秋祭り、提灯は順番を守らない
十月十二日の午後四時、八坂町の秋祭りは、点灯前から暗雲に包まれていた。
空ではない。
山車の提灯である。
「右側、つきません!」
「左は全部ついた!」
「待って、今度は後ろが消えた!」
町内会館の前で、法被姿の大人たちが一斉に叫ぶ。高さ三メートルの山車には、赤と白の提灯が四十八個。日が暮れれば、その明かりを揺らしながら商店街を練り歩く予定だった。
しかし、電源を入れるたびに違う場所が消える。
電気工事士の杉原七海は、山車の下から這い出し、額についた木くずを払った。
「誰か、昨日配線を触った?」
二十四歳。短く切った黒髪の上から紺色の鉢巻きを巻き、法被の下には作業着を着ている。腰にはドライバーやテスターの入った工具袋。祭りへ参加する格好というより、祭りを修理する格好だった。
町内会長の塚田が目をそらした。
「少しだけ」
「どこを?」
「全部」
「少しの範囲が広すぎる」
昨夜、提灯のコードが見栄えを損ねるという理由で、町内会の有志が配線を組み直したらしい。
その結果、山車の右側にある提灯のスイッチを押すと、左後方が光る。正面をつけると太鼓の上だけが消える。すべて消したはずなのに、頂上の一個だけが執念深く光り続ける。
祭りの出発まで、あと一時間。
商店街では屋台の準備が始まっていた。焼きとうもろこしの醤油が焦げる匂い、りんご飴の甘い香り、炭火であぶる秋刀魚の煙。空気は日が傾くにつれて冷たくなり、法被の袖口から細い風が入ってくる。
小学生たちは、山車の前で落ち着きなく太鼓のばちを振っていた。
「今年、山車出ないの?」
小学四年生の芽衣が尋ねた。
「出すよ」
七海は工具袋からテスターを取り出した。
「ただし、提灯が言うことを聞けばね」
「叱ったら?」
「電気は叱っても反省しない」
「お母さんと同じだ」
近くにいた芽衣の母親が振り返った。
「聞こえてるよ」
七海は山車の下へ戻った。
狭い床下には、延長コード、分岐タップ、古い配線、新しい配線が絡まり合っている。色分けもされておらず、どの線がどの提灯につながっているのか分からない。
一本ずつ調べるしかない。
「右前、一番!」
七海が叫ぶ。
外にいた青年がスイッチを入れた。
「どこがついた?」
「左後ろの二段目!」
「紙に書いて!」
町内会長が段ボールの裏へ記録する。
《右前一番→左後ろ二段目》
「右前、二番!」
「正面上段!」
《右前二番→正面上段》
「右前、三番!」
何もつかない。
代わりに、山車の太鼓につないでいた小型スピーカーから、祭囃子が大音量で流れ始めた。
「止めて!」
七海の声は笛と太鼓の音にかき消された。
山車の周囲にいた子どもたちが、出発の合図だと勘違いして太鼓を叩き始める。屋台の人々まで手を止め、商店街の入口へ集まってきた。
「まだ出ません!」
七海は山車の下から叫んだ。
「試運転です!」
町内会長が取り繕う。
「ずいぶん本番みたいな試運転ですね」と、たこ焼き屋の店主が言った。
スピーカーを止めた頃には、出発まで四十分になっていた。
調査できた提灯は、まだ十二個。
七海は床下から顔だけ出し、段ボールに書かれた対応表を見た。
もう配線を元へ戻す時間はない。
「会長」
「直りそうか?」
「無理」
塚田の顔が固まった。
「そんなにはっきり?」
「正確には、普通には直せない」
七海は山車から這い出し、提灯を見上げた。
四十八個すべてを同時につける必要があると思っていた。しかし、どのスイッチでどこが光るかだけ分かれば、順番に操作することはできる。
「提灯を一斉につけるのは諦める」
「暗いまま出すのか?」
「順番につける」
七海は段ボールを地面へ置き、指で経路をたどった。
右前一番で左後ろ。右前二番で正面。左後ろ四番で右上。規則性はまったくないが、光る場所自体は分かり始めている。
「点滅させながら進めばいい。全部が同時につかなくても、動いているように見える」
「見えるかな」
「見せるんだよ」
七海は子どもたちを集めた。
