新しき神

 その部屋は、西洋の古典的な邸宅を彷彿とさせるものだった。天井は高く、壁には繊細な装飾が施されていた。その壁に沿って、クラシックなデザインの本棚や机、椅子が整然と並び、どれも高価な物に見えた。しかし、それらの全てのものの色合いは褪せていた。
 ベッドは五つ星ホテルにも劣らない豪華さで、湊を暖かく包む上質な布団は、夢の世界への誘惑を助けていた。しかし、今の彼には安らぎの睡眠は許されない。湊はゆっくりとまぶたを開け、上半身を持ち上げた。
 湊は周囲を見渡すが、彼の記憶には存在しない部屋だった。しかし、この白い空間は彼に魂の戦いに呼び出されたことを予測させるには十分だった。湊が出口を探すために視線を巡らせると、部屋の片隅に白い扉が目に飛び込んでくる。
 湊は素早く起き上がると、その白い扉に向かって歩を進めていった。魂の戦いであれば、必ずどこかに仲間がいるはずである。
 湊が扉を開けると、そこには石造りの廊下が広がっていた。重厚な雰囲気を醸し出すその廊下には、数々の部屋へ誘う扉が存在していた。しかし、湊はそれを横目に、廊下の先へと歩を進めた。
 道の終わりには白い壁と扉が立ち塞がった。彼は扉の取手を手に握り、ゆっくりと扉を開ける。
 扉がゆっくりと二つに割れると、そこには多くの椅子が配置された広い部屋が広がっていた。一瞬、船橋にある教会の聖堂を思わせたが、湊の目に飛び込んできたのは、その部屋の異常性であった。その部屋の椅子には、大勢の幽霊のような透明な人間が空きのないほど座っていたのだ。その光景は彼の背筋を寒くさせる。
 椅子に座る幽霊の視線は大きな机に集まっていた。そして、そこには透明な司祭が手を広げて立っていた。その司祭の姿は、以前、湊が船橋で会った初老の男に思えた。
 湊は部屋に足を踏み入れ、司祭の前まで歩を進めたが、彼は全く反応を示さなかった。司祭の視線は、湊を無視して依然として信者に向けており、まるで彼自身が幽霊になったような気分に陥ってしまう。
「キョウ、アラタナカミガカクセイサレル」
「カミサマ、ミチビキヲ!」
 司祭の言葉に呼応するように、教徒のような者たちの声が響き渡る。その声は、抑揚がなく不気味に響いていた。その声に同調するように、彼らには表情が失われており、湊に一層不快感を持たせていた。
 湊は彼らの言葉の意味が不可解であった。「新たな神が覚醒される」とは何を指しているのだろうか。
「貴方のことですよ」
 突如、機械的な声が湊の耳に届いてくる。彼が振り返ると、湊が先ほど入ってきた扉に寄りかかっている希望の従者の姿があった。
「俺が新たな神だと言いたいの?」
 湊が問いかけると、希望の従者が微笑を浮かべながら彼に歩み寄ってくる。その笑顔は以前と変わらず、顔に貼り付けたような気味の悪い笑みだ。
「ええ、その通りです。貴方こそが真の神です。是非、神を名乗り、我々を導いて頂きたい。ただ、貴方が神を名乗るならば、この世界の小林湊が邪魔になる」
 希望の従者の言葉は、湊がどこかで耳にしたものと似ていた。湊は希望の従者の顔に視線を集中させる。フードの中には、金髪で端正な顔立ちが隠れているのではないだろうか。湊は鎌を掛けることにする。
「リアム、俺は神なんかじゃないよ」
「何か誤解をされているようです。私はそのような者ではありません。神の従者なのですから」
 希望の従者の声は機械的であるにも関わらず、その言葉には強い意思を感じた。しかし、湊は見逃さなかった。彼の不気味な笑みが一瞬消えた瞬間を。
 しかし、希望の従者は、今の神に対して情は持ち合わせていないのだろうか。首をすげ替えるような考えは、あまりにも残酷といえた。
「今の神に情は無いの?」
「そろそろ、我々も前に進みたい。並行世界を生み出す偽の神は打ち倒さないとなりません。貴方の神なる力、そして、その御意志に期待したいのです。私たちも最大限のご助力をさせて頂きます」
 希望の従者の提案は魅力的に思えた。この提案を受け入れれば、彼ら従者たちが湊たちの味方として行動してくれるように思える。そして、それは慈愛の従者と戦わないで済むことを意味する。万が一、湊自身の手で彼女を消すような事態になれば、彼の心は大きな傷を負うだろう。
「それは、貴方たち神の従者も味方になってくれるということ?」
「ええ、もちろん。我々は神に従う者たち。貴方が神になる決意をし、我々の力を使ってくださるのであれば、それは栄誉です」
 希望の従者が湊の前に進み出て、手を差し伸べてくる。この手を握った瞬間、湊は神としての役割を受け入れることになるのだろうか。
 湊の心の中に慈愛の従者の顔が浮かび上がって来る。くだらない世界に関わることなく、あの子と悠久の時を過ごすことも魅力的に思えてきたのだ。湊は希望の従者の伸ばしてきた手に応えようと手を上げる。
 しかし、その瞬間、教会の入口の扉の方から大きな音が響き渡った。そこには、リアム、草薙、そして、破壊の従者の姿があった。
