草薙慶次

 かつて、街の象徴となっていた大きなデパートがそびえ立っていた。その建物は、この街の象徴として人々の心に刻まれていたが、時の流れは残酷であり、今ではそれは閉店してしまい、看板を失ってしまっていた。しかし、象徴を失っても、この街の賑わいは谷地下台を上回っていた。
 駅から出て来る人々は、様々な場所に歩んで行っていた。それは、恋人や友人や家族とともに、この街を楽しむために訪れているのだろう。
 ここは、大型店舗もあれば、飲み屋やいかがわしい店もある。夜になれば別の顔を現してくるが、日中の現在は飲み屋や客引きは息を潜めていた。
 そんな賑わった駅前の広場で、湊、オリビア、マイケルが集まっていた。彼らは、この場所である女性を待っていた。その人物とは、オリビアの友人である緒方美沙である。オリビアが草薙に再会することを話したところ、美沙が案内を買って出てくれたのだ。
 湊の胸は美沙との再会に高まっていた。彼女は高校の頃は魅惑的な女性であった。そして、その彼女が再び彼の前に現れるのだ。鏡は手元にないが、湊は自らの髪を手で触り始める。
 湊のそんな期待が叶ったのか、駅の出入り口から、ショートで金色の髪をした女性が姿を現す。眉は綺麗に整えられており、少し吊り上がった目と真っ赤な唇が特徴的であった。化粧が更に厚くはなっているが、その顔立ちは、湊の記憶の中の緒方美沙そのものであった。服装は黒いショートパンツを履いており、白いスプリングコートを着ていた。彼の胸が更に高まり、再度、自らの髪に手を当てる。
「ひさびさー。オリビア」
「お久しぶりね。美沙」
 二人は挨拶していたが、湊の視線は美沙に集中してしまっていた。オリビアも魅力的な女性ではあるが、美沙には異なる大人の魅力があった。そんな彼の視線に気付いたのか、美沙が苦笑いを浮かべる。
「湊も久しぶりー。何見てんのよ」
「あ、ああ。ごめん。久しぶり」
 湊は口が半開きの状態で答える。その表情は少し間の抜けたように思えたため、彼は意識的に口元を引き締めた。その時、マイケルが湊の肩を軽く数回叩いた。
「湊さん、素敵な女性ね。私紹介してよ」
 湊は面倒臭そうにマイケルに手を向ける。
「こちらは、俺の同僚のマイケルさん。変な日本語話す人ね。こっちの女性は緒方美沙さん。俺の高校時代のクラスメイト」
「変な日本語は余計ですよ!」
 マイケルが笑いながら、湊の背中を強く叩く。猛獣の戯れは一般人には大打撃である。背中に衝撃を受けた彼は咳き込んでしまう。その様子を見たオリビアと美沙は、笑顔を浮かべていた。
「それで、慶次の家だったよね。私が案内するね」
 美沙はそう言うと、彼らに背を向けて、津田沼の繁華街の方に歩んでいってしまう。湊たちもそれを後から、追うことにする。
 しかし、湊は美沙が草薙の家を知っていることに複雑な思いがした。
「ねえ、なんで草薙の家を知っているの?」
 湊が目の前を歩いている背中に投げかけると、美沙が首だけ振り向けてくる。
「ああ、あいつ、高校の頃付き合ってくれってうるさかったでしょ。卒業後に一回だけ付き合ったんだ」
 湊はその言葉に少し落胆し、思わず肩を落とした。美沙がなぜ草薙のような男と付き合っているのか、理解できなかったのだ。周りにはもっとふさわしい男性がいるのではないかと思う。すると、オリビアが湊の隣に歩み寄ってくる。その彼女の白いワンピース姿を見た湊は少し肩を落とす。美沙に比べると野暮ったく見えてしまうのだ。
「どうしたの? 様子がおかしい気がするけど・・・」
 オリビアが小声で言う。
「あ、ああ。何でもないんだ。ただ、ちょっと、美沙さんが魅力的な女性だなと・・・」
 その言葉を聞き、オリビアの表情に影が差す。彼女は湊との言葉に返答することなく、前を歩く美沙に駆け寄って行ってしまう。その様子を見ていた、マイケルが湊の近くに歩み寄ってき、彼の耳元に口を寄せた。
「湊さん・・・。さっきの発言どうかと思いますよ」
 マイケルは小声で言い残すと、湊に背を向けて美沙とオリビアの方に駆け寄って行ってしまう。湊は彼の去る後ろ姿を見つめながら、彼の言葉の真意について考え込む。
 しばらく歩くと、湊たちは繁華街に足を踏み入れて行く。辺りには居酒屋やゲームセンターが広がっていた。夜には活気付く場所ではあるが、この時間は多くの人は表の通りに居るのだろう。
 繁華街を抜けると、彼らは大通りに足を踏み入れる。ただ、活気のある駅前とは違い、そこには静寂が広がっていた。古いアパートが並ぶ風景は住宅街といった様相である。その中の歴史が刻まれているアパートの前で美沙が歩みを止める。そのアパートの屋根には古びた瓦が敷かれ、外壁には多数のシミや汚れが刻み込まれており、外壁を這うように設置された階段は多くの人々を支えてきた歴史に刻まれていた。
