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ガソリンが消えた日

「レギュラー、本日売り切れです」

 ガソリンスタンドの看板を見て、誰もが足を止めた。

 冗談だと思った。

 だが、一軒目も、二軒目も、三軒目も同じだった。

『燃料不足のため、本日の営業を終了します』

 SNSには写真が次々と投稿される。

「本当にガソリンがない」

「高速道路で給油できない」

「物流が止まり始めた」

 テレビは朝から特番になった。

 専門家は落ち着いた口調で説明する。

「世界的な原油供給の混乱により…」

 そんな言葉は耳に入らなかった。

 人が見ていたのは、ガソリンメーターだった。

 残り、四分の一。

「まだ大丈夫」

 そう思っていた人ほど焦り始める。

 会社へ向かう営業マン。

 子どもを迎えに行く母親。

 トラック運転手。

 救急搬送を担当する隊員。

 誰もが同じ燃料で動いていたことを、その日初めて思い知る。

 翌日。

 スーパーから牛乳が消えた。

 パンも少ない。

 野菜も届かない。

 物流トラックが動けない。

 たった一本の道路が止まるだけで、街全体が息を切らし始めた。

「石油なんて遠い国の話だろ」

 そう思っていた。

 違った。

 遠い砂漠で止まった一滴が、数千キロ離れたこの街の夕飯を変えてしまう。

 そんな世界に、僕らは生きていた。

 近所のガソリンスタンドでは怒鳴り声が響く。

「どうして売ってくれない!」

 店員は深く頭を下げる。

「申し訳ありません。本当に在庫がありません」

 誰も悪くない。

 それでも、誰かに怒りを向けたくなる。

 そんな空気が街を覆っていた。

 帰り道。

 いつもは車で渋滞する国道を、一人の少年が自転車で駆け抜けていく。

 その後ろを、制服姿の女子高生が笑いながら追いかける。

 歩道では会社員が汗をかきながら歩いている。

 バス停には長い列。

 駅前のレンタサイクルは一台も残っていない。

 不便だった。

 本当に不便だった。

 けれど、不思議なことも起きた。

 隣の家のおじさんが言う。

「病院だろ? 乗せていくよ」

 近所の人が声を掛け合う。

「買い物、一緒に行きません?」

 会社ではオンライン会議が増えた。

 学校では先生が笑う。

「今日は徒歩遠足だと思ってくれ」

 教室に笑い声が戻る。

 数週間後。

 原油の供給は少しずつ回復し、街にもガソリンが戻ってきた。

 ガソリンスタンドには長い列ができる。

 誰もが安心した。

 エンジン音が戻る。

 物流も戻る。

 いつもの日常だった。

 その帰り道。

 僕は車を停めて、自転車で走るあの少年を見つけた。

「車、戻ってよかった?」

 そう聞くと、少年は笑った。

「うーん」

 少し考えてから答える。

「便利なのは車だけど、友達と話しながら帰るのは、自転車のほうが楽しいかな」

 その一言で、僕は少し笑ってしまった。

 原油は世界を動かしている。

 でも、人を前へ進ませるのは、案外ガソリンじゃないのかもしれない。

 誰かを思いやる気持ちは、燃料切れになることがないのだから。

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