提灯の操作盤には十二個のスイッチがある。七海が番号を読み上げ、子どもたちが順番に押す。一番から十二番まで進んだら、今度は逆に戻る。
芽衣が手を挙げた。
「間違えたら?」
「それも演出ってことにする」
「便利な言葉だね」
さっき自分が大人へ言われたようなことを、小学生に言われた。
午後五時。
秋祭りの山車は、予定より十分遅れて町内会館を出発した。
空はもう薄紫色で、商店街の店先には明かりがともり始めている。冷たい風に、提灯の房が揺れた。
最初は暗かった。
沿道の人々が、首をかしげながら山車を見る。
七海は山車の横を歩き、操作盤の子どもたちへ声をかけた。
「一番!」
芽衣がスイッチを押す。
左後ろの提灯が三つ光った。
「二番!」
今度は正面上段。
「三番!」
右側の提灯が、下から上へ二つずつ点灯する。
見物客から小さな歓声が上がった。
「四番、五番、六番!」
赤と白の光が、山車の周囲を走る。全体が明るくなるわけではない。代わりに、提灯の明かりが太鼓の音へ合わせて移動しているように見えた。
「きれい!」
沿道の子どもが叫んだ。
操作役の子どもたちは得意になり、番号を待たずに押し始めた。
「七、八、九!」
「早い! 九番はまだ!」
七海が止めるより先に、頂上の提灯だけが点灯した。
山車の上で踊っていた獅子頭が、赤い光に照らされる。
見物客から、今日一番大きな拍手が起きた。
町内会長が七海へ耳打ちした。
「あれは狙ったのか?」
「もちろん」
「今、止めようとしてなかった?」
「気のせい」
山車は商店街を進んだ。
焼き栗の屋台の前では左側が光り、神社の鳥居をくぐる時には正面の提灯が一斉にともった。子どもたちは番号を覚え、太鼓の拍子へ合わせてスイッチを操作するようになった。
途中から、見物客も声を合わせた。
「次、三番!」
「いや、十一番だ!」
「頂上をつけて!」
山車の提灯は、もはや照明ではなく、祭りの出し物になっていた。
七海は山車の横を歩きながら、何度も配線を確認した。焦げた匂いはない。コードの発熱もない。見た目は派手だが、安全上の問題はなさそうだった。
神社へ到着した頃には、気温がさらに下がっていた。
吐く息は白くならないものの、じっとしていると指先が冷える。七海が手をこすっていると、芽衣が屋台で買った甘酒を差し出した。
「七海ちゃんの分」
「いいの?」
「お母さんのお金だから」
少しも恩着せがましくない。
紙コップを受け取ると、湯気が鼻先へ上がった。生姜の匂いと甘さが、冷えた身体へゆっくり広がる。
町内会長が、境内の隅から歩いてきた。
「来年も、この点灯でいこう」
「嫌です」
七海は即答した。
「評判いいぞ。普通に全部つくより盛り上がった」
「来年までに配線を直す」
「直した上で、この順番に光るようにできないか?」
「できますけど」
「じゃあ、頼む」
「仕事として発注して」
塚田は少し黙った。
「町内会価格で」
「正規料金で」
二人がにらみ合っていると、山車の方から歓声が上がった。
子どもたちが勝手にスイッチを押し、四十八個すべての提灯を同時に点灯させていた。
一時間近く苦労してもできなかったことが、なぜか今になって成功している。
「全部ついた!」
芽衣が叫んだ。
七海は急いで操作盤を確認した。
十二個あるスイッチのうち、四番だけが途中で止まっている。誰かが完全には押し込まず、微妙な位置で固定したらしい。
「そこだったの?」
七海は思わず笑った。
町内会長が胸を張った。
「私が昨日、配線を工夫した成果だな」
「今度、山車を触ったら工具を全部隠すから」
祭りが終わった午後九時。
提灯を消すため、子どもたちが十二個のスイッチを順番に戻した。
十一個までは消えた。
最後に、頂上の一個だけが残った。
「これ、どうするの?」
芽衣が尋ねる。
七海は、暗くなった境内の上で光る提灯を見上げた。
「今日はもう、そのままでいい」
「直さないの?」
「秋祭りの最後の明かりってことにする」
芽衣は嬉しそうに頷いた。
「便利な言葉だね」
