戦いの終わり

 公園の中に響くような音が続け様に聞こえてきた。その不穏な音は湊の心を揺さぶり続けていた。なぜならば、それは、彼の大切な物が破壊される音に聞こえてきたからだ。
 しかし、悠久に続くかのようなその音もやがて消えていった。湊の耳に耳鳴りが鳴り出すと、その静寂も彼の心を大きく揺さぶった。全てが終わってしまったかのような静けさは、湊の心を不安で包み込んだ。
 再び湊は足を動かすことを試みる。しかし、先ほどまで全く動かなかった足が突如として勢いよく動き出し、彼は足元が取られそうになる。どう言った理由かは不明だが、慈愛の従者の導く力が失われたのだろうか。
 湊は幸いにも身体の自由を取り戻したようであった。湊は急いで想い出の公園の出入り口に向かおうする。しかし、反対に公園に向かってくる青年の姿があった。その青年は茶色の髪をし、白いローブをまとっており、顔立ちが湊と生写しであった。彼がこの世界の湊、つまりは神の従者たちが言っていた神ではないだろうか。
 しかし、今の湊には、この世界の神に関心を寄せる余裕はなかった。彼は神を無視するように、彼の横を通り過ぎようとする。
「リアムは無事だよ。でも、あの子は・・・。・・・消えたよ」
 神の言葉で、湊の足が止まり、頭の先から足の指先まで激しい電撃が走る。脳裏には、希望の従者の顔が鮮明に浮かび上がってくる。彼の心は暴風雨に襲われた荒れ狂う海のように激しく揺れ動き、目が吊り上がり、眉間に深いしわが刻まれる。
「無駄だよ。希望の従者も消えたよ」
 湊の心の怒りの炎は、空虚な風に吹かれて消える。代わりに深い損失感が彼の心残る。湊の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
「魂の戦いがある以上、あの子の運命は決まっていたんだ」
 神は真っ白な空を見上げる。その瞳には遠くを見つめるような憂いが浮かび上がっていた。その視線の先には、時間さえも超えた何かがあるのではないかと思えた。
 全ての並行世界が消え、あらゆる人間の魂が元に戻れば、何もかもが元通りになる。しかし、それは神が望んでいるものなのだろうか。
 湊は自らが片手に持っている兎のぬいぐるみに視線を落とし、神の方へと歩み寄る。それを神に手渡すと、彼は怪訝な表情をしながら、片手でそれを受け取る。
「やはり、君が持っているのが相応しいよ。あの子の記憶にある神は君だから。ただ、もう君もそれを大切にしながら、時間を動かそう」
「でも、ぼくには・・・」
 神の言葉の後に、突如、湊の足に鋭い痛みが走り、彼の視線が下を追うと、地面から生えてきた黒い針が生えて来て彼の足を突き刺していた。湊は急いで足を持ち上げ、その針を抜く。
 神が湊に牙を剥いて来たということだろうが、それに彼が敗れるわけにはいかない。今までもそうであったが、この戦いに負けることは許されない。湊が破れては、この神は新たな並行世界を生み出し、同じことを繰り返してしまうだろう。
 湊は右腕を後ろに引くと、神の顔に拳を放つ。しかし、その瞬間、透明な箱が紙を包み込んでしまう。それは、神が現実を受け入れる事を拒絶しているように思えた。その結果、湊の拳は透明な壁に打ち付けられ、彼の方が痛みを受け入れる事になる。湊は痛みに顔を歪めながら、左手で右の手首を握る。
「君に問いたい。君は幸せか?」
 神の言葉に、湊は思考を巡らせる。幸せかと答えれば、それは嘘になるであろう。今の彼は多くのものを失ってしまった。しかし、それでは魂の戦いが始まる前までの彼はどうであっただろうか。オリビアや他の友人たちとの日々は、湊に幸せを与えてくれていたのではないだろうか。
「・・・幸せだった」
 湊のその言葉に、神が微笑する。
「なら、ぼくと共に止まった並行世界が多く存在する世界を生きよう。ぼくの世界と君の世界、そこだけに彼女の過去の面影を残して」
 神の言うことは湊にも理解ができた。しかし、それは、この時間が止まった世界で生きることを意味している。
 しかし、それを神は本心から望んでいるのだろうか。湊自身、そして並行世界の彼らも、元の世界の魂の一部を受け継いでいることを考えれば、神の願いは単純なものではない。
「君の魂の一部を持つ並行世界の湊たちは、ほとんどが魂の戦いに積極的だった。君もこのままで良いとは思っていないんじゃないか? オリビア、世界の人々、そして、俺たち自身のために、俺は君を倒す」
「君は・・・」
