体育の日、パンは風を読む

 体育の日の朝、町内運動会の校庭には、焼きたてのパンの匂いが流れていた。
 水谷杏は、鉄棒と鉄棒の間に渡したロープへ、小袋入りのパンを一つずつ洗濯ばさみで留めていた。あんパン、クリームパン、ジャムパン。全部で九十六個。風が吹くたび、透明な袋がぱたぱた鳴る。
 「もう少し高くした方がいいんじゃない?」
 脚立の下から、パン屋の店主である野本が言った。
 「子どもの部はこれでいいんです。高すぎると、パン食い競走じゃなくてパン鑑賞会になります」
 杏は巻き尺を確認し、次の洗濯ばさみを留めた。
 二十五歳。駅前の小さなパン屋「麦日和」で働いている。今日の仕事は、店が協賛するパン食い競走の準備と配布。それ以外は何もしない約束だった。
 「念のため言っておきますけど、私は走りませんからね」
 「体育の日に校庭まで来て、それを言うのも立派だな」
 「仕事で来ています」
 杏は運動が嫌いだった。
 中学最後の体育祭では、百メートル走の途中で靴が脱げた。拾いに戻ったところ、観客席から「律儀!」と声援を受けた。それ以来、運動会では得点係、放送係、写真係を選び続けてきた。
 空はよく晴れていた。校庭の端に並ぶ桜の葉は、緑の中へ赤を混ぜ始めている。金木犀の匂いを運んでくる風は涼しく、日向に立っていても汗ばまない。
 開会式が終わると、玉入れ、大縄跳び、障害物競走が次々に始まった。
 杏は本部テントの横で、パンの在庫表をつけていた。子どもの部が三十二個。親子の部が二十四個。大人の部が二十四個。予備が十六個。
 完璧だった。
 午前十一時、青組の班長が青い顔で走ってきた。
 「大人のパン食い競走、一人足りない!」
 杏は在庫表から顔を上げなかった。
 「受付で探してください」
 「受付にいる人は、みんな自分の競技があるんだよ」
 「応援席は?」
 「腰が痛い人と、膝が痛い人と、昼から飲む人しかいない」
 「最後の人は走れるでしょう」
 「もう飲んでる」
 班長は杏の腕をつかみ、出場者の列へ引っ張ろうとした。
 杏はテントの柱につかまった。
 「私はパン係です!」
 「パンに一番詳しい人が出ればいい!」
 「パンへの知識は走力に換算されません!」
 押し問答を見ていた野本が、杏の背中を軽く押した。
 「店の宣伝になるぞ」
 「転んだ店員のいるパン屋として?」
 「それも親しみやすい」
 気づけば、杏は青いはちまきを巻かれ、スタートラインに立っていた。
 競技は二十メートル先のパンへ走り、手を使わずに袋をくわえ、そのままゴールするだけだ。
 簡単そうに見える。
 ただし今日は、風がある。
 ロープにつるされたパンは、右へ左へ大きく揺れていた。
 「位置について」
 杏の両隣では、普段から走っていそうな男女が腰を落とした。杏だけは、転ばないように両足を少し広げて立った。
 ピストルが鳴った。
 六人が一斉に走り出す。
 杏は開始三歩で最下位になった。
 応援席から「パン屋さん、頑張れ!」と声が飛ぶ。
 「店名で応援してください!」
 返事をしたせいで、さらに差が開いた。
 先頭の三人はパンへ到着したが、袋をうまくくわえられない。顔を近づけるたび、パンが風に押されて逃げる。あんパンへ噛みつこうとした男性は空振りし、勢い余って隣のクリームパンへ額をぶつけた。
 杏は走るのをやめた。
 ロープの前で、揺れるパンを見る。
 軽いジャムパンは細かく速い。あんパンは重いが、袋が丸く滑りやすい。クリームパンは少し平たく、風を受ける面積が広い。
 一番端のコッペパンだけ、ほとんど揺れていなかった。
 袋の下へ長く垂れた留め口が、重りになっている。
 杏は一歩横へ移動し、パンが戻ってくるのを待った。
 右。
 左。
 もう一度、右。
 次に中央へ来た瞬間、袋の端をくわえた。
 洗濯ばさみが外れる。
 「あっ、取った!」
 誰かが叫んだ。
 杏はコッペパンを口にぶら下げ、ゴールへ向かった。先に到着していた五人は、まだ逃げるパンと格闘している。
 走るというより、落とさないように小刻みに進んだ。それでも一着だった。
 ゴールテープを切ると、青組の応援席から大きな拍手が起きた。
 杏はパンを口から外した。
 「今のは運動能力ではありません。商品知識です」
 審判役の自治会長が笑った。
 「立派な競技能力だよ」
 「来年からパン屋は別枠にしてください」
 勝利の余韻もないまま、杏はすぐにロープの点検へ戻った。
 その時、校庭を強い風が抜けた。
 鉄棒に結んでいたロープの片側が外れ、残っていたパンが一斉に宙へ舞った。
 「あっ!」
 ジャムパンが白線の上を転がり、クリームパンが本部テントの下へ滑り込む。あんパンは袋を膨らませながら、校庭の隅へ向かって跳ねていった。
 子どもたちが歓声を上げた。
 杏は反射的に走り出した。
 「踏まないで! 拾った人は本部へ! 食べながら逃げない!」
 一個を拾い、二個目を追い、三個目が水飲み場へ落ちる前に滑り込む。さっきの競走より、明らかに速かった。
 運動会の参加者も、応援に来ていた人も加わった。
 赤組の班長があんパンを捕まえ、白組の小学生がジャムパンを両手で掲げる。腰が痛いと言っていた老人まで、足元へ転がってきたクリームパンを杖で止めた。
 最後の一個は、風に押されて校門へ向かっていた。
 杏は全力で追いかけた。
 あと三メートル。
 二メートル。
 門の外へ出る寸前、前から歩いてきた女性が、パンの袋を片手で受け止めた。
 女性は犬の散歩中だった。柴犬が、袋の中身を真剣に見上げている。
 「これ、落としました?」
 「町内全体で落としました」
 杏は膝に手をつき、息を整えた。
 女性は校庭を見た。大人も子どもも、拾ったパンを持ってこちらへ走ってくる。
 「ずいぶん大がかりですね」
 「体育の日なので」
 説明になっていない気もしたが、女性は納得したようにパンを渡してくれた。
 午後三時、閉会式が終わった。
 総合優勝は青組だった。二位との差は、わずか一点。杏がパン食い競走で取った一着の点が、そのまま勝敗を分けた。
 青組の班長は、紙で作った金メダルを杏の首へかけた。
 中央には、油性ペンで《パン最優秀選手》と書かれている。
 「その部門、参加者は私だけですよね」
 「だから文句なしだ」
 野本は売れ残ったコッペパンを一本、杏へ渡した。
 「来年も頼むな」
 「準備だけなら」
 「走るの、速かったじゃないか」
 「パンが逃げた時だけです」
 帰り道、杏は金メダルを外さずに歩いた。
 夕方の風は朝より冷たく、校庭から聞こえていた笛や拍手も、角を曲がると遠くなった。手の中のコッペパンは少しつぶれていたが、かじるとまだ柔らかかった。
 翌年の参加申込書には、杏の名前がすでに書かれていた。
 出場種目の欄は《パン食い競走》。
 備考欄には、野本の字でこう添えられていた。
 《逃走するパンの捕獲を含む》

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梨は、だいたい重い

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リスが階段を降りるころ

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