台風コロッケ、六十二個
「過去最強級の台風が接近しています」
テレビの中で、気象予報士が何度も同じ言葉を繰り返していた。
二十六歳の神谷紗季は、リモコンを握ったまま窓の外を見る。空はまだ明るかったが、雲は低く、向かいのマンションのアンテナが落ち着かない様子で揺れていた。
会社からは、昼前に在宅勤務の連絡が来ている。
外へ出なくていい。
食料も昨日のうちに買った。
水もある。
モバイルバッテリーも満タン。
完璧な備えだった。
唯一の問題は、玄関に積まれた大量のじゃがいもである。
「どうして二箱あるの……」
昨夜、スーパーの宅配アプリで業務用のじゃがいもを注文した。確定ボタンを押したところで画面が固まり、反応がなかったため、もう一度押した。
二回とも、しっかり注文されていた。
返品しようにも、今日は配送停止。
紗季の部屋には現在、十キロのじゃがいもがある。
一人暮らしには、ほぼ農地だった。
スマートフォンには、友人からメッセージが届いていた。
『台風といえばコロッケでしょ』
紗季は玄関の箱を見た。
冷蔵庫には、特売で買ったひき肉と玉ねぎもある。
「……やるか」
軽い気持ちだった。
二時間後。
台所は戦場になっていた。
鍋ではじゃがいもが茹で上がり、フライパンでは玉ねぎとひき肉が炒められている。調理台には小麦粉、溶き卵、パン粉。床には、転がって逃亡を試みたじゃがいもが三個。
最初の十個までは楽しかった。
二十個目で無言になった。
三十個目には、自分が何を目指しているのか分からなくなった。
四十個目で、コロッケの形に人格が見え始めた。
「この子は少し内気。この子はたぶん営業職……」
五十個を超えた頃、紗季は疲労でじゃがいもと会話を始めていた。
最終的に完成したコロッケは、六十二個。
テーブルいっぱいに並んだ黄金色の楕円を前に、紗季は腰へ手を当てた。
「勝った」
何に勝ったのかは分からない。
その時、窓が激しく鳴った。
風が一気に強くなり、雨粒がガラスを叩く。ベランダの物干し竿が揺れ、どこかの家から飛んできた青いバケツが、道路をものすごい速さで走り抜けていった。
「バケツのほうが私より足速いな……」
午後六時。
外は完全に嵐になっていた。
紗季はコロッケを三個食べ、四個目に箸を伸ばしかけてやめた。
おいしい。
確かにおいしい。
しかし、残り五十九個。
台風が一週間居座っても食べ切れない。
冷凍庫へ詰めようとした、その瞬間だった。
部屋の明かりが消えた。
冷蔵庫も、エアコンも、テレビも止まる。
突然訪れた静寂の中で、風の音だけが大きく響いた。
「停電……?」
スマートフォンのライトをつける。
廊下から、子どもの泣き声が聞こえた。
紗季が玄関を開けると、向かいの部屋からも一人の男性が出てきた。同じ階に住んでいることは知っていたが、挨拶以外で話したことはない。
彼は片手に大きなランタンを持っていた。
「神谷さん、大丈夫?」
「私は平気。そっちは?」
「電気以外は。ただ、エレベーターも止まったみたい」
階段のほうから、管理人の声が聞こえる。
「一階の集会室を開けます! 不安な方は下りてきてください!」
紗季は部屋を振り返った。
暗闇の中、六十二個のコロッケが静かに並んでいる。
今しかない。
「相良さん」
「うん?」
「コロッケ、持てる?」
「……何個?」
「五十九個」
ランタンに照らされた相良の顔が固まった。
「台風に備える量じゃないよね?」
「事情は後で説明するから!」
二人で大皿と保存容器を抱え、階段を下りた。
一階の集会室には、十数人の住人が集まっていた。
赤ちゃんを抱いた夫婦。
一人暮らしの高齢男性。
大学生らしい若者。
犬を膝に乗せた女性。
さっき泣いていた小学生の女の子は、母親の腕へしがみついている。
そこへ紗季が大量のコロッケを運び込むと、全員の視線が集まった。
管理人が尋ねる。
「それは……備蓄?」
「作りすぎました」
「どれくらい?」
「六十二個です」
「避難所でも開くつもりだったの?」
笑いが起きた。
誰かが紙皿を持ってきた。
誰かがソースを提供した。
大学生はカセットコンロと小さな鍋を出し、冷めたコロッケを温め直してくれた。
高齢男性はラジオを置き、台風情報を聞かせてくれた。
いつもエレベーターで顔を合わせても、軽く頭を下げるだけだった人たちが、暗い集会室で一つのテーブルを囲んだ。
「お姉ちゃん、このコロッケ全部作ったの?」
小学生の女の子が尋ねた。
「そうだよ」
「台風って、コロッケ食べたらいなくなる?」
紗季は少し考えた。
「たぶん揚げ物に弱いんじゃないかな」
その直後、建物全体を揺らすような突風が吹いた。
女の子は目を丸くする。
「まだ食べ足りないのかも」
