祭りは予定どおりにいかない

「ちょっと祭りを手伝って」
 母から届いたその一文を、佐倉灯里は完全に軽く見ていた。
 二十六歳。東京の広告会社で、イベント制作を担当している。
 地元の小さな夏祭りを手伝うくらいなら、受付でうちわを配るか、屋台の釣り銭を数える程度だろう。
 そう思って帰省した灯里を待っていたのは、赤い法被と、一冊の分厚い進行表だった。
 表紙には、太い筆文字でこう書かれている。
『第六十二回ひかり町納涼祭 実行委員長用』
「お母さん」
「なに?」
「私が手伝うって話だったよね?」
「そうよ」
「これ、実行委員長用って書いてあるけど」
「前の実行委員長が腰をやっちゃって」
「じゃあ副委員長は?」
「ぎっくり腰」
「会計は?」
「夫婦喧嘩中」
「祭りより先に、町内会が崩壊してない?」
 母は灯里の肩へ法被をかけた。
「大丈夫。あんた、東京で似たようなことやってるんでしょう?」
「規模も参加者も予算も、全部違うよ!」
「でも、祭りは今日だから」
 恐ろしいほど単純な理屈だった。
 開始は午後四時。
 現在、午前十時。
 神社の境内へ着いた灯里は、まず現状を確認した。
 焼きそば屋は鉄板を忘れていた。
 射的屋は景品だけ届き、銃がない。
 金魚すくいの金魚は、なぜか神社の池を泳いでいる。
 提灯の半分は上下逆。
 本部テントには机がなく、机があるはずの倉庫には大量の座布団が積まれていた。
「どうしてこうなったの……」
 頭を抱える灯里の前を、麦わら帽子の老人が走り抜けた。
「金魚を追えー!」
 その後ろを、網を持った子どもたちが歓声を上げながら追いかけていく。
「追わないで! 余計に逃げるから!」
 灯里の叫びは、誰にも届かなかった。
 彼女は進行表を捨てる覚悟で、白紙のノートを開いた。
 必要な作業を書き出し、優先順位をつけ、人を割り振る。
 東京では、変更が一つあるだけで何度も会議をする。
 しかし、この町では違った。
「焼きそばの鉄板、どこかで借りられますか?」
「肉屋にあるぞ」
「射的の銃は?」
「隣町の祭りから借りてくる」
「提灯を直せる人は?」
「高所作業車なら電気屋が持ってる」
 話が決まるのだけは異様に早い。
 細かい確認をしようとすると、全員がもう動き始めている。
「待って! 担当者の名前と連絡先を!」
「あとでいい!」
「あとで分からなくなるやつ!」
 境内の向こうから、聞き覚えのある笑い声がした。
「相変わらず真面目だな、灯里」
 振り返ると、幼なじみの榊蓮が神輿の横に立っていた。
 高校卒業以来、まともに話すのは初めてだった。
 昔より背が高くなり、黒い法被が妙に似合っている。
「蓮、今までどこにいたの?」
「神輿の修理」
「壊れてたの?」
「去年、曲がり角で電柱にぶつけた」
「神輿って交通事故を起こすの?」
 蓮は笑いながら、灯里の持つ進行表を覗き込んだ。
「まだ、それどおりにやろうとしてる?」
「当たり前でしょ。予定がなかったら祭りが回らないよ」
「地元の祭りは、予定どおりに始まらないし、予定どおりに終わらない」
「最悪じゃん」
「でも毎年、ちゃんと祭りにはなる」
 灯里には理解できなかった。
 午後三時半。
 どうにか屋台は並び、提灯も正しい向きになり、金魚もほとんど回収された。
 残り二匹は、すでに神社の池の主のような顔をしていたため、諦めた。
 ところが開始三十分前になって、新たな問題が起きた。
「太鼓の子がいない!」
 子ども会の世話役が、本部へ駆け込んできた。
 祭りの開幕では、小学生による太鼓演奏が予定されている。
 その中央で大太鼓を叩くはずの少女が、集合場所から姿を消したという。
「名前は?」
「山岸ひまりちゃん。小学四年生。黄色い浴衣」
 灯里はスタッフを分け、境内と商店街を捜した。
 神社の裏。
 公民館。
 屋台の隙間。
 どこにもいない。
 やがて蓮が、境内の端にある古い倉庫を指さした。
 扉の陰から、黄色い袖が少しだけ見えている。
 灯里が近づくと、小さな女の子が膝を抱えて座っていた。
「ひまりちゃん?」
 少女は顔を上げた。
 目には涙がたまっている。
「太鼓、嫌になった?」
 灯里が隣へ座ると、ひまりは小さく頷いた。
