秋旅行、予定表から三時間外れます
午前十時十二分、篠原灯里の秋旅行は、駅前ロータリーで停止した。
「紅葉渓谷行きの臨時バスは、倒木のため運休します」
係員が掲げた紙を見て、灯里はスマートフォンと腕時計を交互に確認した。
十時十五分、駅前発。
十時五十八分、紅葉渓谷着。
十一時十分、展望台。
十二時二十分、栗おこわ定食。
十三時四十分、吊り橋。
十五時五分、栗のモンブラン。
十六時三十分、旅館へ到着。
予定表は五分単位で作ってある。
それなのに、出発前から乗り物が消えた。
「次の路線バスは?」
灯里が尋ねると、係員は時刻表を指さした。
「十二時二十分です」
「二時間後…」
「今日は三連休ですから、タクシーも一時間待ちですね」
「歩くと?」
「一時間半くらいです。ただ、坂道ですよ」
灯里は足元を見た。
新品の焦げ茶色のショートブーツ。片手には小さなキャリーケース。肩にはカメラ。
歩けないことはない。
ただし、彼女が作った予定表に《山道をキャリーケースで一時間半引きずる》という項目はなかった。
灯里は二十八歳。旅行予約アプリの品質管理を担当している。
利用者が予約時間を間違えないか。乗り換え案内に無理がないか。観光施設の営業時間が正しいか。毎日、他人の旅程に潜む不具合を探している。
今回の旅行は、その仕事から離れるための一泊二日だった。
ただ、仕事から離れる方法として、旅程を完璧に組むことを選んだ時点で、あまり離れられてはいない。
駅前の観光案内所でもらった地図を広げると、紅葉渓谷へ向かう道の途中に《花野原集落》という小さな文字があった。
そこまでなら、徒歩四十分。
灯里はキャリーケースの取っ手を伸ばした。
「四十分なら誤差」
自分へ言い聞かせ、歩き始めた。
最初の十分は快適だった。
空は薄い青で、山の斜面には赤や黄色が混じっている。民家の庭先には柿が実り、道路脇のススキは風に合わせて穂を傾けていた。
空気は冷たいが、歩いているとコートの中が少し暑くなる。
二十分後、歩道が消えた。
三十分後、坂が始まった。
三十五分後、キャリーケースの車輪へ栗のいがが刺さった。
「あなたは荷物であって、山岳装備ではないの」
灯里は道端へしゃがみ、いがを小枝で外した。
立ち上がったところで、背後から軽トラックの音が近づいてきた。
荷台には赤いりんごの箱が積まれている。運転しているのは、白い帽子をかぶった女性だった。
軽トラックは灯里の横で止まった。
「どこまで行くの?」
「紅葉渓谷です」
「方向は合ってるけど、その箱で行くの?」
女性はキャリーケースを指さした。
「箱ではありません」
「似たようなものよ。乗っていく?」
灯里は少し迷った。
旅行アプリの安全対策記事には、《知らない人の車へ安易に乗らない》と書かれている。
一方、目の前の女性は七十代くらいで、助手席には大根が三本乗っていた。
「花野原の集会所までなら送るよ」
灯里は大根と女性を見比べた。
「お願いします」
キャリーケースを荷台へ載せ、助手席の大根を足元へ移す。
軽トラックが走り出すと、灯里の予定表から十分遅れ、二十分遅れ、三十分遅れという表示が次々に消えていった。すでに修正できる範囲を超えたため、考えるのをやめたのである。
女性の名前は梅原千代だった。
りんご農家で、収穫したばかりの品を集会所へ運ぶ途中らしい。
「渓谷へ何しに行くの?」
「紅葉を見て、吊り橋を渡って、栗おこわを食べます」
「忙しいね」
「一泊二日なので」
「二日もあるのに?」
灯里には返す言葉がなかった。
花野原集会所の前には、地元の人たちが集まっていた。
長机の上には、りんご、里芋、きのこ、栗、漬物。奥の大鍋からは湯気が上がっている。
《秋の収穫市》と書かれた横断幕が、風で半分に折れていた。
「ちょうどいいところに来た!」
軽トラックを降りた千代が叫んだ。
「若い手が一人増えたよ!」
「違います。私は観光客です」
灯里が訂正したが、誰も聞いていなかった。
荷台からりんご箱を下ろした直後、集会所の裏から突風が吹いた。