「じゃあ、みんなでもう一個ずつ食べよう」
住人たちは笑いながら、二個目のコロッケへ手を伸ばした。
風は強かった。
窓は何度も鳴った。
そのたびに女の子は母親の手を握ったが、もう泣かなかった。
集会室にはランタンの明かりと、温かい食べ物の匂いがあった。誰かがそばにいるだけで、嵐の音は少し遠くなる。
「神谷さん」
隣に座った相良が、小さな声で言った。
「これ、普通にすごくおいしい」
「普通に、は余計じゃない?」
「見た時は、何かの研究施設かと思ったから」
「じゃがいもの?」
「大量生産の」
紗季は笑いながら、彼の紙皿へもう一個載せた。
「口止め料」
「おかわりだと思って食べる」
午後十一時を過ぎた頃、部屋の照明が一斉についた。
住人たちから拍手が起こる。
冷蔵庫を心配する人。
スマートフォンを充電し始める人。
エレベーターの復旧を確認する管理人。
日常が少しずつ戻ってきた。
台風が去った翌朝。
空は昨日が嘘のように青かった。
道路には折れた枝や看板が散らばり、例の青いバケツは電柱の根元で力尽きていた。
紗季が外へ出ると、住人たちが建物の前を掃除していた。
昨日まで名前すら知らなかった人たちが、今日は自然に声をかけてくる。
「コロッケのお姉ちゃん、おはよう!」
小学生の女の子が手を振った。
「その呼び方、定着させないで!」
掃除が終わると、管理人がマンションの連絡用グループを作った。
停電や災害時に助け合えるようにするためだ。
参加者の一覧には、いつの間にか全世帯の名前が並んでいた。
相良から個別にメッセージが届く。
『コロッケ、まだ残ってる?』
紗季は冷蔵庫を開けた。
昨夜あれだけ配ったのに、まだ二十一個ある。
『台風は終わったけど』
すぐに返事が来た。
『晴れの日でも有効だと思う』
紗季は少し笑った。
『じゃあ、お昼にどうぞ』
送信した直後、インターホンが鳴った。
相良にしては早すぎる。
玄関を開けると、宅配便の男性が大きな箱を抱えていた。
「神谷紗季さんですね。ご実家からお届け物です」
嫌な予感がした。
箱を受け取り、送り状を見る。
品名には、母の字でこう書かれていた。
『じゃがいも』
箱の上には、短いメモも貼られている。
『台風、大丈夫だった? 食料が心配なので送ります』
紗季は静かに玄関の天井を見上げた。
台風は去った。
けれど、じゃがいも前線だけは、しばらく停滞するつもりらしかった。
テレビの中で、気象予報士が何度も同じ言葉を繰り返していた。
二十六歳の神谷紗季は、リモコンを握ったまま窓の外を見る。空はまだ明るかったが、雲は低く、向かいのマンションのアンテナが落ち着かない様子で揺れていた。
会社からは、昼前に在宅勤務の連絡が来ている。
外へ出なくていい。
食料も昨日のうちに買った。
水もある。
モバイルバッテリーも満タン。
完璧な備えだった。
唯一の問題は、玄関に積まれた大量のじゃがいもである。
「どうして二箱あるの……」
昨夜、スーパーの宅配アプリで業務用のじゃがいもを注文した。確定ボタンを押したところで画面が固まり、反応がなかったため、もう一度押した。
二回とも、しっかり注文されていた。
返品しようにも、今日は配送停止。
紗季の部屋には現在、十キロのじゃがいもがある。
一人暮らしには、ほぼ農地だった。
スマートフォンには、友人からメッセージが届いていた。
『台風といえばコロッケでしょ』
紗季は玄関の箱を見た。
冷蔵庫には、特売で買ったひき肉と玉ねぎもある。
「……やるか」
軽い気持ちだった。
二時間後。
台所は戦場になっていた。
鍋ではじゃがいもが茹で上がり、フライパンでは玉ねぎとひき肉が炒められている。調理台には小麦粉、溶き卵、パン粉。床には、転がって逃亡を試みたじゃがいもが三個。
最初の十個までは楽しかった。
二十個目で無言になった。
三十個目には、自分が何を目指しているのか分からなくなった。
四十個目で、コロッケの形に人格が見え始めた。
「この子は少し内気。この子はたぶん営業職……」
五十個を超えた頃、紗季は疲労でじゃがいもと会話を始めていた。
最終的に完成したコロッケは、六十二個。
テーブルいっぱいに並んだ黄金色の楕円を前に、紗季は腰へ手を当てた。
「勝った」
何に勝ったのかは分からない。
その時、窓が激しく鳴った。
風が一気に強くなり、雨粒がガラスを叩く。ベランダの物干し竿が揺れ、どこかの家から飛んできた青いバケツが、道路をものすごい速さで走り抜けていった。
「バケツのほうが私より足速いな……」
午後六時。
外は完全に嵐になっていた。
紗季はコロッケを三個食べ、四個目に箸を伸ばしかけてやめた。
おいしい。
確かにおいしい。
しかし、残り五十九個。
台風が一週間居座っても食べ切れない。
