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その日、東京は静かに止まった

「行ってきます」
 玄関でそう言うと、母はいつも通り笑って手を振った。
「暑いから水分取りなさいよ」
「分かってるって」
 二十五歳。
 都内の出版社で働く、ごく普通の会社員。
 駅へ向かう途中、コンビニでアイスコーヒーを買い、スマホでニュースを見る。
 今日の話題は芸能人の結婚と、夏の猛暑。
 世界は、いつも通りだった。
 午前十時四十七分。
 会議室で資料を説明している最中だった。
 ゴトッ。
 椅子がわずかに揺れる。
「地震?」
 誰かが笑った。
「最近多いですね」
 東京に住んでいると、小さな地震には慣れてしまう。
 誰も逃げない。
 誰も焦らない。
 その一秒後だった。
 ドォンッ!!
 まるで巨大な何かが地面を下から突き上げたような衝撃だった。
 全員が床へ投げ出される。
 机が浮く。
 照明が落ちる。
 ガラスが砕け散る。
「きゃあああ!」
 悲鳴が響く。
 立てない。
 今まで経験したどんな地震とも違う。
 ビルそのものが左右にねじれるように揺れていた。
 天井が崩れる。
 書棚が倒れる。
 コピー機が滑り、壁へ激突した。
 誰かが叫ぶ。
「机の下!」
 その声すら揺れでかき消される。
 一分にも満たない時間だった。
 なのに、一時間にも感じた。
 揺れが止まった頃。
 オフィスは別の世界になっていた。
 床一面にガラス。
 割れたパソコン。
 散乱した書類。
 泣き崩れる後輩。
 私の手は震えていた。
 スマホを見る。
 圏外。
 Wi-Fiも切れている。
 会社の非常ベルだけが鳴り続けていた。
「外へ!」
 階段で避難する。
 エレベーターは止まっている。
 二十階から地上まで降りる頃には、足は笑っていた。
 外へ出る。
 東京は止まっていた。
 信号は消え。
 電車は全線停止。
 高層ビルからはガラスが落ち続ける。
 道路は帰宅できない人で埋め尽くされていた。
 遠くで黒煙が上がる。
 消防車のサイレンが何台も聞こえる。
 でも、それ以上に多かったのは、人の声だった。
「大丈夫ですか!」
「誰か救急車!」
「こっち手伝って!」
 見知らぬ人が倒れた自転車を起こす。
 外国人観光客を案内する高校生。
 スーツ姿の男性が、高齢者を背負って歩いている。
 誰かが言った。
「避難所は○○小学校!」
 その声に何百人もの人が動き始めた。
 私は歩きながら、何度も母へ電話をかけた。
 繋がらない。
 父にも。
 祖母にも。
 友人にも。
 誰にも。
 ニュースだけが流れる。
『首都圏直下型地震とみられます』
『交通機関は全面運休』
『火災が各地で発生』
 現実なのに、映画を見ているようだった。
 夕方。
 避難所になった小学校へ着く。
 体育館は人で埋まっていた。
 泣く子ども。
 毛布を配る先生。
 自衛隊。
 消防隊員。
 医師。
 誰も休まず動いている。
 私は壁にもたれ、ようやく息をついた。
 その時。
 スマホが震えた。
 一通のメッセージ。
「無事?」
 母だった。
 たった二文字。
 その二文字が見えた瞬間、涙が止まらなくなった。
「無事だよ」
 送信する。
 数秒後。
「よかった」
 その四文字だけで、胸の中の重石が少しだけ軽くなった。
 夜。
 停電した東京は、驚くほど暗かった。
 ネオンも。
 街灯も。
 ビルの明かりもない。
 見上げると、普段は見えない星が東京の空いっぱいに広がっていた。
 隣にいた小学生の女の子が呟く。
「東京でも星ってあったんだ」
 その言葉に、大人たちは少しだけ笑った。
 翌朝。
 炊き出しが始まる。
 近所のラーメン店がスープを配る。
 パン屋が昨日焼いたパンを無料で配る。
 コンビニ店員は壊れた店から水を運び出し、一人一本ずつ配っていた。
「ありがとうございます」
「いいんですよ」
 疲れ切った笑顔だった。
 数日後。
 街へ戻る。
 見慣れた景色は変わっていた。
 道路には亀裂。
 倒れた電柱。
 閉じたシャッター。
 静かな駅。
 それでも。
 花屋だけは開いていた。
 店主のおばあさんが、小さな花束を並べている。
「こんな時に花なんて」
 誰かが言う。
 おばあさんは笑った。
「こんな時だからよ」
 その言葉を聞いて、私は一輪のひまわりを買った。
 避難所へ戻ると、小さな女の子がその花を見て目を輝かせる。
「きれい」
 それだけで、その花は買った価値があった。
 一か月後。
 少しずつ電車が動き始めた。
 コンビニも営業を再開した。
 駅前では高校生が募金を呼びかけている。
 瓦礫はまだ残る。
 工事の音も絶えない。
 完全に元へ戻ったわけではない。
 それでも、人は前を向いていた。
 会社へ向かう朝。
 満員電車に揺られながら、私は以前の自分を思い出す。
「今日も満員か」
「電車遅れてる」
「仕事行きたくない」
 そんなことばかり考えていた。
 でも今は違う。
 電車が来る。
 蛇口をひねれば水が出る。
 コンビニで温かいコーヒーが買える。
 家族へ「おはよう」と送れる。
 友達と他愛ない話ができる。
 その一つひとつが、奇跡だった。
 首都圏直下型地震は、多くのものを奪った。
 建物。
 思い出。
 日常。
 そして、大切な人を失った人もいる。
 その悲しみは、決して消えることはない。
 それでも、人は支え合う。
 見知らぬ人へ毛布を掛ける。
 一杯のスープを分け合う。
「大丈夫ですか」
 その一言が、誰かの明日を支える。
 私は家へ帰る。
 玄関を開ける。
 母が笑う。
「おかえり」
 私は少しだけ泣きそうになりながら答えた。
「……ただいま」
 そのありふれた二文字が、人生で一番幸せな言葉になる日が来るなんて、昔の私は知らなかった。
 平和とは、特別な出来事ではない。
 何事もなく「ただいま」と言える一日こそが、何よりも尊い奇跡なのだ。

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