「ここが慶次の家ね。じゃあ、私は近くで暇を潰しているから。時間があれば、後で会おうね」
 美沙の言葉に、湊が驚きの表情を浮かべる。
「えっ? 草薙には会わないの?」
「喧嘩別れしちゃったから、会いづらいんだ。じゃあね」
 それを最後に、美沙は湊たちに背を向け、繁華街の方に戻って行ってしまう。当たり前の話ではあるが、何が起こるわけではなく、彼女とは別れることになった。
 しかし、今日の本題は美沙に会うことではない。湊はポケットからスマートフォンを取り出すと、草薙に到着した旨を伝えるメッセージを送ることにする。
 ほどなく、湊のスマートフォンから音が鳴り響いてくる。彼がそれに視線を向けると、「三〇五号室まで来て欲しい」と、草薙からのメッセージが映し出されていた。
 湊たちはアパートの外壁に沿った階段に向かい足を進めた。三人が階段を登り始めると軋む音が耳に届いてくる。
 湊たちが三階まで辿り着くと、日中にも関わらず薄暗い通路が広がっていた。そこには、片側には外が見え、片側には数個の部屋の扉が存在していた。その扉たちは青い色をしていたが、長い時間の中で変色してしまっていた。
 三人が三〇五号室の扉の前で足を止めると、湊は扉の横にあるインターフォンを押す。短いブザーの音が鳴り響くと、部屋の中から物音が聞こえてき、扉が開かれた。
 扉の向こうから現れたのは、不良風の男ではなく、中分けの黒髪をした真面目な青年であった。服装もジャージを着ており、それは、魂の戦いで出会った別世界の草薙を彷彿とさせた。
 草薙の顔を見た瞬間、湊に黒い感情が湧き上がってくる。彼の右の拳はその感情に合わせるように力強く握られていた。しかし、湊は心の中で「大人になれ」と呟く。今回の目的は草薙を仲間に引き込むためだ。それに、目の前の彼は、魂の戦いで対峙した《冷の世界》の草薙とは異なるのだ。
「久しぶり。草薙君」
「あ、ああ。久しぶりだね、小林君。まあ、中に入ってよ」
 草薙の言葉は高校時代とも魂の戦いとも違い、驚くほど穏やかで、湊は別人と話している気分になって来る。
 草薙は玄関の扉を開けたまま、手を掲げ、湊達を室内に案内してくる。その誘導に従い、彼らは部屋の中に入って行く。
 部屋の中に足を踏み入れると、すぐに廊下があり、そこは予想外に綺麗な状態であった。そして、廊下の先には部屋を区切るような襖が見えた。
 三人は靴を脱ぐと、草薙の先導で廊下を歩み始める。
やがて、襖の前に到着すると草薙はそれをゆっくりと開く。そこには古めかしさはあるが小綺麗な和室の部屋が広がっていた。狭い部屋に相応しい小さなテレビがあり、洋服をしまう収納ケースがあり、一際存在感を放つ本棚があった。その本棚の中には《超能力開発》という風変わりな題名の本が並んでいた。
 部屋の中心には背の低めな机が置かれていたが、その上には、銀色のスプーンが一つだけ置かれていた。食事の片付け忘れなのだろうか。
 草薙は彼らに机の前に座るように促してきたが、突如、湊の後ろに立っているマイケルが彼の肩を叩き、自らの顔に指を指してくる。考えてみれば、マイケルは草薙とも初めての顔合わせであった。
「あ、こちらの方は魂の戦いの仲間のマイケル・スミスさん」
「Nice to meet you。草薙さん!」
「あっ、初めまして。草薙です」
 マイケルの明るい声とは裏腹に、草薙は戸惑った様子を見せていた。その様子は湊の記憶の中に生きている彼の印象とはかけ離れていた。
「まあ、狭いとこだけど、適当に座ってください」
 湊を中心にオリビアとマイケルの三人が机の前に腰を下ろすと、部屋の主である草薙も対面に腰を下ろす。しかし、彼はすぐに後ろを振り返り、コンビニ袋の様な物を机の上に置き、その中を漁り始める。すると、そこから、お茶のペットボトルが四つ顔を出してくる。
「美沙さんとは別れたの?」
「湊」
 湊の発言にオリビアが小声で諌める。
「美沙さんと? ああ、ちょっと、揉めちゃってね。ちょっとした痴話喧嘩でね」
 些細な痴話喧嘩で、美沙と別れたと言うのだろうか。湊には理解できないことであったが、今日の本題はそこにはない。
「そっか。とりあえずは会ってくれてありがとう。それで、色んな情報を送ったと思うけど、信じてもらえそうかな?」
 湊の問いに対し、草薙は苦笑いを浮かべる。
「一概には信じ難いけど、魂の戦いだったかな。そこに登場する別世界の僕の力は自分が思い描いていたものそのものなんだ。これは、美沙さんにすら話していないはずなのにね」