冷凍庫へ詰めようとした、その瞬間だった。
部屋の明かりが消えた。
冷蔵庫も、エアコンも、テレビも止まる。
突然訪れた静寂の中で、風の音だけが大きく響いた。
「停電……?」
スマートフォンのライトをつける。
廊下から、子どもの泣き声が聞こえた。
紗季が玄関を開けると、向かいの部屋からも一人の男性が出てきた。同じ階に住んでいることは知っていたが、挨拶以外で話したことはない。
彼は片手に大きなランタンを持っていた。
「神谷さん、大丈夫?」
「私は平気。そっちは?」
「電気以外は。ただ、エレベーターも止まったみたい」
階段のほうから、管理人の声が聞こえる。
「一階の集会室を開けます! 不安な方は下りてきてください!」
紗季は部屋を振り返った。
暗闇の中、六十二個のコロッケが静かに並んでいる。
今しかない。
「相良さん」
「うん?」
「コロッケ、持てる?」
「……何個?」
「五十九個」
ランタンに照らされた相良の顔が固まった。
「台風に備える量じゃないよね?」
「事情は後で説明するから!」
二人で大皿と保存容器を抱え、階段を下りた。
一階の集会室には、十数人の住人が集まっていた。
赤ちゃんを抱いた夫婦。
一人暮らしの高齢男性。
大学生らしい若者。
犬を膝に乗せた女性。
さっき泣いていた小学生の女の子は、母親の腕へしがみついている。
そこへ紗季が大量のコロッケを運び込むと、全員の視線が集まった。
管理人が尋ねる。
「それは……備蓄?」
「作りすぎました」
「どれくらい?」
「六十二個です」
「避難所でも開くつもりだったの?」
笑いが起きた。
誰かが紙皿を持ってきた。
誰かがソースを提供した。
大学生はカセットコンロと小さな鍋を出し、冷めたコロッケを温め直してくれた。
高齢男性はラジオを置き、台風情報を聞かせてくれた。
いつもエレベーターで顔を合わせても、軽く頭を下げるだけだった人たちが、暗い集会室で一つのテーブルを囲んだ。
「お姉ちゃん、このコロッケ全部作ったの?」
小学生の女の子が尋ねた。
「そうだよ」
「台風って、コロッケ食べたらいなくなる?」
紗季は少し考えた。
「たぶん揚げ物に弱いんじゃないかな」
その直後、建物全体を揺らすような突風が吹いた。
女の子は目を丸くする。
「まだ食べ足りないのかも」
「じゃあ、みんなでもう一個ずつ食べよう」
住人たちは笑いながら、二個目のコロッケへ手を伸ばした。
風は強かった。
窓は何度も鳴った。
そのたびに女の子は母親の手を握ったが、もう泣かなかった。
集会室にはランタンの明かりと、温かい食べ物の匂いがあった。誰かがそばにいるだけで、嵐の音は少し遠くなる。
「神谷さん」
隣に座った相良が、小さな声で言った。
「これ、普通にすごくおいしい」
「普通に、は余計じゃない?」
「見た時は、何かの研究施設かと思ったから」
「じゃがいもの?」
「大量生産の」
紗季は笑いながら、彼の紙皿へもう一個載せた。
「口止め料」
「おかわりだと思って食べる」
午後十一時を過ぎた頃、部屋の照明が一斉についた。
住人たちから拍手が起こる。
冷蔵庫を心配する人。
スマートフォンを充電し始める人。
エレベーターの復旧を確認する管理人。
日常が少しずつ戻ってきた。
台風が去った翌朝。
空は昨日が嘘のように青かった。
道路には折れた枝や看板が散らばり、例の青いバケツは電柱の根元で力尽きていた。
紗季が外へ出ると、住人たちが建物の前を掃除していた。
昨日まで名前すら知らなかった人たちが、今日は自然に声をかけてくる。
「コロッケのお姉ちゃん、おはよう!」
小学生の女の子が手を振った。
「その呼び方、定着させないで!」
掃除が終わると、管理人がマンションの連絡用グループを作った。
停電や災害時に助け合えるようにするためだ。
参加者の一覧には、いつの間にか全世帯の名前が並んでいた。
相良から個別にメッセージが届く。
『コロッケ、まだ残ってる?』
紗季は冷蔵庫を開けた。
昨夜あれだけ配ったのに、まだ二十一個ある。
『台風は終わったけど』
すぐに返事が来た。
『晴れの日でも有効だと思う』
紗季は少し笑った。
『じゃあ、お昼にどうぞ』
送信した直後、インターホンが鳴った。
相良にしては早すぎる。
玄関を開けると、宅配便の男性が大きな箱を抱えていた。
「神谷紗季さんですね。ご実家からお届け物です」
嫌な予感がした。
箱を受け取り、送り状を見る。
品名には、母の字でこう書かれていた。
『じゃがいも』
箱の上には、短いメモも貼られている。
『台風、大丈夫だった? 食料が心配なので送ります』
紗季は静かに玄関の天井を見上げた。
台風は去った。
けれど、じゃがいも前線だけは、しばらく停滞するつもりらしかった。