十月の冷たい風の中で、頂上の提灯は、誰よりも遅くまで得意そうに光っていた。
空ではない。
山車の提灯である。
「右側、つきません!」
「左は全部ついた!」
「待って、今度は後ろが消えた!」
町内会館の前で、法被姿の大人たちが一斉に叫ぶ。高さ三メートルの山車には、赤と白の提灯が四十八個。日が暮れれば、その明かりを揺らしながら商店街を練り歩く予定だった。
しかし、電源を入れるたびに違う場所が消える。
電気工事士の杉原七海は、山車の下から這い出し、額についた木くずを払った。
「誰か、昨日配線を触った?」
二十四歳。短く切った黒髪の上から紺色の鉢巻きを巻き、法被の下には作業着を着ている。腰にはドライバーやテスターの入った工具袋。祭りへ参加する格好というより、祭りを修理する格好だった。
町内会長の塚田が目をそらした。
「少しだけ」
「どこを?」
「全部」
「少しの範囲が広すぎる」
昨夜、提灯のコードが見栄えを損ねるという理由で、町内会の有志が配線を組み直したらしい。
その結果、山車の右側にある提灯のスイッチを押すと、左後方が光る。正面をつけると太鼓の上だけが消える。すべて消したはずなのに、頂上の一個だけが執念深く光り続ける。
祭りの出発まで、あと一時間。
商店街では屋台の準備が始まっていた。焼きとうもろこしの醤油が焦げる匂い、りんご飴の甘い香り、炭火であぶる秋刀魚の煙。空気は日が傾くにつれて冷たくなり、法被の袖口から細い風が入ってくる。
小学生たちは、山車の前で落ち着きなく太鼓のばちを振っていた。
「今年、山車出ないの?」
小学四年生の芽衣が尋ねた。
「出すよ」
七海は工具袋からテスターを取り出した。
「ただし、提灯が言うことを聞けばね」
「叱ったら?」
「電気は叱っても反省しない」
「お母さんと同じだ」
近くにいた芽衣の母親が振り返った。
「聞こえてるよ」
七海は山車の下へ戻った。
狭い床下には、延長コード、分岐タップ、古い配線、新しい配線が絡まり合っている。色分けもされておらず、どの線がどの提灯につながっているのか分からない。
一本ずつ調べるしかない。
「右前、一番!」
七海が叫ぶ。
外にいた青年がスイッチを入れた。
「どこがついた?」
「左後ろの二段目!」
「紙に書いて!」
町内会長が段ボールの裏へ記録する。
《右前一番→左後ろ二段目》
「右前、二番!」
「正面上段!」
《右前二番→正面上段》
「右前、三番!」
何もつかない。
代わりに、山車の太鼓につないでいた小型スピーカーから、祭囃子が大音量で流れ始めた。
「止めて!」
七海の声は笛と太鼓の音にかき消された。
山車の周囲にいた子どもたちが、出発の合図だと勘違いして太鼓を叩き始める。屋台の人々まで手を止め、商店街の入口へ集まってきた。
「まだ出ません!」
七海は山車の下から叫んだ。
「試運転です!」
町内会長が取り繕う。
「ずいぶん本番みたいな試運転ですね」と、たこ焼き屋の店主が言った。
スピーカーを止めた頃には、出発まで四十分になっていた。
調査できた提灯は、まだ十二個。
七海は床下から顔だけ出し、段ボールに書かれた対応表を見た。
もう配線を元へ戻す時間はない。
「会長」
「直りそうか?」
「無理」
塚田の顔が固まった。
「そんなにはっきり?」
「正確には、普通には直せない」
七海は山車から這い出し、提灯を見上げた。
四十八個すべてを同時につける必要があると思っていた。しかし、どのスイッチでどこが光るかだけ分かれば、順番に操作することはできる。
「提灯を一斉につけるのは諦める」
「暗いまま出すのか?」
「順番につける」
七海は段ボールを地面へ置き、指で経路をたどった。
右前一番で左後ろ。右前二番で正面。左後ろ四番で右上。規則性はまったくないが、光る場所自体は分かり始めている。
「点滅させながら進めばいい。全部が同時につかなくても、動いているように見える」
「見えるかな」
「見せるんだよ」
七海は子どもたちを集めた。
提灯の操作盤には十二個のスイッチがある。七海が番号を読み上げ、子どもたちが順番に押す。一番から十二番まで進んだら、今度は逆に戻る。
