新宿駅では、みんな外国人
「Excuse me」
その一言を聞いた瞬間、小野寺凛の頭から英語がすべて消えた。
二十六歳。
東京で働いて四年。
大学時代の英語の成績は悪くなかったし、半年前に受けた英語試験も、それなりの点数だった。
だから、外国人に道を尋ねられたら、落ち着いて助けようと思っていた。
その機会が、ついに訪れたのである。
新宿駅の地下通路。
大きなスーツケースを持った青年が、困った顔で凛を見ていた。
「Excuse me」
もう一度言われる。
凛は深く息を吸った。
大丈夫。
最初は挨拶だ。
教科書どおりに答えればいい。
「アイム、ファイン。センキュー。アンド、ユー?」
青年が目を丸くした。
凛も目を丸くした。
何も聞かれていないのに、元気だと報告してしまった。
青年は少し迷ってから、流暢な日本語で言った。
「お元気なら、よかったです」
「日本語、話せるんですか!?」
「少しだけ」
絶対に少しではない。
少なくとも、今の凛より会話が成立している。
青年はスマートフォンの画面を見せた。
「西口へ行きたいんですが、どちらですか?」
「西口ですね」
凛は胸を張った。
英語では負けた。
しかし、ここは日本。
しかも東京。
新宿駅は通勤で何度も使っている。
日本人としての威厳を取り戻す時だった。
「あっちです。私も途中まで行くので、案内しますよ」
「ありがとうございます」
二人は人の流れに乗って歩き始めた。
最初の案内板には、右方向に西口と書かれていた。
次の案内板では、左方向だった。
さらに進むと、西口という文字そのものが消えた。
代わりに現れたのは、東口、南口、中央西改札、西改札、地下西口、別の路線の西口だった。
「西、多くない?」
凛は小さく呟いた。
「日本では、西口にも種類があるんですか?」
「たぶん、それぞれの西があるんだと思います」
自分でも意味が分からなかった。
階段を上がる。
通路を曲がる。
また階段を下りる。
工事中の壁に阻まれ、別の通路へ回る。
十分後。
二人は、小さなパン屋の前を通った。
さらに十分後。
同じパン屋の前へ戻ってきた。
青年が店を見ながら言った。
「このパン屋さん、二店舗あるんですね」
凛は店員と目が合った。
店員は、さっきも見た二人だと気づいたらしく、軽く会釈した。
「そうですね。人気だから」
凛も会釈を返した。
嘘だった。
完全に同じ店だった。
三周目。
パン屋の店員は、もう笑っていた。
青年が立ち止まる。
「また、この店ですね」
「新宿には似たパン屋が多いんです」
店員が吹き出した。
言い逃れは失敗した。
青年は怒るどころか、楽しそうに笑った。
「もしかして、迷っていますか?」
「迷ってません」
「でも、同じパンが三回あります」
「確認しているだけです」
「何を?」
「パン屋の位置を」
青年はしばらく考え、静かに頷いた。
「日本人は、とても慎重ですね」
文化の違いとして処理された。
凛の罪悪感が増した。
「ごめんなさい。少し迷いました」
「少しですか?」
「かなり迷いました」
青年はまた笑った。
凛はスマートフォンで地図を開いた。
現在地を示す青い丸が、地下通路の中を落ち着きなく移動している。
自分たちの動きを、そのまま表しているようだった。
「西口で、誰かと待ち合わせですか?」
「はい。昔、日本でお世話になった人です」
青年は鞄から一枚の古い写真を取り出した。
写真には、まだ少年だった彼と、日本人らしい夫婦が写っている。
三人とも浴衣を着て、夏祭りの提灯の前で笑っていた。
「十二年前、短い間ですが、日本に住んでいました。この人の家にホームステイしていたんです」
「十二年ぶりに会うんですか?」
「はい。お父さんのほうは、三年前に亡くなりました。でも、お母さんは元気です。今日、会う約束をしました」
写真の裏には、少し震えた日本語でこう書かれていた。
『西口交番前で待っています』
時刻は午後二時。
現在、二時二十分。
「連絡先は?」
「あります。でも、電話で日本語を聞くのは、まだ難しいです」
「私がかけます」
今度こそ役に立てる。
