と柔軟剤の匂いが広がった。
 膝掛けには、首の長い猫、翼のない鳥、耳が三つある熊などが刺繍されていた。
「本当に謎ですね」
「だから余ったんだよ」
 客たちは笑いながら柄を選んだ。子どもは三つ耳の熊を奪い合い、大人は首の長い猫を膝へかけた。カフェでは急きょ、ホットココアと蜂蜜入りの紅茶が売られた。冷たいレモネードは一杯も注文されなかった。
 上映が始まる頃には、風がさらに冷たくなっていた。
 澪はスクリーンの横で進行を見守った。映画の主人公が砂漠を走っているのに、観客は膝掛けへ肩まで潜っている。うちわは風よけとして首元に差し込まれ、紙コップの蓋として使われ、子どもには剣の代わりに振り回されていた。
 本来の用途だけが失われている。
 それでも、途中で帰る客はいなかった。
 映像が終わり、屋上に拍手が広がった。澪が前へ出ると、鼻の頭が冷えて少し声が上ずった。
「本日は、夏じまい映画会へお越しいただき、ありがとうございました」
 客席から「秋だったよ!」と声が飛んだ。
「企画時点では夏でした!」
 今度は笑いが起きた。
 最後の客を見送ったあと、澪は芝生広場の椅子を片づけた。指先は冷たく、息を吐くと、ごく薄く白く見えた気がした。駅前の木々はまだ緑が多いのに、風だけが先に季節を進めている。
 坂井が温かいココアを二つ持ってきた。
「夏、終わった?」
 澪は紙コップを両手で包んだ。じんわりと熱が戻ってくる。
「今日のところは、保留です」
「まだ粘るんだ」
「ただし、来週から秋企画に移行します」
「何やるの?」
 澪は残ったうちわの束を見た。
「落ち葉を集める道具として配ります」
「それ、たぶん手で拾った方が早いよ」
 翌週の月曜日、澪は厚手のカーディガンを着て出勤した。
 坂井は何も言わず、屋上倉庫の扉に紙を貼った。
《秋、承認済み》
 澪はその下へ、小さく一行を書き足した。
《ただし、うちわは通年で活用する》

目次

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