失っていた想い出

 太陽の恵みの光が雲に遮られ、間隙から柔らかな赤い光が谷地下団地を、そして、想い出の公園を照らしていた。湊はその公園へと急ぎ足で向かっていた。
 公園の入り口近くに、金色の長い髪を風になびかせたオリビアの姿があった。既に彼女の姿は湊の想い出の中とは異なっている。厚めの化粧を施し、肩の露出したフリルの装飾が施された白いトップスをまとっていた。
 湊がオリビアの方へと歩み寄ると、彼女が不機嫌そうな表情を浮かべる。
「遅い」
 湊が近くに存在する時計台に視線を向けると、短針と長針が「十六時十五分」を指していた。約束の十六時を過ぎていることに気づいた、湊は顔の前に手を合わせて謝罪する。
「ごめん。遅れたね」
 しかし、その謝罪は受け入れられたのか分からないまま、オリビアがため息をつく。彼女の瞳は湊の顔を見つめてくる。
「まあいいわ。それで、今日はどこに連れて行ってくれる?」
「ユアーデイズはどう?」
「どうせ、あのイタリアンのお店でしょ?」
 オリビアの言葉に湊が舌打ちをする。確かに、あのイタリアンの店はデートの選定から外れることが多い。しかし、手頃な価格で美味しい料理を提供してくれる店なのだ。かつて、オリビアもあの店を楽しんでいたはずだが、今の彼女の舌には相応しくなくなってしまったのだろう。
「なら、近所の商店街で良いわ」
 オリビアはそう告げると、公園からバスの停留所に向かう道を歩き始める。湊は驚きつつも、彼女の背中を追って歩き始める。
シャッター街になりつつある商店街で、オリビアが何を求めているのかが湊には想像もつかなかった。今の彼女好みの店が商店街にあるとは思えなかったのだ。
 二人が並んで歩いていると、オリビアが湊に向けて声をかけてくる。
「湊は高校時代に、ユアーデイズの一階のスーパーでバイトをしていたよね」
 オリビアの言及してきたアルバイトの経験は、湊には苦い記憶だった。常にミスを指南され、叱責されていた日々。一方、彼の子供時代は楽しい想い出が多く存在したのだが、その話題になると、彼女の口数が減ってしまうのだ。
 しばらく歩くと、湊たちが歩く道の左方向に僅かな賑わいが見えてくる。それは「谷地下台団地商店街」の姿であった。彼らはその方向に歩を進めていく。
 湊たちが商店街に足を踏み入れると、右手に駄菓子屋が立っていた。湊の心に、幼い頃にオリビアと遊びに来ていた光景が浮かび上がってくる。彼はその場所を指差しながら微笑む。
「懐かしいね。一つ買ってく?」
「止めとくわ。今だから言うけど、貴方に付き合っていただけ。本当は好きじゃない味だったわ」
 オリビアの言葉は湊に軽い衝撃を走らせる。確かに彼女が熱心に駄菓子を選んでいた姿は記憶になかった。
 湊たちは気まずい雰囲気のまま、商店街の奥に進んでいく。案の定、多くの店はシャッターを閉め、活気のあった昔の面影はなかった。湊は、オリビアがこの場所を選んだ理由が分からなかった。
「・・・まるで、時間が止まったような商店街ね」
「悪くないんじゃないかな? 変わりすぎるってのも寂しいよ」
 湊の言葉を受けた、オリビアの瞳には悲しみが宿っていた。
「でも、時間は動くものだわ」
 時間が動くものなど、湊とて理解している。しかし、その時間の流れの赴くままに変わりすぎるのも如何程なものだろうか。
 二人が歩いていると、犬の鳴き声が聞こえてきた。湊がそちらに線を向けると、そこにはペットショップが広がっていた。オリビアがその店に向かっていくと、湊もそれを追うように歩を進めていく。
 店内には、さまざまな動物たちがケージに入れられ、新しい家族を待っていた。中には、「家族に迎え入れられました」と掲げられているケージもあれば、高い年齢でも家族が見つかっていない者もいた。
 オリビアが笑みを浮かべながら、チワワらしき犬種が閉じ込められているケージに歩み寄っていく。
「可愛いね」
 湊もその小さな犬の姿に心を奪われる。その大きな瞳は、愛される為に生まれてきたようであった。しかし、湊はケージに付いている値札に目を白黒させる。彼の月給を上回る価格がそこには提示されていたのだ。