凛は書かれていた番号へ電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、女性が出た。
「もしもし?」
「あの、突然すみません。今、外国から来た方と一緒にいるんですが」
「ルーカス!?」
電話の向こうで、女性の声が一気に大きくなった。
青年――ルーカスが、嬉しそうに凛を見る。
話を聞くと、女性は西口交番前で待っていた。
ただし、二人が向かっていた地下の西口ではない。
地上の西口だった。
「西口って、地上にもあるんですか……」
凛が呟くと、電話の向こうの女性が笑った。
「新宿駅だからねえ」
まるで新宿駅が自然災害であるかのような言い方だった。
駅員へ相談し、今度こそ正しい経路を教えてもらう。
凛とルーカスは、案内板を一つずつ確認しながら進んだ。
途中で例のパン屋が見えた。
四回目だった。
店員が二人へ親指を立てた。
凛も親指を立て返した。
もはや戦友だった。
地上へ出ると、夏の日差しが目に飛び込んできた。
交番の前に、小柄な女性が立っている。
白髪交じりの髪。
薄紫色の帽子。
手には、写真と同じ柄の小さな巾着を持っていた。
ルーカスが立ち止まる。
女性も彼に気づいた。
「ルーカス?」
「お母さん」
青年の日本語が、初めて少し震えた。
女性は歩み寄り、彼の腕を何度も叩いた。
「大きくなったねえ」
「十二年たったので」
「そんなことは知ってるよ」
そう言いながら、女性は泣いていた。
ルーカスも笑いながら目元を拭った。
凛は少し離れた場所で、その再会を見守った。
つい三十分前まで、同じパン屋の周りをぐるぐる歩いていた二人とは思えなかった。
女性が凛へ頭を下げる。
「連れてきてくれて、本当にありがとう」
「いえ、連れてきたというより、かなり迷わせました」
ルーカスが首を横へ振った。
「一人で迷うより、ずっと楽しかったです」
「それ、褒めてます?」
「はい。たぶん」
日本語の「たぶん」の使い方まで完璧だった。
女性は二人を見比べた。
「せっかくだから、一緒にお茶でもどう?」
「え、でも」
「この子、日本に来たらクリームソーダを飲みたいって、ずっと言ってたのよ」
ルーカスが少し恥ずかしそうに笑う。
「十二年前、お母さんが飲ませてくれました」
「じゃあ、少しだけ」
三人は近くの喫茶店へ入った。
ルーカスは運ばれてきた緑色のクリームソーダを、何枚も写真に撮った。
女性は十二年前の話を次々に語った。
ルーカスが箸を逆さに持っていたこと。
納豆をチョコレートだと思って大量に食べたこと。
祭りの金魚を浴槽で飼おうとしたこと。
「お母さん、それは秘密です」
「十二年たったから、時効だよ」
笑い声がテーブルを囲んだ。
別れ際、ルーカスは凛へ小さな紙袋を渡した。
中には、彼の国から持ってきたというチョコレートが入っていた。
「助けてくれたお礼です」
「ほとんど助けてないですよ」
「いいえ。あなたが話しかけてくれなかったら、私はまだ駅の中にいました」
「私がいたから、余計に長く駅の中にいた気もします」
「でも、パン屋を覚えました」
それは確かだった。
二人と別れた後、凛は自分の乗る路線の改札へ向かった。
案内板を見る。
右。
左。
地下。
別の改札。
五分後。
また、あのパン屋の前へ出た。
店員が凛を見て、両手を広げた。
「おかえりなさい」
ついに声をかけられた。
凛は諦めてパンを一つ買った。
その夜。
ルーカスからメッセージが届いた。
女性と並び、クリームソーダを持って笑っている写真だった。
『今日はありがとうございました。今度、また日本へ来ます。その時は渋谷駅へ行きたいです』
凛は少し考えてから返信した。
『渋谷駅は、私にも外国です』
すぐに返事が来た。
『では、また一緒に迷いましょう』
英語はほとんど使わなかった。
道案内も、あまり成功しなかった。
それでも、伝わるものは意外と多かった。
困った顔。
笑った顔。
誰かに会いたいという気持ち。
そして、一人で迷うより、二人で迷ったほうが少し楽しいということ。
新宿駅では、みんな外国人になる。