「どういうこと?」
 湊が疑問を投げかけると、草薙が机の上のスプーンに手を伸ばし、それを手に取る。
「見ていて」
 草薙がスプーンを凝視し始めると、その先端がお辞儀したように曲がり始める。そして、彼はそれをゆっくりと机の上に戻す。
「Oh! スプーン曲げ! 懐かしのマジックですね」
 マイケルが興奮気味に声を上げると、草薙が苦笑いを浮かべる。
「これには種や仕掛けはないんだ。小林君とブラウンさんはどう思ったかな?」
 今までであれば、湊も種も仕掛けもあると判断したかもしれない。ただ、彼は魂の戦いで非現実的な体験をしてきた。その世界では草薙は超能力のようなものを使用していた。
「信じるよ。君は普通の人とは違い、不思議な力を使え、別世界の君も同じような力を使えるんだね」
 湊に対し、草薙が首を横に振る。
「僕だけじゃないよ。魂の力が強い人は、こういった魂の力を使えるんだ」
 草薙は魂の戦い以外でも魂力を使えると言いたいのだろうか。それならば、希望の従者に魂力が強いと言われた、湊はどれ程の事が出来るのであろうか。彼は机の上のスプーンを手に持ち、それが曲がるように念じる。しかし、そのスプーンが変化することはなかった。
「ははっ、人によって向き不向きがあるみたいだからね。魂力だったかな? 君はそれが強いと言われたみたいだから、きっと何かしらの力が使えるよ」
 草薙の言葉で、湊は諦めるようにスプーンを机に戻す。 
「何故、魂力を知っているの?」
「魂力って言葉は知らないよ。ただ、人の魂には力があると、幼馴染に教えてもらったんだ」
 草薙の幼馴染とは何者だろうか。彼は魂の力のことを知っているらしいが、湊が戦っていた魂の戦いの世界には、彼の姿は存在しない。そこまで考え、彼に一つの期待が浮かび上がって来る。そんな人間であれば、草薙かマイケルを失った時に、保険として考えても良いかもしれない。
「その幼馴染と連絡はつく?」
「いや、あいつは争いを嫌う奴なんだ。きっと参加してくれないさ。それに喧嘩別れしちゃったからね」
 草薙の言葉は湊を落胆させた。しかし、そんな湊とは裏腹に、草薙は鼻息を荒くしていた。
「魂は肉体を離れると力が増すらしいからね。だからこそ、僕も魂の戦いに参加させて欲しい。きっと、力になれるはず」
「でも、貴方にも危険があるかもしれない」
 オリビアの心配そうな顔とは裏腹に、草薙が鼻で笑う。その笑い方は、湊の癪に触るものだった。自らの大切なものを馬鹿にされた気分になったのだ。
「君らの話すことが事実なら、君らが負けたら、世界ごと消滅するんでしょ? それなら、少なくとも、僕は自分の力で抗いたい」
 草薙の表情には笑みが浮かんでいた。それは、魂の戦いに参加できることへの喜びであろうか。
 ――草薙の勧誘という使命を終えた湊たちは歴史の刻まれた階段を降りていた。
 階段を下り切ると、湊は草薙の住居を改めて見つめる。そこは、お世辞にも美沙が喜ぶような建造物には思えなかった。そこまで考えると、湊は彼女のことが気になりだす。
「美沙さんから連絡は来た?」
 湊がオリビアに問いかけると、彼女が影を落とした表情を浮かべる。
「美沙は急用が出来て帰っちゃったみたい」
 湊は落胆を覚える。美沙に再び会えることを期待していたからだ。
「・・・湊は美沙に好意があるの?」
 オリビアが蚊の鳴くような声を上げる。湊が美沙に対する恋愛的な感情があるかと問われれば、現段階では否と答えるしかなかった。久しぶりに再会した異性に対する淡い期待に過ぎないことは、彼自身も理解しているからだ。
「んっ? いや、全然、そういう訳じゃないけど」
 湊が答えると、三人の間に沈黙が走る。
「ま、まあ、私たちの願いは叶ったいうことですよ。美沙さんもいないなら、もう帰りましょう。明日は仕事だし、私も船橋に帰りますよ。終点駅だから寝ときますかね」
 沈黙に耐えられなかったのか、マイケルが大きめな声を上げる。しかし、湊は彼の言葉に怪訝な表情を浮かべる。
「船橋が終点?」
 その言葉に、今度はマイケルが怪訝な表情を浮かべる。
 マイケルの言葉に違和感を覚える理由は湊にはないはずであった。確かに、マイケルが言うように、船橋は終点駅なのだ。しかし、津田沼と船橋を繋ぐ路線は、そんなに短かったであろうか。
 しかし、事実、谷地下台から船橋までしか電車は走っていないのだ。そこに、彼が疑問を持つことには何の意味もないだろう。
「まあ、帰りましょ」
 マイケルが言うと、湊たちは津田沼の駅に向かい歩を進め始める。

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