芽衣が手を挙げた。
「間違えたら?」
「それも演出ってことにする」
「便利な言葉だね」
さっき自分が大人へ言われたようなことを、小学生に言われた。
午後五時。
秋祭りの山車は、予定より十分遅れて町内会館を出発した。
空はもう薄紫色で、商店街の店先には明かりがともり始めている。冷たい風に、提灯の房が揺れた。
最初は暗かった。
沿道の人々が、首をかしげながら山車を見る。
七海は山車の横を歩き、操作盤の子どもたちへ声をかけた。
「一番!」
芽衣がスイッチを押す。
左後ろの提灯が三つ光った。
「二番!」
今度は正面上段。
「三番!」
右側の提灯が、下から上へ二つずつ点灯する。
見物客から小さな歓声が上がった。
「四番、五番、六番!」
赤と白の光が、山車の周囲を走る。全体が明るくなるわけではない。代わりに、提灯の明かりが太鼓の音へ合わせて移動しているように見えた。
「きれい!」
沿道の子どもが叫んだ。
操作役の子どもたちは得意になり、番号を待たずに押し始めた。
「七、八、九!」
「早い! 九番はまだ!」
七海が止めるより先に、頂上の提灯だけが点灯した。
山車の上で踊っていた獅子頭が、赤い光に照らされる。
見物客から、今日一番大きな拍手が起きた。
町内会長が七海へ耳打ちした。
「あれは狙ったのか?」
「もちろん」
「今、止めようとしてなかった?」
「気のせい」
山車は商店街を進んだ。
焼き栗の屋台の前では左側が光り、神社の鳥居をくぐる時には正面の提灯が一斉にともった。子どもたちは番号を覚え、太鼓の拍子へ合わせてスイッチを操作するようになった。
途中から、見物客も声を合わせた。
「次、三番!」
「いや、十一番だ!」
「頂上をつけて!」
山車の提灯は、もはや照明ではなく、祭りの出し物になっていた。
七海は山車の横を歩きながら、何度も配線を確認した。焦げた匂いはない。コードの発熱もない。見た目は派手だが、安全上の問題はなさそうだった。
神社へ到着した頃には、気温がさらに下がっていた。
吐く息は白くならないものの、じっとしていると指先が冷える。七海が手をこすっていると、芽衣が屋台で買った甘酒を差し出した。
「七海ちゃんの分」
「いいの?」
「お母さんのお金だから」
少しも恩着せがましくない。
紙コップを受け取ると、湯気が鼻先へ上がった。生姜の匂いと甘さが、冷えた身体へゆっくり広がる。
町内会長が、境内の隅から歩いてきた。
「来年も、この点灯でいこう」
「嫌です」
七海は即答した。
「評判いいぞ。普通に全部つくより盛り上がった」
「来年までに配線を直す」
「直した上で、この順番に光るようにできないか?」
「できますけど」
「じゃあ、頼む」
「仕事として発注して」
塚田は少し黙った。
「町内会価格で」
「正規料金で」
二人がにらみ合っていると、山車の方から歓声が上がった。
子どもたちが勝手にスイッチを押し、四十八個すべての提灯を同時に点灯させていた。
一時間近く苦労してもできなかったことが、なぜか今になって成功している。
「全部ついた!」
芽衣が叫んだ。
七海は急いで操作盤を確認した。
十二個あるスイッチのうち、四番だけが途中で止まっている。誰かが完全には押し込まず、微妙な位置で固定したらしい。
「そこだったの?」
七海は思わず笑った。
町内会長が胸を張った。
「私が昨日、配線を工夫した成果だな」
「今度、山車を触ったら工具を全部隠すから」
祭りが終わった午後九時。
提灯を消すため、子どもたちが十二個のスイッチを順番に戻した。
十一個までは消えた。
最後に、頂上の一個だけが残った。
「これ、どうするの?」
芽衣が尋ねる。
七海は、暗くなった境内の上で光る提灯を見上げた。
「今日はもう、そのままでいい」
「直さないの?」
「秋祭りの最後の明かりってことにする」
芽衣は嬉しそうに頷いた。
「便利な言葉だね」
十月の冷たい風の中で、頂上の提灯は、誰よりも遅くまで得意そうに光っていた。