 神の言葉はそこで途切れた。湊は目の前の壁を壊すような剣が、自らの手に創造されることを願う。その願いに応えるように、彼の手に半透明な西洋剣が現れ、徐々に銀色の姿を露わにして行く。その剣の切っ先は美しい一方で、全てを切り裂く恐ろしさも兼ね揃えていた。
 湊は神を守る透明な壁を、剣で幾度か斬りつける。一瞬のうちに、壁に深い切れ目ができ、その部分が切りとられたかと思うと、壁はガラスが砕けるような音を残して崩れていった。
湊はゆっくりと神に向けて歩み寄って行く。目の前には俯き加減で立ちつくしている神の姿があった。
「分かっていたんだ・・・。でも・・・、ぼくではこの呪縛から逃れられなかった」
 湊は神の言葉に答えることなく、ただ静かに神に歩み寄って行く。神は手に持つ兎のぬいぐるみに目を向け、懐かしそうな微笑みを浮かべていた。
 湊はゆっくりと剣を上段に構え、深呼吸をして目を瞑る。彼の視界が闇に包まれ、思考の世界に入っていく。この剣を振り下ろして良いのだろうか。それで、湊は後悔しないのだろうか。
 湊は首を数度横に振り、再び目を開いた。目の前には、まぶたを閉じている神の姿があった。湊はゆっくりと振り上げている剣を神の肩口に落とす。
 すると、神はゆっくりと前のめりに倒れ、その身体は徐々に透明に染まっていった。彼の手から滑り落ちた兎のぬいぐるみを湊は拾い上げ、透明に変わっていく神の身体の上に置いた。
 しばらく、静寂が流れると、神の身体は完全に姿を消した。
神が消えた場所から、ほのかな光を放つ小さな玉が浮かんできた。それは湊の身体にゆっくりと近づき、彼の胸に吸い込まれるように消えていった。
 その瞬間、湊の意識の中には無数の声が響き始めた。
「この、兎のぬいぐるみをプレゼントするよ。ぼくが作り出したんだ」
「ありがとう。わたし、うれしい! 湊はわたしの神様なの」
「ぼくはオリビアの神様なんだ・・・」
「小学校はどうだった? 楽しかった? おままごとしようよ」
「もう、小学生になったんだ。おままごとなんかしないよ。いつまでも子供じゃないんだから」
「中学校はどうだった? 勉強頑張っている?」
「俺の心配はいらないさ。なんでも出来るからね。それよりも君が心配だよ」
「高校生活はどう? 今日はどこかに遊びに行く?」
「俺のクラスの美沙って子。素敵だね。大人びててさ」
「美沙と関わるんじゃねえ。あいつは俺が何とかする。お前らの関係がおかしくなるぞ」
「オリビアは俺の言うことならなんでも聞くさ」
「貴方は子供っぽいのよ。いつまでも心が成長しないわ」
「止めるんだ。何でそんな考え方に。俺だけの君でいてくれ」
「慶次の友人のリアム・ジョンソンです」
「幼い頃にぬいぐるみを生み出した? 君も不思議な力を持っていたの? 今度見せてよ」
「今は、もう出来ないんだ」
「社会人になっても、貴方は変わらないのね。私は良い彼が見つかったわ。悠太という若手経営者のね。貴方とは違う大人な男性」
「勝手にすればいい。俺は俺で生きるさ」
「貴方は私が探していた神だ。神を忘れたこの世界に貴方は満足しているのか? 導こう、人々を救うために。貴方の言葉のままに」
「俺は何を望む。金と社会的な地位を持った俺がいる世界? いや、違う。俺が望むのは…」
 ――「お前の世界の勝ちだ」
 その言葉で複数の声が途絶え、湊が思考の世界から解放される。彼が周囲を見渡すと、想い出の公園が広がっていた。何故か彼の目には涙が滲んでいた。
 湊がその声の源を探していると、半透明になった破壊の従者の姿を見つける。湊は彼に歩み寄って行く。
「神は何を望んでいたのかな? 自分が倒されて、世界の時間を動かしたかったのかな?」
「なんで俺に聞くよ? お前の方が分かってんだろ?」
 破壊の従者が憂いを帯びた表情を浮かべながら答える。
「オリビアとリアムを迎えに行かないと」
「迎えに行く必要なんかないさ。あいつが消えた事で、全ての世界の魂も物も一つになるはずだ。ただ、今度は神自体の魂が消えた。どうなるかは分かんねえかもしんねえけどな」
 破壊の従者の言葉と共に、世界が大きく揺れ始めた。湊は足を取られ、臀部を打ってしまう。再び、彼は立ちあがろうとしたが、大きな揺れがそれを許さなかった。次第に、白かった空間は闇に飲まれていき、この世界の終わりを告げてきているようにも感じてくる。
 湊の周りの景色が渦巻き始め、彼の視界が闇に飲み込まれていった。

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