 しばらくの間、チワワを見つめていたオリビアだったが、足取りを店の奥に進めていく。湊はそれを追ったが、彼女が何を考えているのかを計りかねていた。ペットを飼いたいのであろうか。
 店の奥には、ケージに閉じ込められ、餌を食べている白い兎の姿が現れる。兎の可愛らしい姿を見つめる湊の顔は思わず緩んでしまう。
 湊がケージの近くの値段に視線を向けると手の届く値段が掲げられていた。それは、何度かの食事を節約すれば購入できるように思える。オリビアの笑顔を見られるのであれば安い物だろう。
「ははっ、良ければ俺がプレゼントするよ。初めてのプレゼントかな?」
「・・・やっぱり、忘れちゃっているの?」
 湊が期待していた笑顔とは裏腹に、彼女の瞳には憂いが帯びていた。そして、オリビアは足早にペットショップの出入り口に向かっていってしまう。
 湊は彼女の背中を追いながら、何が問題だったのかを考えていた。それは「初めてのプレゼント」という言葉が起因であるように思えた。もしかして、過去に彼は、既に彼女に大切な贈り物をしていたのではないだろうか。
 湊がオリビアの背中を追っていると、彼女が右に曲がって行ってしまう。そこには、広めの広場があったはずであった。
 湊が広場に足を踏み入れると、オリビアとの距離が縮まっていく。彼は彼女の背中に近づくと、オリビアの細い腕を掴む。
「突然、どうしたんだよ?」
 オリビアがゆっくりと湊の方を振り向いた。その瞳には光が揺れていた。湊は彼女の瞳に溜まる涙を見て、言葉を失う。
「貴方は忘れてしまったの? 幼い私にくれたあの兎のぬいぐるみの子のことさえも」
「兎のぬいぐるみ?」
 湊の脳裏には、慈愛の従者と純の世界の自分が拘っていたぬいぐるみの姿も浮かんでくる。そして、それと同時に、幼いオリビアが兎のぬいぐるみを両手に抱えている姿が浮かび上がって来る。
「そうか。あのぬいぐるみは俺が君にプレゼントした・・・」
 湊はオリビアを掴んでいた手を離し、俯く。いつの間にか、幼き頃の大切な想い出を記憶の彼方に追いやってしまっていた。
「私には小さな神様がくれた大切な物だったわ」
「す、すまない。だが、違うんだ」
 湊は否定したが言葉が続かなかった。オリビアがハンカチで目元を拭うと、彼女の瞳からは涙が消え去っていた。
「でも、これで区切りがついたわ。これで、私は過去を忘れて、前に進める」
 その時、湊の頭に水の滴が落ちてくる。天に浮かぶ雲たちは湊たちの期待を裏切り、雨を地上に叩きつけ始めていた。湊はオリビアを導けない自らの不甲斐なさから、両の拳を強く握る。
「でも、それで、美沙の真似をして、自分を見失うっていうのか?」
「人は変わっていく。貴方も私も。やっぱり、あの時には戻れないのよ」
「戻れるさ! 君が昔に戻れば」
 《以前》ではなく、《昔》。その選んだ言葉に、湊自身も驚きを隠せなかった。魂の戦いが始まる前まで、オリビアは清廉潔白なままだった。ただ、彼の指す昔とは、その時を指していないのだろう。
「・・・それなら、私は貴方を置いて前に進むわ」
 オリビアは苦しみと悲しみを混ぜた表情をしながら、湊を後にして商店街の出入口に向かって行ってしまう。湊は彼女の背中を追いかける気力すら湧かないまま、その場に立ち尽くす。天から降り注ぐ涙が彼の身体を湿らせていき、それは湊の心境を表しているようであった。
 その時、湊のポケットからスマートフォンの着信音が鳴り響いた。彼はゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出し、眼前に移動させる。そこには、リアムの名前が映し出されており、彼はその着信に応えることにする。
「湊、近日中に会えないかな?」
 それはリアムの声か疑うような低く小さなものであった。どこか、異様な雰囲気が漂っているように湊は感じたが、今は誰かと話したかった。
「ああ、良ければ今日にでも」
「そう。なら、船橋の教会に来られないかな?」
 湊はその言葉に了承すると通話を切り、商店街への入り口に歩き出す。

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