長机に積まれていた紙袋が浮き上がり、りんごが一つ転がった。
それを追うように、二つ、三つ、十個。
赤いりんごが坂道を一斉に下り始めた。
「止めて!」
灯里は反射的に走った。
一個を足で止め、二個目を拾い、三個目をキャリーケースでせき止める。地元の子どもたちも追いかけ、長靴姿の男性が道路へ飛び出す。
最後の一個は用水路へ落ちる寸前で、灯里のブーツの爪先に当たって止まった。
「すごいじゃない」
千代が拍手した。
灯里は膝へ手をつき、息を切らした。
「旅行へ来て、どうしてりんごを追ってるんでしょう」
「秋だからじゃない?」
説明になっていない。
集めたりんごを箱へ戻すと、千代は灯里へ一個渡した。
「傷ついちゃったから、これ食べて」
「でも、紅葉渓谷へ…」
「バスなら、あと二十分で来るよ」
集落の前にも路線バスが止まるらしい。
灯里は時刻表を見た。
予定していた栗おこわ定食には間に合わない。
吊り橋も、モンブランも難しい。
旅館への到着時刻だけは守れるかもしれない。
彼女は受け取ったりんごをコートのポケットへ入れ、集会所の端でバスを待った。
すると、大鍋をかき混ぜていた男性が声をかけてきた。
「きのこ汁、食べていく?」
「バスが二十分後なので」
「食べるには十分だね」
渡された椀には、しめじ、舞茸、大根、里芋が入っていた。
湯気と味噌の匂いが冷えた鼻先をくすぐる。里芋は熱く、慌てて噛むと舌をやけどしそうになった。
「ゆっくり食べなよ」と千代が笑った。
灯里は腕時計を見た。
残り十六分。
きのこ汁をもう一口飲む。
残り十四分。
漬物を勧められる。
残り十一分。
地元の小学生に、りんごの品種を三つ説明される。
残り七分。
焼き栗が配られる。
予定表どおりに動いていた時より、時間の進み方が速い。
バスの姿が坂の下に見えると、集会所の人たちが一斉に手を振った。
灯里は慌ててキャリーケースを引き、停留所へ走った。
乗車して窓際へ座ると、千代が外から大きな袋を差し出した。
「旅館で食べな」
中には、りんごが二個、焼き栗が五個、漬物の小袋が入っていた。
「こんなにもらえません」
「りんごを助けた報酬」
「半分くらいしか助けてません」
「残りは、キャリーケースが助けた分」
バスが動き出した。
灯里が頭を下げると、集会所の人たちは、彼女が見えなくなるまで手を振っていた。
紅葉渓谷へ着いたのは、午後二時四十五分だった。
吊り橋へ向かう時間はない。
モンブランの店には《本日完売》の札が出ていた。
展望台へ続く遊歩道も、前日の雨で一部閉鎖されている。
予定していたものは、ほとんど残っていなかった。
灯里はバス停のベンチへ座り、ポケットのりんごを取り出した。
表面には小さな傷がある。
かじると、乾いた音がした。甘さのあとに少し酸味があり、冷たい果汁が口に広がる。
目の前を流れる川には、赤い楓が数枚落ちていた。
有名な展望台ではない。吊り橋も写らない。土産物店の裏手で、観光客もほとんどいなかった。
それでも、川面に映る紅葉はきれいだった。
灯里はカメラを構えた。
何枚か撮ったあと、スマートフォンが震えた。
旅行アプリからの通知だった。
《予定していた観光地へ到着しましたか?》
灯里は《いいえ》を選んだ。
続いて、理由の選択肢が表示される。
《交通機関の遅延》
《悪天候》
《施設の休業》
《道に迷った》
《その他》
灯里は《その他》を押した。
自由記入欄へ、親指で入力する。
《りんごを追いかけていたため》
少し考え、さらに付け足した。
《特に問題なし》
翌朝、灯里は予定より三十分遅く旅館を出た。
寝坊したわけではない。
朝食で出された新米がおいしく、おかわりを二回したからだった。
駅へ向かうバスの中で、彼女は旅行アプリの改善案をメモした。
《予定変更時、近隣の小規模イベントを案内する》
《徒歩経路では坂道と路面状況を強調する》
《旅程に余白を設定できる機能》
最後の一行には、こう書いた。
《余白は最低二時間。りんご発生時は延長》
窓の外では、朝日に照らされた山が赤や黄色に染まっている。