 希望の従者がそちらの方向に視線を向ける。その口元からは先程までの笑みが消え、身体からは不穏な空気を放っていた。
「破壊の従者よ。なぜ、彼らを連れて来た」
「かっかっか。教義に従えよ。魂の戦いとは団体戦だぜ」
「余計な事をするな。今、大切な話をしているのだ。消えろ」
 希望の従者が威圧的な言葉を投げると、破壊の従者との間に緊張感が走る。そして、希望の従者が足を一歩踏み出すと、破壊の従者が僅かに後退りする。
「・・・怖い怖い。それじゃ、あっしは別件があるんで」
 破壊の従者の姿が徐々に薄れ、ついには完全に消え去ってしまう。
 すると、希望の従者の口元に再び歪んだ笑みが浮かび上がる。
「神よ。思わぬ客人が来て、申し訳ありません。それでは神になるご覚悟を」
 希望の従者の言葉が終わると、リアムが駆け寄ってき、湊と希望の従者の間に立ちはだかる。
「湊を貴方の神託の道具にはさせない」
「神託は神からのお言葉ですよ? 従うのが当然でしょう」
「それは間違っている。もっと、湊の意思に耳を傾けるべきだ」
 リアムの言葉を受けると、神の従者の口元から、不気味な笑みが消え去る。
「君は只のシン教の教徒だろ? 分をわきまえなさい。神託こそが神の声で絶対だ・・・」
「なら、貴方が神様と呼んでいる者の言葉と、貴方の聞く神託の言葉は一致しているのか?」
「黙れ」
 希望の従者の冷静さは影を潜め、心の動揺が現れているように思えた。彼はリアムの身体に手を伸ばしてきたが、その手は素早くリアムの手に掴まれてしまう。
 希望の従者はリアムの掴んでいる手を振り払おうとしたが、それが状況を一変することはなかった。その状況に彼の口が小さく開いていた。
「お前は、中々、良い魂力を持っているな。だが・・・」
 希望の従者が力強く手を動かす。その瞬間、リアムは壁に強く叩きつけられ、衝撃により、教会が大きく揺れ動く。湊の目の前の教会の壁が巨大な口のように開き、外の景色が飛び込んできた。それは、まるで怪物同士が戦っているような光景であった。草薙も同じ光景を目の当たりにし、目は大きく見開き、口が半開きになっていた。
「てめえ。よくもリアムを」
 草薙が希望の従者に手を伸ばそうとしたが、湊はそれを制する。リアムが倒れている現状で彼に戦いを挑むことが正しいとは思えなかったのだ。
幽霊のような人々から、ざわめくような声が聞こえてきた。しかし、その声は呟くように話しており、何を言っているのかは判別できないものであった。
 希望の従者は、リアムに掴まれていた腕をもう片方の手で払い、何事も無かったように湊に向かって不気味な笑みを投げかけてくる。
「この者の戯言に惑わされ、お恥ずかしいところをお見せしました。貴方のお心をお聞かせ願いたいのです」
 先ほどまでは、湊は希望の従者の提案を受け入れようとしていた。しかし、リアムと従者のやり取りを目の当たりにし、彼の危険性を感じていた。
「少し時間が欲しい」
 湊の言葉に、希望の従者がため息を吐いた。
「まあ、良いでしょう。どちらにせよ、魂の戦いを終わらせるには、どちらかの小林湊が消える必要がある。この世界の小林湊も、貴方の世界のオリビアも谷地下台にいます。今回は、アラームはありませんから、いつでも、訪れてください」
 その言葉を残し、希望の従者は教会の出入口に歩を進めていく。音の失われたこの空間に、彼の足音だけが響いていた。
 希望の従者の姿が消えた後、湊と草薙は急いで壁の外で倒れ込んでいるリアムの元へと駆け寄った。
「大丈夫?」
 湊が手を差し伸べると、リアムが自らの手を重ねて来る。湊は腕に力を込めてリアムを立ち上がらせる。
「よく分かったよ。あの力、雰囲気。あれは元の世界の僕なんだね。認めたく無いけどね」
 リアムの言葉に、湊が首を縦に振る。強大な力と狂信的な思想。二人は同一人物である可能性が高いだろう。
 しかし、その嵐のような戦いは湊の心に恐怖を刻み込んでいた。彼らを敵に回すことは、あの怪物と対峙することを意味している。
「でも、俺が神になれば、神の従者たちが味方してくれるって」
「彼は教義から外れている。従う必要はないよ。安心して。僕が何とかするから」
 リアムが湊に向けて微笑を浮かべてくる。彼の言葉が、湊の心の中の恐怖を一時的に払い除けてくれたようであった。しかしながら、神の従者と対峙するということは、慈愛の従者と争うことを意味している。それは湊としては避けたかった。
 しかし、魂の戦いは別世界の自分を倒すまで終わりを迎えない。慈愛の従者との戦いを避けつつ、別世界の自分を消し去る必要がある。どの道を選ぼうとも、谷地下台への旅は避けられない。
「俺は谷地下台に向かうよ」
 湊の決意表明にリアムが頷く。
「分かったよ。僕は君に従うよ。慶次はどう?」
 リアムの言葉に草薙が微笑する。
「俺は、どこまでもお前らに付き合うぜ」

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