だからたぶん、助け合うくらいがちょうどいい。
その一言を聞いた瞬間、小野寺凛の頭から英語がすべて消えた。
二十六歳。
東京で働いて四年。
大学時代の英語の成績は悪くなかったし、半年前に受けた英語試験も、それなりの点数だった。
だから、外国人に道を尋ねられたら、落ち着いて助けようと思っていた。
その機会が、ついに訪れたのである。
新宿駅の地下通路。
大きなスーツケースを持った青年が、困った顔で凛を見ていた。
「Excuse me」
もう一度言われる。
凛は深く息を吸った。
大丈夫。
最初は挨拶だ。
教科書どおりに答えればいい。
「アイム、ファイン。センキュー。アンド、ユー?」
青年が目を丸くした。
凛も目を丸くした。
何も聞かれていないのに、元気だと報告してしまった。
青年は少し迷ってから、流暢な日本語で言った。
「お元気なら、よかったです」
「日本語、話せるんですか!?」
「少しだけ」
絶対に少しではない。
少なくとも、今の凛より会話が成立している。
青年はスマートフォンの画面を見せた。
「西口へ行きたいんですが、どちらですか?」
「西口ですね」
凛は胸を張った。
英語では負けた。
しかし、ここは日本。
しかも東京。
新宿駅は通勤で何度も使っている。
日本人としての威厳を取り戻す時だった。
「あっちです。私も途中まで行くので、案内しますよ」
「ありがとうございます」
二人は人の流れに乗って歩き始めた。
最初の案内板には、右方向に西口と書かれていた。
次の案内板では、左方向だった。
さらに進むと、西口という文字そのものが消えた。
代わりに現れたのは、東口、南口、中央西改札、西改札、地下西口、別の路線の西口だった。
「西、多くない?」
凛は小さく呟いた。
「日本では、西口にも種類があるんですか?」
「たぶん、それぞれの西があるんだと思います」
自分でも意味が分からなかった。
階段を上がる。
通路を曲がる。
また階段を下りる。
工事中の壁に阻まれ、別の通路へ回る。
十分後。
二人は、小さなパン屋の前を通った。
さらに十分後。
同じパン屋の前へ戻ってきた。
青年が店を見ながら言った。
「このパン屋さん、二店舗あるんですね」
凛は店員と目が合った。
店員は、さっきも見た二人だと気づいたらしく、軽く会釈した。
「そうですね。人気だから」
凛も会釈を返した。
嘘だった。
完全に同じ店だった。
三周目。
パン屋の店員は、もう笑っていた。
青年が立ち止まる。
「また、この店ですね」
「新宿には似たパン屋が多いんです」
店員が吹き出した。
言い逃れは失敗した。
青年は怒るどころか、楽しそうに笑った。
「もしかして、迷っていますか?」
「迷ってません」
「でも、同じパンが三回あります」
「確認しているだけです」
「何を?」
「パン屋の位置を」
青年はしばらく考え、静かに頷いた。
「日本人は、とても慎重ですね」
文化の違いとして処理された。
凛の罪悪感が増した。
「ごめんなさい。少し迷いました」
「少しですか?」
「かなり迷いました」
青年はまた笑った。
凛はスマートフォンで地図を開いた。
現在地を示す青い丸が、地下通路の中を落ち着きなく移動している。
自分たちの動きを、そのまま表しているようだった。
「西口で、誰かと待ち合わせですか?」
「はい。昔、日本でお世話になった人です」
青年は鞄から一枚の古い写真を取り出した。
写真には、まだ少年だった彼と、日本人らしい夫婦が写っている。
三人とも浴衣を着て、夏祭りの提灯の前で笑っていた。
「十二年前、短い間ですが、日本に住んでいました。この人の家にホームステイしていたんです」
「十二年ぶりに会うんですか?」
「はい。お父さんのほうは、三年前に亡くなりました。でも、お母さんは元気です。今日、会う約束をしました」
写真の裏には、少し震えた日本語でこう書かれていた。
『西口交番前で待っています』
時刻は午後二時。
現在、二時二十分。
「連絡先は?」
「あります。でも、電話で日本語を聞くのは、まだ難しいです」
「私がかけます」
今度こそ役に立てる。