灯里はスマートフォンを鞄へしまい、今度は到着時刻を確認しなかった。
「紅葉渓谷行きの臨時バスは、倒木のため運休します」
係員が掲げた紙を見て、灯里はスマートフォンと腕時計を交互に確認した。
十時十五分、駅前発。
十時五十八分、紅葉渓谷着。
十一時十分、展望台。
十二時二十分、栗おこわ定食。
十三時四十分、吊り橋。
十五時五分、栗のモンブラン。
十六時三十分、旅館へ到着。
予定表は五分単位で作ってある。
それなのに、出発前から乗り物が消えた。
「次の路線バスは?」
灯里が尋ねると、係員は時刻表を指さした。
「十二時二十分です」
「二時間後…」
「今日は三連休ですから、タクシーも一時間待ちですね」
「歩くと?」
「一時間半くらいです。ただ、坂道ですよ」
灯里は足元を見た。
新品の焦げ茶色のショートブーツ。片手には小さなキャリーケース。肩にはカメラ。
歩けないことはない。
ただし、彼女が作った予定表に《山道をキャリーケースで一時間半引きずる》という項目はなかった。
灯里は二十八歳。旅行予約アプリの品質管理を担当している。
利用者が予約時間を間違えないか。乗り換え案内に無理がないか。観光施設の営業時間が正しいか。毎日、他人の旅程に潜む不具合を探している。
今回の旅行は、その仕事から離れるための一泊二日だった。
ただ、仕事から離れる方法として、旅程を完璧に組むことを選んだ時点で、あまり離れられてはいない。
駅前の観光案内所でもらった地図を広げると、紅葉渓谷へ向かう道の途中に《花野原集落》という小さな文字があった。
そこまでなら、徒歩四十分。
灯里はキャリーケースの取っ手を伸ばした。
「四十分なら誤差」
自分へ言い聞かせ、歩き始めた。
最初の十分は快適だった。
空は薄い青で、山の斜面には赤や黄色が混じっている。民家の庭先には柿が実り、道路脇のススキは風に合わせて穂を傾けていた。
空気は冷たいが、歩いているとコートの中が少し暑くなる。
二十分後、歩道が消えた。
三十分後、坂が始まった。
三十五分後、キャリーケースの車輪へ栗のいがが刺さった。
「あなたは荷物であって、山岳装備ではないの」
灯里は道端へしゃがみ、いがを小枝で外した。
立ち上がったところで、背後から軽トラックの音が近づいてきた。
荷台には赤いりんごの箱が積まれている。運転しているのは、白い帽子をかぶった女性だった。
軽トラックは灯里の横で止まった。
「どこまで行くの?」
「紅葉渓谷です」
「方向は合ってるけど、その箱で行くの?」
女性はキャリーケースを指さした。
「箱ではありません」
「似たようなものよ。乗っていく?」
灯里は少し迷った。
旅行アプリの安全対策記事には、《知らない人の車へ安易に乗らない》と書かれている。
一方、目の前の女性は七十代くらいで、助手席には大根が三本乗っていた。
「花野原の集会所までなら送るよ」
灯里は大根と女性を見比べた。
「お願いします」
キャリーケースを荷台へ載せ、助手席の大根を足元へ移す。
軽トラックが走り出すと、灯里の予定表から十分遅れ、二十分遅れ、三十分遅れという表示が次々に消えていった。すでに修正できる範囲を超えたため、考えるのをやめたのである。
女性の名前は梅原千代だった。
りんご農家で、収穫したばかりの品を集会所へ運ぶ途中らしい。
「渓谷へ何しに行くの?」
「紅葉を見て、吊り橋を渡って、栗おこわを食べます」
「忙しいね」
「一泊二日なので」
「二日もあるのに?」
灯里には返す言葉がなかった。
花野原集会所の前には、地元の人たちが集まっていた。
長机の上には、りんご、里芋、きのこ、栗、漬物。奥の大鍋からは湯気が上がっている。
《秋の収穫市》と書かれた横断幕が、風で半分に折れていた。
「ちょうどいいところに来た!」
軽トラックを降りた千代が叫んだ。
「若い手が一人増えたよ!」
「違います。私は観光客です」
灯里が訂正したが、誰も聞いていなかった。
荷台からりんご箱を下ろした直後、集会所の裏から突風が吹いた。
長机に積まれていた紙袋が浮き上がり、りんごが一つ転がった。