「失敗したら、みんなに笑われるから」
「私なんて今日だけで、もう何回も失敗してるよ」
「大人なのに?」
「大人のほうが、たくさん失敗するんだよ」
「怒られない?」
「怒られる。でも、忙しいからすぐ忘れる」
 ひまりが少しだけ笑った。
 灯里は境内を見渡した。
 逆さだった提灯。
 借り物の鉄板。
 隣町から届いた射的の銃。
 池に居座った二匹の金魚。
 完璧なものなど、一つもない。
 それでも、祭りを始めるために、みんなが走り回っていた。
「間違えてもいいよ」
 灯里は言った。
「お祭りって、上手にやるためじゃなくて、みんなで楽しく失敗するためにあるみたいだから」
 倉庫の入口で聞いていた蓮が吹き出した。
「実行委員長が、それ言う?」
「今日だけで考え方が変わったの!」
 開始五分前。
 ひまりは太鼓の前へ立った。
 境内には、浴衣姿の親子や、近所の住人が集まっている。
 灯里は本部テントから時計を見た。
 午後四時。
 予定どおりだ。
 奇跡だった。
 ひまりが大太鼓のばちを振り上げる。
 その瞬間。
 空が光った。
 続いて、大きな雷鳴が響く。
 一秒後、激しい雨が境内へ落ちてきた。
「嘘でしょー!」
 灯里の叫びと同時に、人々が屋根の下へ走り出す。
 提灯が揺れ、屋台の店主たちが慌てて商品へシートをかぶせた。
 焼きそば屋のおじさんが叫ぶ。
「鉄板は守れ!」
「人を先に守って!」
 十分後。
 境内には誰もいなくなった。
 雨は強く、太鼓の音どころか会話も聞こえない。
 灯里は本部テントの中で、濡れた進行表を見つめた。
 紙に書かれた文字が、少しずつ滲んでいく。
「中止かな」
 誰かが呟いた。
 その時、商店街の放送設備から雑音が流れた。
 続いて、八百屋のおばさんの声が響く。
『屋根のあるアーケードを開けました。祭りを続ける人は、こっちへどうぞ!』
 その直後、肉屋が大きなテーブルを運び始めた。
 電気屋は延長コードを伸ばす。
 酒屋は空のケースを椅子代わりに並べる。
 屋台の店主たちは、鍋や鉄板を抱えて商店街へ移動した。
 子どもたちは濡れながら笑い、提灯を一つずつ運んでいる。
「ほらな」
 隣に立った蓮が言った。
「予定どおりにはいかない。でも、祭りにはなる」
 灯里は濡れた進行表を閉じた。
「太鼓も運ぶよ!」
 アーケードの中央へ太鼓が置かれた。
 ひまりが再び、その前へ立つ。
 観客との距離は、予定よりずっと近い。
 屋台の湯気。
 雨の音。
 提灯の明かり。
 町の人たちの笑顔。
 ひまりのばちが、大太鼓を叩いた。
 ドン、と低い音が商店街に響く。
 一度。
 二度。
 三度。
 途中で少しだけ拍子がずれた。
 けれど、誰も笑わなかった。
 代わりに、大きな手拍子が起きた。
 ひまりは泣きそうな顔で笑い、最後まで太鼓を叩き切った。
 やがて雨は弱まり、濡れた道路へ提灯の光が映った。
 祭り囃子が流れ、人々が狭い商店街で盆踊りを始める。
 灯里は本部代わりの青果店の前で、ようやく息をついた。
 母が焼きそばを持ってくる。
「実行委員長、お疲れさま」
「二度とやらない」
「来年もお願いね」
「今、二度とやらないって言ったよね?」
 スマートフォンが震えた。
 町内会のグループチャットへ、新しく追加されている。
 グループ名は、
『第六十三回ひかり町納涼祭』
 さらに灯里は、管理者に設定されていた。
 隣を見る。
 蓮が何食わぬ顔で焼きそばを食べている。
「蓮」
「なに?」
「私を管理者にした?」
「来年は、最初から予定を組んでもらわないと」
「祭りは予定どおりにいかないんじゃなかったの?」
「予定を立てる人は必要だから」
「一番ずるい理屈!」
 灯里の声は、太鼓と笑い声にかき消された。
 雨上がりの町には、焼きそばと綿あめの匂いが漂っていた。
 子どもたちは走り、大人たちは笑い、池では取り残された二匹の金魚が、祭りなど最初から関係ないという顔で泳いでいる。
 祭りは予定どおりにいかなかった。
 だからこそ、来年も話したくなる一日になった。

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