百五十円の奇跡

「えっ……また安くなってる」
 スーパーへ入った瞬間、私は思わず立ち止まった。
 牛乳。
 卵。
 パン。
 コーヒー豆。
 どれも先月より安い。
 数週間前、ニュースは毎日のように同じ話題だった。
「各国の協調為替介入により円高が進んでいます」
 難しい言葉だった。
 でも、スーパーの値札だけは誰でも読めた。
 会社帰り。
 私はいつものように買い物かごを持つ。
 半年前なら、一番安い商品だけを選んでいた。
 今日は違う。
「今日はお肉にしようかな」
 そう思えた。
 それだけで少しうれしい。
 レジへ並ぶ。
 前にいた小さな女の子が母親へ言う。
「ママ」
「今日はプリン買っていい?」
 以前なら少し困った顔をしていたお母さんが、今日は笑って頷いた。
「一個だけね」
「やったー!」
 その声を聞いただけで、店中が少し明るくなった気がした。
 帰り道。
 商店街には久しぶりに行列ができていた。
 たい焼き屋。
 定食屋。
 八百屋。
 みんな笑っている。
 ラーメン屋のおじさんが叫ぶ。
「替え玉無料!」
 誰かがツッコむ。
「景気良すぎ!」
 店中が笑った。
 数日後。
 私は母を外食へ誘った。
「急にどうしたの?」
「最近ちょっと余裕できたから」
 母は照れ笑いする。
「じゃあ今日は遠慮しないよ」
 運ばれてきたハンバーグ。
 湯気。
 笑顔。
 たったそれだけなのに、胸が熱くなった。
「やっぱり、お店で食べるご飯っておいしいね」
 母がそう言う。
 私は頷く。
「うん」
 帰り際。
 コンビニへ寄る。
 アイスを二つ買う。
 レジで財布を開く。
「あれ?」
 まだ千円札が残っていた。
 半年前なら考えられなかった。
 家へ帰る。
 ニュースでは専門家が難しい顔で分析している。
「円高基調が…」
「為替市場は…」
「国際協調が…」
 私はテレビを消した。
 専門用語はよく分からない。
 でも、一つだけ分かる。
 今日の夕飯に笑顔が増えたこと。
 スーパーで値札を見るのが怖くなくなったこと。
「今度旅行でも行こうか」
 そんな話ができるようになったこと。
 円相場は数字で表される。
 でも、その数字が変わるたび、本当に変わるのは人の生活なのかもしれない。
 私は冷蔵庫からプリンを取り出した。
 スプーンを入れる。
 一口食べる。
「甘い」
 プリンは何も変わっていない。
 変わったのは、安心して買える自分の毎日だった。

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