それを追うように、二つ、三つ、十個。
赤いりんごが坂道を一斉に下り始めた。
「止めて!」
灯里は反射的に走った。
一個を足で止め、二個目を拾い、三個目をキャリーケースでせき止める。地元の子どもたちも追いかけ、長靴姿の男性が道路へ飛び出す。
最後の一個は用水路へ落ちる寸前で、灯里のブーツの爪先に当たって止まった。
「すごいじゃない」
千代が拍手した。
灯里は膝へ手をつき、息を切らした。
「旅行へ来て、どうしてりんごを追ってるんでしょう」
「秋だからじゃない?」
説明になっていない。
集めたりんごを箱へ戻すと、千代は灯里へ一個渡した。
「傷ついちゃったから、これ食べて」
「でも、紅葉渓谷へ…」
「バスなら、あと二十分で来るよ」
集落の前にも路線バスが止まるらしい。
灯里は時刻表を見た。
予定していた栗おこわ定食には間に合わない。
吊り橋も、モンブランも難しい。
旅館への到着時刻だけは守れるかもしれない。
彼女は受け取ったりんごをコートのポケットへ入れ、集会所の端でバスを待った。
すると、大鍋をかき混ぜていた男性が声をかけてきた。
「きのこ汁、食べていく?」
「バスが二十分後なので」
「食べるには十分だね」
渡された椀には、しめじ、舞茸、大根、里芋が入っていた。
湯気と味噌の匂いが冷えた鼻先をくすぐる。里芋は熱く、慌てて噛むと舌をやけどしそうになった。
「ゆっくり食べなよ」と千代が笑った。
灯里は腕時計を見た。
残り十六分。
きのこ汁をもう一口飲む。
残り十四分。
漬物を勧められる。
残り十一分。
地元の小学生に、りんごの品種を三つ説明される。
残り七分。
焼き栗が配られる。
予定表どおりに動いていた時より、時間の進み方が速い。
バスの姿が坂の下に見えると、集会所の人たちが一斉に手を振った。
灯里は慌ててキャリーケースを引き、停留所へ走った。
乗車して窓際へ座ると、千代が外から大きな袋を差し出した。
「旅館で食べな」
中には、りんごが二個、焼き栗が五個、漬物の小袋が入っていた。
「こんなにもらえません」
「りんごを助けた報酬」
「半分くらいしか助けてません」
「残りは、キャリーケースが助けた分」
バスが動き出した。
灯里が頭を下げると、集会所の人たちは、彼女が見えなくなるまで手を振っていた。
紅葉渓谷へ着いたのは、午後二時四十五分だった。
吊り橋へ向かう時間はない。
モンブランの店には《本日完売》の札が出ていた。
展望台へ続く遊歩道も、前日の雨で一部閉鎖されている。
予定していたものは、ほとんど残っていなかった。
灯里はバス停のベンチへ座り、ポケットのりんごを取り出した。
表面には小さな傷がある。
かじると、乾いた音がした。甘さのあとに少し酸味があり、冷たい果汁が口に広がる。
目の前を流れる川には、赤い楓が数枚落ちていた。
有名な展望台ではない。吊り橋も写らない。土産物店の裏手で、観光客もほとんどいなかった。
それでも、川面に映る紅葉はきれいだった。
灯里はカメラを構えた。
何枚か撮ったあと、スマートフォンが震えた。
旅行アプリからの通知だった。
《予定していた観光地へ到着しましたか?》
灯里は《いいえ》を選んだ。
続いて、理由の選択肢が表示される。
《交通機関の遅延》
《悪天候》
《施設の休業》
《道に迷った》
《その他》
灯里は《その他》を押した。
自由記入欄へ、親指で入力する。
《りんごを追いかけていたため》
少し考え、さらに付け足した。
《特に問題なし》
翌朝、灯里は予定より三十分遅く旅館を出た。
寝坊したわけではない。
朝食で出された新米がおいしく、おかわりを二回したからだった。
駅へ向かうバスの中で、彼女は旅行アプリの改善案をメモした。
《予定変更時、近隣の小規模イベントを案内する》
《徒歩経路では坂道と路面状況を強調する》
《旅程に余白を設定できる機能》
最後の一行には、こう書いた。
《余白は最低二時間。りんご発生時は延長》
窓の外では、朝日に照らされた山が赤や黄色に染まっている。
灯里はスマートフォンを鞄へしまい、今度は到着時刻を確認しなかった。