凛は書かれていた番号へ電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、女性が出た。
「もしもし?」
「あの、突然すみません。今、外国から来た方と一緒にいるんですが」
「ルーカス!?」
電話の向こうで、女性の声が一気に大きくなった。
青年――ルーカスが、嬉しそうに凛を見る。
話を聞くと、女性は西口交番前で待っていた。
ただし、二人が向かっていた地下の西口ではない。
地上の西口だった。
「西口って、地上にもあるんですか……」
凛が呟くと、電話の向こうの女性が笑った。
「新宿駅だからねえ」
まるで新宿駅が自然災害であるかのような言い方だった。
駅員へ相談し、今度こそ正しい経路を教えてもらう。
凛とルーカスは、案内板を一つずつ確認しながら進んだ。
途中で例のパン屋が見えた。
四回目だった。
店員が二人へ親指を立てた。
凛も親指を立て返した。
もはや戦友だった。
地上へ出ると、夏の日差しが目に飛び込んできた。
交番の前に、小柄な女性が立っている。
白髪交じりの髪。
薄紫色の帽子。
手には、写真と同じ柄の小さな巾着を持っていた。
ルーカスが立ち止まる。
女性も彼に気づいた。
「ルーカス?」
「お母さん」
青年の日本語が、初めて少し震えた。
女性は歩み寄り、彼の腕を何度も叩いた。
「大きくなったねえ」
「十二年たったので」
「そんなことは知ってるよ」
そう言いながら、女性は泣いていた。
ルーカスも笑いながら目元を拭った。
凛は少し離れた場所で、その再会を見守った。
つい三十分前まで、同じパン屋の周りをぐるぐる歩いていた二人とは思えなかった。
女性が凛へ頭を下げる。
「連れてきてくれて、本当にありがとう」
「いえ、連れてきたというより、かなり迷わせました」
ルーカスが首を横へ振った。
「一人で迷うより、ずっと楽しかったです」
「それ、褒めてます?」
「はい。たぶん」
日本語の「たぶん」の使い方まで完璧だった。
女性は二人を見比べた。
「せっかくだから、一緒にお茶でもどう?」
「え、でも」
「この子、日本に来たらクリームソーダを飲みたいって、ずっと言ってたのよ」
ルーカスが少し恥ずかしそうに笑う。
「十二年前、お母さんが飲ませてくれました」
「じゃあ、少しだけ」
三人は近くの喫茶店へ入った。
ルーカスは運ばれてきた緑色のクリームソーダを、何枚も写真に撮った。
女性は十二年前の話を次々に語った。
ルーカスが箸を逆さに持っていたこと。
納豆をチョコレートだと思って大量に食べたこと。
祭りの金魚を浴槽で飼おうとしたこと。
「お母さん、それは秘密です」
「十二年たったから、時効だよ」
笑い声がテーブルを囲んだ。
別れ際、ルーカスは凛へ小さな紙袋を渡した。
中には、彼の国から持ってきたというチョコレートが入っていた。
「助けてくれたお礼です」
「ほとんど助けてないですよ」
「いいえ。あなたが話しかけてくれなかったら、私はまだ駅の中にいました」
「私がいたから、余計に長く駅の中にいた気もします」
「でも、パン屋を覚えました」
それは確かだった。
二人と別れた後、凛は自分の乗る路線の改札へ向かった。
案内板を見る。
右。
左。
地下。
別の改札。
五分後。
また、あのパン屋の前へ出た。
店員が凛を見て、両手を広げた。
「おかえりなさい」
ついに声をかけられた。
凛は諦めてパンを一つ買った。
その夜。
ルーカスからメッセージが届いた。
女性と並び、クリームソーダを持って笑っている写真だった。
『今日はありがとうございました。今度、また日本へ来ます。その時は渋谷駅へ行きたいです』
凛は少し考えてから返信した。
『渋谷駅は、私にも外国です』
すぐに返事が来た。
『では、また一緒に迷いましょう』
英語はほとんど使わなかった。
道案内も、あまり成功しなかった。
それでも、伝わるものは意外と多かった。
困った顔。
笑った顔。
誰かに会いたいという気持ち。
そして、一人で迷うより、二人で迷ったほうが少し楽しいということ。
新宿駅では、みんな外国人になる。
だからたぶん、助け合うくらいがちょうどいい。